誤読のフランク 第28回 チャタヌガチューチュー。
Chattanooga, Tennessee
頭に浮かんだチャタヌガチューチューってなんだったっけ?って思ったら、グレン・ミラーでした。
chattanooga choo choo
https://youtu.be/bGBwmLRNLJ4
そういや、余談だけど、チューチューって何かとずっと思ってたけど、汽車が水蒸気を発しながら走るその音の様子を赤ちゃん言葉で表現したもの、だった。カタカナで表現すると、シュッシュシュッシュッみたいな感じ。だから「チューチュートレイン」とか「チューチューブギ」とか古いアメリカ音楽のタイトルでよくある表現は汽車だとして覚えとくといい。こんなのテストに出ないけど。
本題。カップル。人種が違うカップル。
Why mixed marriages are inadvisable
ってAwake! のところで書いてあった。いま、2018年の11月上旬。中南米諸国からアメリカ目指して大量の移民が発生してて、大問題になっている。彼らは徒歩でアメリカに渡ろうとしているようだ。2014年辺りからシリア難民がヨーロッパを目指したのに次いでの人口の大量移動。今度は何故始まったかまだ分からないみたい。
でね、余談だけど、人種は入り交じる方が良いと僕は思ってて、というかヨーロッパあたりだと当たり前だろうし、民族が違うほどコミュニケーションは深まらざるを得ないし、血が混じれば混じるほど美しいと思っている。
藤代冥砂の「ライドライドライド」は、どこでも男と女はチンコとマンコだ、みたいな潔さで名作だと思う。
そして、アメリカが何故アメリカであるのかと言う点は、この多様性が存在している点にほかならないと思う。2018年終わり、2019年にはこの大移動がどうなるかわからない。インターネットが爆発的に発達して(もしくはWindows 98 が発売されて)20年。世界中にインターネットとスマートフォンがある程度普及し、情報の拡散化の速度は何倍にも早くなった。
しかし人々の歩く速度は変わっていない。
たとえば、みんな違ってみんないいと言われながら、日本では目に見えるようには社会は変わっていない。むしろ情報の爆発と反比例するように、懐古的な価値観が席巻してないか? 情報と金銭の貧富の格差が広まるにつれ、持つ者たちは世界中を飛び回り、持たざる者は自身の周り3mの地点で満足してはないだろうか。貧しくてそれ以上遠くに行けず、身の丈を知れとテレビのプロパガンダに押しつぶされそうになりながら生きてはいまいか? あまりに貧しい自分の生活に絶望的になりどん底の気分のまま長いことさまよったから、僕は社会のある種のかくあるべき姿というものが信じられない。家族の暖かみを知らずに育ったから、日本人こうあるべしなんてのが絵空事のように聞こえる。テレビはそのこうあるべしという共幻想の再反復をずっと続けているように思えて、その抑圧に這い上がれないほど落ち込んで10数年前に捨てた。拾ったテレビだったが。ああ、こんな世界は絶望だ。生きることに夢はない。暗闇だ。地獄だと、地べたを這いずり回る。
あれから長いこと経ったけど、テレビは相変わらず典型的な日本人の思考を規定してるみたいだ。多様性を肯定すると公言しながらも、全く多様性を考慮していないように見える。もちろん、アメリカ型の多様性が正しいとも、全く思わないが。アメリカのは差別と殺戮の歴史だというのは今まで見てきた通り。
ちょうどさっき「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」を観た。
内容はマイケルムーアが世界中のあちこちに行って成功してる社会のあり方(教育制度、労働、犯罪や医療、社会活動など)の良いところをみてくるという映画で、そのアイデアの元になったのはアメリカにあった、というオチなんだけど、町山智浩の解説が凄く分かりやすいからリンクを貼っておく。
https://miyearnzzlabo.com/archives/37714
で、この解説で話があがってる<アメリカ独特の例外主義(エクセプショナリズム・Exceptionalism)って言われる、独特の考え方なんですね。それは、「アメリカは神が我々に与えた約束の地で、最終的なゴールだからそれ以上先はない」っていう考え方>。だから、外の国には興味がないという話。
あー、これこれ。
これ、すごく分かるような気がする。「自由で、生まれが貧しくても、努力すれば大統領にでもなることができる」というアメリカ。日本人が戦後、ギブミーチョコレートってチョコレートを貰って「自由の味だった」と言われたアメリカ。
カウボーイがNYに向かう理由、キングコングがNYに向かう理由、中南米から列を成して大量の、数千人にものぼる規模の人々が徒歩でアメリカに向かう理由のひとつに、そうした憧れが大量に含まれていないか?
