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油川にあった飛行場のお話

「野木和団地は飛行場でした」

油川に昔、油川城があり
その城主だった奥瀬善九郎が油川城に居城していた当時、
寺内野と呼ばれる場所に寺内村がありました。

寺内村は奥瀬氏の城下町であつたと伝えられてますが
油川町が出来てから住民は油川に移り住んで
人家がない野原となってしまったのlす、

この場所が後の青森飛行場であり競馬場として利用されて

今の野木和団地になるのです。

県道26号沿い
現在の
油川中学校のあたり
そこは飛行場の玄関口で

そこから
現在の野木和団地に広がる
広大な地域は青森飛行場でした。

ここに続く道には当時かなり広く繁華街も点在していました。

現在もある油川中学校前の木々は当時のものだそうです。

当時は青森飛行場の建設地として
青森競馬場・雲谷・油川町の三ヶ所が
候補地となったそうですが
市議会の反対や、大野村住民の反対
油川でも小作民の反対運動もありながら
広い原野でしかも市街地に近いという理由で
昭和8年(1933)に青森飛行場は竣工

当時の新聞によれば、青森飛行場の建設計画は、前
年の1932(昭和7)年7月14日付で逓信省が
救農土木工事として青森市付近に建設すると発表

救農土木工事というのは、
1931(昭和6)年の
東北地方の大凶作に伴うもので

飛行場の建設地が油川に決定したのは
この年の9月30日のことで
約1か月半という短期間に候補地の選定が進められたそうです。

まさに、
飛行場建設は救農土木事業であったようです。

さて、飛行場の建設地に目を向けると、青森市周辺

民間の飛行場として多くのひとに利用され

昭和12年(1937)4月1日、定期航路も開設され

青森‐東京間を2時間四18分で運行。

青森市の松木屋デパート内にある航空案内所で搭乗航空券の引き換え券が渡されたそうで(搭乗の際に航空券と交換)
当日は、出発50分前に送迎車が空港まで乗客を送り届けたそうです。

日本初の女性パイロットがやってきたりしたことなどもあり
多くの人に愛されました。

その後15年に軍が管理
昭和20年夏の空襲時には使用され ず、
終戦後は飛行場自体が廃止されました。

その後、青森競馬倶楽部が主催
進駐軍が後援で
青森競馬が開催されました。

戦後の苦しい中でも
競馬は盛況だったそうです。

そして、農耕地に転用、多くが水田、畑に利用された。

さらに引揚者の入植地となり、
その後団地の造成、宅地化などがなされ、
現在では油川中学校、住宅地も出来
野木和団地が造成されて現在に至るそうです。

この周辺にある油川市民センターには
青森飛行場の格納庫の鉄骨と旧飛行場の門標が移転されています。

津軽線が通る踏み切りに飛行場通りという表示があり、かつての記憶を人々に伝えています。

街グルメin青森
記事編集/鈴木勇(グローバルキッチンサイゴン所属)

記事参考

旧青森飛行場の歴史と現存する遺構

http://www.komakino.jp/aomori/aomori.htm

記事参考

新青森市史

旧青森飛行場 の歴史を伝える会の記録

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