誤読のフランク 第27回 チャリティボール、手羽先、オレンジホイップ、立ち食い屋
Charity Ball - New York City
チャリティーボールってなんだ?
英辞郎だと「慈善舞踏会」ってある。
??ちょっとイメージ湧きにくい感じ。って、もう少し調べてみたら、だいたい分かってきた。
例えばこんなの。
https://youtu.be/WDvjbOsYDLo
あー。コレ日本にはない文化だわ。チャリティーを名目とした大人の社交界でダンスありショーあり、食事ありの金持ちイベント。日本にあるとしたら料亭で芸者呼んで飲み食いみたいな感じですごくこじんまりとしてるワケで、あったとしても(戦前の)皇室のイベントで迎賓館でみたいな感じだったんじゃないかな。日本においては社交界は密室である。いわゆる社交というのは、そもそも相容れないのかもしれない。アメリカンズが描いたアメリカの社会は、パブリックが存在している。
簡単にいってみればダンスパーティだよね。プロムとかのはしりで。
あー、あった、政治家の政治献金目当てのパーティ。パーティ券が献金替わりの。でもそれってチャリティーじゃない。
こういうのもあるね。有名人主催のダンスパーティ。ジョーディマジオ。
http://stuffnobodycaresabout.com/2013/11/04/j1956-joe-dimaggio-and-hollywood-stars-attend-a-charity-ball/
モンローも当時の映像見たらいろいろでてくる。アメリカンズ、出版された時が時なら、モンローとかケネディとか載ってたかもね、なんて思ってしまう。
こっちは結婚ほやほやのグレースケリー。
チャリティーボールは今も盛んに開催されている。
仕掛け人がいて、リッチなホテルで、貧しい子供たちに対してチャリティーでお金集めて、ホテルの宣伝と社会貢献をやってイメージアップ!
って、こういうアメリカの商魂たくましい様子はすごいけど、凄いのはこうしたことで、ちゃんと貧しい子供にお金が回る仕組みをつくっちゃうことだろうなー。日本じゃありえない。とかいろいろ考えさせられる。
で、この人たち誰なんだろう。わからないけど。
気になるのは手前右下の冊子。これもわからない。。。
ウィリアムクラインも同じ頃に撮ってる。
https://www.artsy.net/artwork/william-klein-charity-ball-waldorf-ball-new-york
あークラインだわ、という写真。
こうして見ると、クラインとフランクは全然、違う。面白い。
Cafeteria - San Fransisco
労働者風の男。これは貧富の対比か。とはいえ鳥の足とサラダと酒とちょっと美味そうだけど。
カメラ目線。そういやチャリティボールの写真はこっち見てない。フランクはここでもこの男と一緒に食事をしているように見える。セレブのパーティでもオッケー、労働者ともオッケーなフランク、この並びだけでも懐は深いように見える。
この1枚しか見てないけど、クラインの写真からはクラインはチャリティーボールのような場所はむしろ居心地悪そうに感じる。
サンフランシスコ。考えて見れば、この写真、レッドパージのvictemってなってたかも?なんて思ってしまうのは、この男は何となくイタリア系とかで赤狩りにあって職を奪われたみたいな感じもする。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/マッカーシズム
Drug store - Detroit
これは同じ時期のデトロイトの自動車工場の近くだろう。デトロイトの写真は労働者の写真だ。仕事前の一息か、休憩時のひとときか。客は白人が多い。同じデトロイトの写真で、黒人が工場の脇に座ったものと対比しているのかも知れない。どちらにせよ、裕福とはほど遠い労働者の姿だ。
彼らは手前のシフォンケーキみたいなのを食べてるのかたべてないのか。
このオレンジホイップってどんな味なんだろ?
奥のほうの男たちはこっちを(ロバートフランクを)見ている。
リッチなチャリティボール、まあまあ美味そうなカリフォルニア。薬屋併設のカフェ? 段々食の楽しみが減衰してゆく。
Coffee shop, railway station - Indianapolis
ケーキつながりか。食のシークエンスの最後は駅の立ち食い。
こちらを見てる女性の脇の立ってるストローだかなんだかが、どうしても割り箸に見えてしまうのは、駅の立ち食いそばに頻繁に通ったことのある人間の性なのかもしれない。
これもこっちを見てる。
そしてこれ、労働者の写真だよね。このシークエンスは。
チャリティーボールまでの3枚は手に職を持たなくて、汗水かかずに生活している人であって、それに対比するように、僅かな金のために働く人々という視点もあるだろう。
こうしてみると、アメリカンズの構成は、始めの頃はアメリカ人が見てる行為が多かった、やがて、アメリカ人が見てる景色や風土が写真の題材になって、非常に重たい主題が続き、アメリカンズの目の写真、大きなチューバの写真から後は、アメリカ人に見られてる主題が続いている。
この4枚のシークエンスは、まとめるなら食事か。それとともに、見られてるという、視線を強く感じる写真である。(チャリティーボールは、写真に撮られているのを知ってて、あんな風な動作をしているのだ。)
この時代のカメラマンは手に汗をして働く人々の側だろうか、それとも。
これは言ってみれば「あなたはだあれ?」ってことではないだろうか。前にも書いたけど、見ているうちに、いつの間にか見られているという地点にたどり着いている。写真を見る側も、いつの間にか見られているという感じで、段々、居心地が悪い気分に陥りやすいのではないか。
僕らが写真を見るとき、写真が訴えかけてくるものを感じるとき、僕らはその写真を自分の物語として置き換えて見ている。置き換えて見ること、写真が作り出す視線に同化することが、人間の視野の働きの第一にやってくることだ。つまり、いちまいいちまい写真をめくりながら読者はロバートフランクが見ていた視線から、ロバートフランクが見られていた視線に同化し、ているということに気付くという、本の構成なのだ。
この視線、特にこのコーヒーショップの女性が投げかける一瞥は、どこの国においても誰だって経験したことのあるような一瞥なのではないだろうか。
またそれは、僕らは同じような一瞥をだれかに与えていることと同意だ。
「あなたはだあれ?」
それは写真をものする人々にとっては60年前と変わらぬ問いかけであるかも知れない。
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