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時間は未来から流れている?

厳密には過去や未来という時間はないので、そういう意味では時間は未来からは流れてはいない。
けれど、すべてが集約されて今ある。
今あるけれど見えない未来のエネルギーに導かれて常に動いている。


すべてはフラクタル構造になっている。
それを宇宙のビッグバンで例えれば、人間が生まれた瞬間=ビッグバンと同じだ。
ビッグバンとともにすべてが出来上がっているので、人も生まれた瞬間に未来(といわれているもの)も出来上がっている。
さらには毎瞬ビッグバンが起きている。

と書いているが、ビッグバンて事実なのかどうなんでしょうかね。
話しがタイトルから逸れているので、ビッグバンの事実はさておき、世の中の仕組みを少々。

起きるということ自体がエネルギーの動き。
しかし、自分で何か起こそうとしなくても起きることもあり、それは自覚のないエネルギーの動きだ。

何か起きてほしいことがあって、でも実際に現実にならない時は、その質のエネルギーをその人が持ち合わせていないということだ。


最近は時間は未来から流れている といっている人もたくさんいるし、そういう映画もある。私も人間が定めた時間という概念的にはそうだと思うものの、事実としては違うと思っている。

時間は存在するものではないので、未来から流れるというのは少し違う。
流れているというより体が勝手に動いているだけだ。
それを過去から未来に流れていると感じている ということ。


すでに存在しているもの(未来)の間を転々と?次々と、体が瞬間移動している(止まっているときもある?)ということではないかと思う。
よくビリヤードに例えられるけれど、最初のショットの瞬間にボール(とは言わないか)の位置が決まる(計算できる)ことと、ビッグバンは同じだ。

すでに決まっているポジションに向かって、ボールは動く。
人間もすでに決まっているポジションに向かって、日々動いていると言えるが、ボールは数学の理論上たどっていく順路と結果がわかる、それに対して人間の人生は(数学でわかるかは不明ですが)占星術という科学によってわかる と私は思っている。

それくらいインド占星術のチャートは人生を表してしまう。

ただ、決まっているポジションに向かっている 
という、目的地があるかのような「向かう場所」は人にはない。

全てなくて、全てある。

私の中ではその結論に至ってしまっているので、そこから見ると過去も未来もなく、今という一瞬があるだけで、場所が存在し続けることはできない。


ビリヤードのボール(笑)も目的地に向かっているという意識があるわけではないので、決まったとおりに動いているだけ。
そのありさまは、科学的に言えば量子が動いているだけだ。
規則性・法則性は何にも通ずるものがあり、フラクタルであることから、人もボールも変わりはない。

向かう場所がある方が、人にはモチベーション的に良いのは確か。
だからこそ、向かう場所かのように未来を定めたりします。
それは頭で考えたストーリーがあるがゆえであり。

いつも思う。
人は決められた人生をただ過ごしているのだと。

インド占星術の出生チャートは生年月日と、出生時間、出生地を用いる。
選択肢はあるようでないことになるし、シナリオ通りにチャートに描かれていることは自然に起こり、チャートにないことは起こりようがない・・と。

それがわかると、人生はとても面白くてつまらなくなる。
つまらないようで面白い。
悩むこともできなくなるし、没入感によって喜怒哀楽を体験もできる。
人が没入感を好むのは、本能的なものだ。

過去と未来という言葉を使うならば、過去と未来の交差点が現在。
でも永遠の現在で、想像もつかないほど大きな大きな宇宙から見たら人の人生なんて小さな点の一つにしか過ぎない。
でも人から見たら長い長い時間に感じる。

アインシュタインの言う、空間の歪み。
重力と時間がどう作用しているかは私にはまったくわからない。
けれど、
すでに一瞬に出来上がっている人生が、今にぎゅっと押し込められているような感じ。
例えるなら、人生が描かれている本がジャバラ状になっていて、秩序なく動いているジャバラ本。
すでに未来も過去も今あるのだ。
ジャバラのように折りたたんでいるだけで。

人生はテーマパークにある迷路のようなもの。
上から見れば、構図は一目瞭然で。
しかし迷路の中にいる人には迷宮でしかなく、出口という場所に向かって右往左往する。


相変わらずだけれど、真理を書き示すことはできない。



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