これは自分のための言語化と遺書①
死ぬつもりはないけれどいつ死ぬか分からないので全てが遺書のように思えてきた、どうも大内彩加です。
さて世の中はくそみてえな性加害と二次加害と金と利権と戦争で溢れていますが皆さん如何お過ごしでしょうか。オタクしていますか?私はしています、オタク。なんならオタクしかしていないので元気になってきました。自分の回復のために必要なプロセスだったように思います。
大体、なんでもかんでも正直に書かないと気が済まない性質なので素直に書きます。自分がされたことが性暴力、性加害であったこと、レイプであったこと、本来あってはならないことだと心の底から自覚した時から今の今まで、というかこれからもなんでしょうけれどずっと苦しかった。大好きな舞台も、映画もドラマも見られなくって、本も読めなくなって、2022年3月、最後に劇団で出演した舞台の時には人の声が聴こえなくなっていました。呼吸の仕方も分からず、どっちの足を出したらここから離れることが出来るのか、そもそも、どうしたら助かるのか、「終わる」のか、すごく悩んで、考えて、私のやっているお芝居が正しいのか間違っているのか全くわかりませんでした。当時の公演は3チーム制だったので3パターンのお芝居があり(いわゆるトリプルキャストですね)、私が出演したチームが面白くなかったという方もいれば「一番よかった」と言ってくれる方もおり、まあそのときの稽古のことは裁判書面でも話していますから何があったかは東京地方裁判所に行って読んでくれという気持ちもありますが勿論書けていないことも沢山あります。本当に、しにたかった。骨を折りながら公演を駆け抜けたこと(私はこの駆け抜けた、という表現が大嫌いですが敢えてそう書きます)。本番直前、公開稽古の芝居の最中にお客様の前で骨を折ったこと。折ったことを谷に話したときに返された言葉がずっと頭から離れません。ばかほどくるしい、私だけではなく、今までの劇団員たちのことをなんだと思ってんだ、おまえの、お前の駒じゃない、みんな人間だったのに、なんで。すんげえぐちゃぐちゃなまま、骨を折ったことがお客様にばれないようにどうするか工夫して、とはいえお芝居しているときも馬鹿痛くて、でも、そんな物理的な痛みよりも人ならざるもののままお芝居をしていることが苦しかったです。
私が裁判をするきっかけになったのはその時のことではなく、もう少しあとのことではありますがそれに関しては各メディアでも言っているし調べりゃ出てくるけれど適当なまとめサイトを読んで二次加害してくるのはやめてください。一次情報をあたろうな。
舞台、観られなくなりました。
いや観るよ、観るけれど、つらい。
ダルカラにいたときも知ってはいたけれど、それ以上に告発・裁判をしてからというもの沢山情報が入ってきて、やれあそこの劇場はハラッサーだ、あの俳優にやられたあの演出家にやられたあのプロデューサーにやられたあの、あの、あの。私は、知っているから取捨選択ができます。知らないこともたくさんあるけれど、でも、そうじゃない人たちは?その人達の元で芝居をしている人たちは?その人達の創った芝居を観ている人たちは?
知らないで、観ている。
私も知らないで観てきたこと、たくさんありました。
私はお客様にもう嘘をつきたくない、加害を隠し通したくない一心で出来得る限りの速さで提訴に至りました。でも、それで公演が中止になって、あのときのわたしは、間違っていたんだろうか。
あとこれは、最近、とある俳優、元共演者にこぼしてしまった愚痴です。
舞台に立っている俳優たちが羨ましい。全員じゃないです。ダルカラの劇団員たち、元劇団員たち、元共演者たち。あなたたちは、元気にしていらっしゃいますか。どうしたってどす黒い感情が溢れて溢れて止まらなくて、知っていたじゃないか、知っていて、なんで、という人も中にはいて、勿論知らない人も大多数でしょうがすごく、今でもくるしい。
裁判で陳述書という形でご協力いただいた方も何人もいらっしゃいます。重ね重ね、本当に、ありがとうございます。
あのね、芸能界でそういった被害に遭った人がどれだけ声をあげるのが大変か。頼むから他の被害者に二次加害しないでくれよと思うのは私が自分で裁判をやっているからなんだと思います。事務所も、頼むから口止めさせるだけじゃなくて被害者のメンタルケアをお願いします。被害者は被害を口にして初めて回復の糸口がつかめる場合もあります。言語化が何よりも大事です。被害者の口をふさぐこと、これは何よりやってはいけないことです。俳優は事務所にとっては商品でも、その前にひとりの人間です。
