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〔短編法話〕〝たのみもせんのに〟
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八月。厳しい暑さが続くころです。皆さまには決してご無理のないよう暑さをコントロールなさっていただきたいと思います。
『仏説無量寿経』というお経さまには
「寒からず、熱からず。つねに和らかにして調適なり(いつも寒からず暑からず、調和のとれた快い世界である)」
とお浄土のようすが説かれています。そんな事に思いをはせながら「あっついなぁ~」とういう独り言の合間に「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏さまをお聞かせいただく日暮らしであります。
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私がどこにいてどんな状況であろうとも、私を取りまく環境がどのように変わっても「必ず支えている、お念仏称えながら日暮らししてきてくれよ、めぐまれた“いのち”を生ききって、そのご縁が終わる時がきたら私の覚りの世界に生まれてきてくれよ」という阿弥陀さまのご本願のおはたらきは決して変わらずに私を願い続け、支え続けてくださっておるのであります。
不請の友(ふしょうのとも)
最近、「不請の友」という仏語を味わわせていただくご縁に遇わせていただきました。これも『仏説無量寿経』というお経さまに、
もろもろの庶類のために不請の友となる。群生を荷負してこれを重担とす。
如来の甚深の法蔵を受持し、仏種性を護りて、つねに絶えざらしむ。
大悲を興して衆生を愍れみ、慈弁を演べ、法眼を授く。三趣を杜ぎ、善門を開く。
不請の法をもつてもろもろの黎庶に施すこと、純孝の子の父母を愛敬するがごとし。
もろもろの衆生において視そなはすこと、自己のごとし。
というご文であります。
さまざまな人々のためにすすんで友となり、これらの人々の苦しみを背負い引き受け、導いていく。
さらに、如来の奥深い教えをすべて身にそなえ、人々の仏種性を常に絶やさないように守り、大いなる慈悲の心を起して人々を哀れみ、その慈愛に満ちた弁舌によって智慧の眼を授け、地獄や餓鬼や畜生への道を閉ざして人間や天人の世界への門を開く。
すすんで人々に尊い教えを説き与えることは、親孝行な子が父母を敬愛するようである。ま るで自分自身を見るように、さまざまな人々を見るのである。
こんなふうに現代語訳されています。
阿弥陀さまは不請の友となって、不請の法を説いてくださっておるのであります。いや、不請の法を説く為に、不請の友となって私を阿弥陀さまの救いの法があることに気づく者にお育てくださっておるということでありましょう。
「請」とは「こう・願う」という意味であります。それに「不」がついているのですから、「こわない・ねがわない」ということになります。私がお願いも何もしないのに阿弥陀さまは「この私」を「自分自身を見る」ようにして慈しみ、様々な手立てを取って私に近づき、私を育て私に阿弥陀さまのおはたらきがあることを気づかせてくださっておるのであります。
〝たのみもせんのに〟
私は「どうぞお念仏出来るようにしてください」と願った覚えはありません。「どうど阿弥陀さまのお心が分かる人間にしてください」と願った覚えもありません。しかし今、こうして「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏さまを称え、「阿弥陀さまありがたいなぁ」と阿弥陀さまのお徳を味わうことの出来る身とならせていただいています。
言葉をかえれば、私が“たもみもせんのに”阿弥陀さまはずーっと私のことを“願い続けてくださっておる”のであります。ありがたいことであります。だから私は「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏出来ているのです。
阿弥陀さまだけではありません。今月は“お盆”私が「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏出来るようになっているもとには、間違いなしに先立たれた方々が阿弥陀さまのお浄土にご往生くださり、阿弥陀さまと一緒になって私を育て支えてくださっているおはたらきもあってくださっておるのですね。
ありがたいことであります。たのみもせんのに…。
合 掌
〔毎月発行〕おてらの読みもの『世間解(せけんげ)』2024/8