名と人間関係
名前、それはこの世に生を授かり
親が子に与える最初のプレゼントだ
なんて俺は親に言われたわけですが
想起してみれば己が生涯を振り返りつつ名前で呼ばれることって少ねぇななんて思ったことにこの記事は端を発しておりやす
名がある以上他人から呼ばれることは必定とも言えるべきですが
こと世間に置いて
他人からどう呼ばれるか
これってなかなか厭らしい問題ではなかろうかと思うわけです
ゲームの世界とは違い他人からの好感度を視覚化することは能わず
日々の人間関係は事象をもって推し量らねばならない俗世
受けた言葉
与えた言葉
受け取った物
与えた物
共だって経験した事象
を堆く山積した高さがそれ即ち好感度足り得るのではなかろうかと思うわけです
それに伴い呼ばれ方も関係性も移り変わっていくのが人の生なのかなと達観したかの如き物言いをして見るわけですが・・・
しかして他者からどう呼ばれるか
こいつは上記の経験や体験を含めて推移していったり、
或いは、あだ名という場合もあるかもしれませんが
この視覚化されぬ世の中で好感度や興味を指し示すバロメーターたり得るんじゃないかなと思ってるわけです
いつ外的・内的要因で終わるとも知らぬ人生に置いて
好かれてもいない人間に拘ってる場合ではない
ってのがまぁ勝手な持論なんですが
これは自分で終わらせる可能性が有る人間にはよくわかるかもしれませんけども・・・
それを思えば、現状視覚的に好感度を明示するバロメーターが無いのであるならば名や呼ばれ方を拠り所として
関わる人間、周囲を固めるコミュニティの形成を一助としていきたいなぁと改めて思うわけです
人間、やっぱ万人には好かれないし
万人は愛せないからよ
俺だよ