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【短編法話】易行(いぎょう)


短編法話担当:西法寺住職

はじめに

 十一月であります。有縁皆さまにはご本願のおはたらきの中「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続のことと存じます。

 十月の報恩講さまには、本年も梯信暁先生にご出講いただき、この度は七高僧の第一祖、龍樹菩薩さまについてお取りつぎをくださいました。
 親鸞聖人がご和讃で、

龍樹大士世にいでて 難行易行のみちをしへ
流転輪廻のわれらをば 弘誓のふねにのせたまふ


生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける


等と讃詠されますように、阿弥陀さまのお救いのはたらきは〈易行(いぎょう)〉であるとお示しをくださったお方であります。

 親鸞聖人はこの〈易行〉こそ私が間違いなく覚りをひらかせていただく唯一つの仏道である。お釈迦さまのお説き残しをくださった仏教の中で浄土教とは〈易行〉であるという枠組みを確立してくださったお方として、祖師の第一祖と仰いでくださるのであります。

なぜお念仏は易行(いぎょう)なのか

〈易行〉とは易い行い(簡単な行)ということでありますが、この〈易行〉ということについて行信教校をお創りくださった利井鮮妙(かがい せんみょう)和上にこんなお話が残っています。


 あるご法座の時、鮮妙和上が、

「“南無阿弥陀仏”というお念仏は易行であると云われるが、なぜお念仏は易行なのかのぅ」


とお聞きになっておられた方々にお尋ねになられたそうであります。

するとお聞きになられていたお一人が、

「それは、和上さま、南無阿弥陀仏と称えるお念仏は小さな子どもでも病の中でも称えることが出来ますし、『阿弥陀経』さまや「お正信偈」さまをご拝読させていただくことを思えばずっと易くございます。まして長い時間座禅をしたり、滝に打たれたり、山を巡ったりというような、いろいろな修行を重ねなければいけない仏道からすれば本当に易いものでありましょう。」

とお答えになりました。

それをお聞きになった鮮妙和上は、

「ふむ、そうじゃのう、確かに千日をかけて山を巡ったり、長いお経を読誦することから比べれば“南無阿弥陀仏”と称えることは容易かろう。しかし、長い時間のかかる修行より簡単。長いお経を拝読するよりも易い。しかし、そういう比べ方で易行というならば、“なもあみだぶつ”と称えるよりも“あ”という方が短くて簡単ではないかの。どうじゃ。」


とおっしゃったというのであります。

「では、和上さま。なもあみだぶつと称えるお念仏はなぜ易行と申すのでありましょうか」

とお聞きになられていた方がお尋ねになると、

鮮妙和上は、

「それは他力(たりき)じゃからだ。」


とお教えくださったというのであります。



他力(たりき)の味わい

 私が、私の口で、私が、称えようと思って称えている“なんまんだぶ”であるけれども、そうさせてくださっているおはたらきがあるのだとお教えくださるのであります。

 私が称えているに違いはないけれども、〈私が称えました〉と私の功績としないで、〈ああ、私にお念仏させてくださっているおはたらきがあってくださるんだなぁ〉と味わわせていただくのであります。

 わずか一声のお念仏であっても〈私が称えました〉と私がやったこととして考えるならば、それを“自力の計らい”というんだよと親鸞聖人はおさとしくださるのであります。

 何百遍、何千遍お念仏をご相続させていただいたとしても〈これほどお念仏をご相続させていただく身にお育てをいただいているんだなぁ〉と安心させていただくことが出来る。それが他力のお念仏のお味わいでありましょう。 

 合 掌