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【短編法話】「おねんぶつ は」


西法寺住職



 十二月になりました。皆さまにはご本願のおはたらきの中「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続のことと存じます。
 あっという間に歳の暮れであります。石川県、ことに能登半島では大変な一年をお過ごしのことであります。出来るものが出来るだけのことをさせていただかねばならないと思うことであります。

大悲無倦常照我|だいひ むけん じょうしょうが

 われわれはこの娑婆に“いのち”恵まれ日暮らしをさせていただだいておる限り様々なことにあってゆかねばなりません。
 その、どの一瞬にあっても、変わらずに私を願い続け、支え続けてくださっておるおはたらきがあってくださるのであります。
 決して私の苦しさや、悲しさ、逆境を劇的に変えて解決してくださるのではありません。しかし、間違いなしに、この私を願い、支え、護り、育て続けてくださっているおはたらきがあってくださるのであります。

極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

「正信念仏偈」

 親鸞聖人がおつくり残しをくださった「正信念仏偈」(お正信偈さま)の一節であります。

極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。

このように読ませていただくのであります。

いま、極重悪人については詳しく触れずに、私自身のこととさせていただきます。


  • 「極重悪人唯称仏」|ごくじゅうあくにん ゆいしょうぶつ

〈お念仏を称えて、お念仏を聴きながら日暮らしをさせていただくのだよ。〉ということであります。


  • 「我亦在彼摂取中」|がやく ざいひ せっしゅちゅう

〈お念仏に遇わせていただいたわたしは阿弥陀さまの摂取のおはたらきの中につつまれているのでしたね。〉


  • 「煩悩障眼雖不見」|ぼんのうしょうげん すいふけん

わたしが阿弥陀さまのことを見ることが出来なくても…。私が見ることが出来るか出来ないかは問題ではないのであります。


私が見えようが見えまいが、阿弥陀さまはちゃんと私を見守り、支え、育て続けてくださっているのであります。それが、

  • 「大悲無倦常照我」|だいひむけん じょうしょうが



 この一連のお言葉は源信僧都のお徳をたたえてくださる一段のお言葉でありますが、親鸞聖人はその元になった源信僧都さまのお言葉を『尊号真像銘文』というお聖教の中でご解釈くださっています。

「我亦在彼摂取之中」といふは、われまたかの摂取のなかにありとのたまへるなり。
「煩悩障眼」といふは、われら煩悩にまなこさへらるとなり。
「雖不能見」といふは、煩悩のまなこにて仏をみたてまつることあたはずといへどもといふなり。
「大悲無倦」といふは、大慈大悲の御めぐみものうきことましまさずと申すなり。
「常照我身」といふは、「常」はつねにといふ、「照」はてらしたまふといふ。無碍の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり、つねにてらすといふは、つねにまもりたまふとなり。「我身」は、わが身を大慈大悲ものうきことなくしてつねにまもりたまふとおもへとなり。摂取不捨の御めぐみのこころをあらはしたまふなり、「念仏衆生摂取不捨」(観経)のこころを釈したまへるなりとしるべしとなり。

 
 私が時々に「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続できているのは、何があっても変わることなく、決して途切れずに私を願い続け、支えつづけ、育て続けてくださっている阿弥陀さまやご往生くださった方々の大悲のおはたらきが私を包んでくださっておるからなのであります。

「お念仏は生きる力だとおっしゃった方があります。皆さん、お念仏は生きる力なんですね…。」 

もう何年前でしょうか、山本攝叡和上が西法寺のご法座でおっしゃってくださったお言葉であります。             

合 掌