これはある一人の方を思って書きますしその人が最近の二次加害を見て苦しんでいないか不安なので書き留めておきます。
大前提として私はテレビ、雑誌、ラジオ、新聞等の取材を受けてきましたが一銭も貰っていません。今でもそうです。情報提供料?なんですかそれ。そんなものはありません。告発というものはお金になりません。
私も弁護士に相談する前は週刊誌に情報を持っていこうと考えたことがありました。それには考えがありました。「自分と同じ加害者から、同じような被害に遭った人はいないだろうか」「同じように声をあげたい人がいるんじゃないだろうか」「被害を伝えることによって加害の抑止力にはならないだろうか」「声をあげることによって同じように被害を受けた人が出てきて一緒に闘えるんじゃないだろうか」「助けてもらえないだろうか」
そんな考えです。
お金のことなんて頭に一切ありません。なると思っていないので。
私はレイプされたとき、ワンストップセンターや警察に行くという発想が出てこなかった人間です。今でこそ理解していますがワンストップセンターを知らなかったし、「警察に行ったら奥様とお子様が苦しむんじゃないだろうか」「家庭を崩壊させてしまうんじゃないだろうか」「舞台の本番が止まってしまうんじゃないだろうか」と思って警察には行けませんでした。私は奥様と仲が良いのに、奥様を理由にして動かなかった、私は最低な人間です。
最終的には週刊誌に相談するという考えには至らず、「自分が受けて来た加害がどれくらい酷いものなのか専門家に聞いてみよう」と弁護士に相談したいという気持ちが第一になったので今があります。
私と同じような考えの方、たくさんいるんじゃないでしょうか。
正直なことを言ってしまえば2018年から2021年くらいの私は「加害者が死んでからじゃないと告発も出来ない」と思っていました。死んでからようやく言える、と思っていました。生きているうちに言って報復されることも怖いですし、殺されるかもしれないですし、そもそも俳優という仕事が出来なくなると思っていました。
その恐怖はまあ、この先もついてまわるんですが。
なんで加害者が死んでから言っちゃだめなんでしょうか。
なんで加害者が生きているうちにじゃないと被害申告しちゃだめなんでしょうか。
なんで警察に行かないという選択肢を責められなければならないんでしょうか。
なんで週刊誌に駆け込んじゃだめなんでしょうか。
被害者がした選択を止める権利が我々にあるんでしょうか。
加害されなければ被害者は苦しまずに済んだのに、なんで被害者の選択を他者が責めるんでしょうか。それが二次加害だと分かっていないまま相手を責めている方も沢山いますが被害者は既に十分苦しんで、死ぬまで苦しんで、死んでからも苦しむ可能性があって、なにをこれ以上背負わなければならないんでしょうか。警察に行けばよかった?ああそうだね、でもそれもう何度も後悔したよ。そんな場所に行かなければよかった?だとしてもその言葉に返す言葉は「加害者が加害しなければよかった話でしょ」。
被害者にとっての「死んでからじゃないと言えない相手だった、それくらいの加害を受けて来た」「言いに行ける場所が週刊誌しかなかった」「いまになってあの時受けた物が性暴力だと知った」を、あなたは理解できますか?理解できなかったとしても、被害者を傷つけるのではなく、想像し、寄り添う事は出来ないでしょうか?二次加害は日本がどれほど性暴力やハラスメントに関して理解や対応が遅いかの現れだと私は思います。
そして本来は上記の「」内の言葉を口にするのも憚られます。被害はその人自身のものであり、その人の傷はその人だけのものであり、他者がその人の傷をそのまんまトレースすることは出来ないからです。だからこそ、他者の被害や痛みを他者が推測して書くものではないと私は考えています。ですが敢えて書きました。二次加害は人をも殺すものだと自覚してほしいからです。
私の裁判ですが、第七回期日が終わりました。裁判って長いですねえ。でも有難い事も沢山あり、ちゃんと進んでいます。それは裁判記録を読んでもらえたらわかることでありまだ書けないことも多々あるので何とも言えませんが、性暴力やハラスメントを訴えて裁判するってすごく、つらいですよ。これを金儲けや虚言でやる人の気が知れませんし冤罪はなにより許せません。本当に苦しむ被害者が冤罪をする人間によってより苦しめられるからというのもありますが、毎日のように性暴力による被害者がニュースで取り上げられているにも関わらず一件の冤罪があると「〇〇の件があったからこの告発は信じられん」と言ってくる二次加害者がいるからです。それが素直な気持ちなんだろうけれど、それわざわざ言わなくてもよくない?冤罪許すな、加害者許すなでよくない?もしその人が冤罪だった場合、めちゃくちゃ許さなくていいし加害者とされてしまった被害者の人に対しての救済は専門機関がやる。虚偽申告した人間は罪にも問われる。その救済や罪が足りないと思ったらより声をあげていけばいいのであってわざわざ被害者に「あなたの被害は信じられません」と言うことは二次加害、セカンドレイプです。