東京だって大して変わらない。現実は違う。多様性はあるが世界は分断されつつある。内側を見続けて失われた20年が30年になろうとしている。
SNSの普及と共に、個人が接触するインターネットの世界の多様性は、急速に失われていっているといわれ続けている。個人が消費できる情報量を圧倒的に越えた情報の波と、強大なテクノロジーの仕組みの中で、僕らはインターネットの中にさえ行き場を失ってしまった。かつてあったカウンターカルチャーとしてのインターネットは消えてしまった。社会システムの再現が行われ、インターネットの夢を食いつぶしてしまった。音楽は検索したものに似た曲をオススメをされたり、動画を見れば見知ったものに近いものを次々にオススメされたり、映画を観ても「〜を観た人はこの映画を観ています」と言われたり、気がついた時には、同じ興味の範疇から逃れられなくなっていることに気がつくのだ。自分の知らないことを知ること、新しい価値観に遭遇することは自由の第一歩だったはずなのに。もう僕たちは、アマゾンのオススメとYoutubeの関連動画と、Facebookやインスタグラムの馴れ合いアルゴリズムの網の中から抜け出せないでいる。そして、それはTwitterをやれよ、というのではないことは、もう十分承知だ。
あらゆることが選択自由で、縛られている仮想の自由。僕らは最終的な楽園にたどり着いてしまったのだろうか?
余談が過ぎた。
で、この写真だ。1950年代にはどれだけ夢があったのだろうか。先住民差別、アイリッシュ差別、メキシコ中南米差別、白人国家の目処が大体付けば、次は連れて来られた者たち、黒人差別、禁酒法時代があれば、次はアジア人差別、戦争が始まれば、日系人を強制収容所に入れ、赤狩りレッドパージ、クレオール差別、黒人民権運動が終われば(まだ終わってないと見てもいいけど)、やれ、イスラムだ、LGBTだと、常に敵を探している。
アメリカ人とは何か。皮肉な物言いで考えると、常にアメリカ的でない人々に対して敵意を持っていることによって、アメリカという国が、逆照射されている。常に他者への対立構造を打ち立てなければ、我々は我々であると規定出来ないのである。なんだ、それって案外インターネットそのものじゃないか。僕らは狭い世界で他者への憎しみと羨望によって、なんとか生きながらえてる。同じことはこのアメリカンズにも言えるのではないか?
当初、アメリカンズが発表されたとき、「アメリカ的」ではないと非難を受けたと聞く(今回、まだロバートフランク自身についてはまだ調べていない)。それもそうだ。アメリカンズとして纏められた一冊の中のかなりの人々が、白人ではない。暴言を承知でいうと、アメリカ社会を構成する人々のうちで力を持つのは、60年後のいまでも白人だ。写真が美術館やギャラリーで扱われるようになりはじめた時代、主な顧客、写真を取引する人々の多くは白人だった(いまでも変わらないだろう)。あるモノごとの価値観を決めるのは白人だった。そうした人々にとっては、アメリカとは白人社会だ。
しかし、この写真集が描いたのは多民族であり、様々な軋轢の歴史であったことは、ひとつひとつ見つめればおのずとわかる事柄である。だからこそ嫌われたのだろう。公民権運動が本格的に始まる時期。アメリカは多民族であることを、軋轢の歴史を受け入れる準備段階にあったのだ。その季節の変わり目に様々な要素、人種を含み、撮影され、出版されたこの写真集は、だからこそマスターピースとして未だ輝いているのだろう。
今のアメリカは(世界は、日本は)mixed marriages are advisable という風にいえるだろうか。価値観の違う人々と共に歩くことができるだろうか。
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