私は自分で言いたくはないというかそんなに思っていないけれど一般の人からしてみればオタクの部類です。好きな物が沢山あって、好きな物に囲まれて暮らしています。好きな物のひとつに「テニミュ」があります。私が2022年12月に告発、提訴してから、だいすきな友人のAちゃんがテニミュに誘ってくれて、外に出るのも怖い状況だった私にとってそれは救いであり、且つ人と関わるリハビリのような気持ちで観に行きました。Aちゃんは私とは全然違う仕事をしていますが私が受けた被害に関しても理解があり、一緒にいてとても安心できます。彼女がテニスの王子様とテニミュの面白さを教えてくれたと言っても過言ではありません。そんな彼女と一緒に行ったテニミュの観劇中、私は自分がレイプされたときのことをフラッシュバッグしていました。想起させるような内容があったわけでもなく、楽しい時間を過ごしていてもフラッシュバッグは突然やってきます。思い返せば私はその時すごく惨めで、Aちゃんにも今ステージに立ってお芝居をしている俳優並びにスタッフの皆さんにも申し訳ない気持ちでいっぱいになって、早く戻らなきゃ、早く舞台に戻らなきゃ、いまじぶんがいるばしょをおもいだせ、いまはちがう、いまはあのときの家じゃない、あのときの景色じゃない、あのときの肌じゃない、あのときの自分じゃないとひとり、客席で隣に座るAちゃんにばれないように平然を装って座ったまま、自分の中で藻掻いていました。
私より酷い症状の方はごまんといらっしゃると思います。
いま、私は舞台を選んで観に行けるようになりました。電車にも乗れます。本を読むのはリハビリ中ですが戯曲を声に出して読むのはすごく楽しいです。信頼できる仲間たちとお芝居するのは楽しいです。映画を見るのは集中力が途切れる時もありますが最近ドラマを昔のように楽しめるようになったことがなにより嬉しいです。福島の田舎で育った私にとって、最高の娯楽はドラマを見る事と本を読む事でした。そのシーズンの放送されているドラマを全部見て、自分がいつか出演することを夢に見ていました。それくらいお芝居を形作るすべてのものが大好きでした。
そして、あれほど思っていた「しにたい」という気持ちも今はありません。またいつ襲ってくるかも分かりませんが死んだあとに適当なことを言われたり「加害なんてなかったぴょ~ん」なんて言われたら声を上げられないでいる被害者の方々がより苦しむだけですし、まだオタクしていたいし、お芝居も続けたいので自分からは死にません。
それでもフラッシュバッグするんです。
東日本大震災が起きたあの日を昨日のことのように、今のことのように思い出せるのと同じで、レイプされたこと、胸やお尻を触られたり揉まれ続けたこと、逃げたこと拒否したこと嫌だと言ったこと寝かせてもらえなかったこと深夜の電話を切ってもらえなかったこと服を脱ぐことを強要させられたこと排泄の音を聞かせろと言われたこと身体を触ろうとする手を叩き落としたことみんなの前で蹴られたこと殴られたこと。
上記は全部裁判記録に残しているから書いています。既に公開されているものですから。でも裁判でも言っていない許せないことがまだまだ沢山あって、それを私はいつまで経っても飲み込めないでいる。
裁判がこの先終わったって、謝られたって、死んだって、私が加害を受ける前の私に戻れることはありません。それは私だけじゃなくて、他に加害を受けたことがある人たちもみんなそう。加害を受ける前の、傷が刻まれる前の自分には決して戻れません。
それくらい、してはいけないことをしていると思え。
そんな相手に、より傷つける言葉を、石を投げんな。
はい、言語化しないとわからないこと、進めないことがいっぱいあったので言語化しました。カウンセリングでもこうやってつらつらと話しているんですが「今は幾らだって揺れて良いんだよ、揺れることによって健康になっていくんだよ」ってカウンセラーの先生が言っていました。やっぱり、傷を負う人がひとりでも減ってくれたら、そう思います。