西郷と横山安武
2023年7月25日筆
第14回のテーマは、「征韓論」を取り上げますが、
西郷さんが、なぜあれほどまでに強い思いで
朝鮮との外交を平和的に話し合いで解決しようとしてたのか、
この本を読んでわかりました。
「横山安武」(薩摩藩士)
安武は、初代文部大臣の森有礼の兄です。
政府に建白書を出して、諫死するぐらいの人物なので、
よほど過激で、育ちもどうなのかなと気になりましたが、
森家は教育熱心な父親、感情豊かな母親に愛情深く育てられ、
4人の男兄弟も仲良く、勉学に励み、常に励ましあって成長しています。
安武も勉強家で、薩摩の造士館をはじめ、佐賀の弘道館、長州の明倫館などで学び
薩摩の先輩たちに続き、良い国を作ろうと夢見ていました。
しかし安武は、倒幕後の日本、
新政府に失望していました。
「こんなはずではなかった。」
旧藩邸や高級旗本邸が、政府高官の私邸となり、彼らはよりどりに接収し、
妾や女中を囲い、贅沢三昧。
それまで下級武士だったものたちが、急に威張りだす。
新政府の不安定さに、国民は不平不満だらけ、
力を無くし暇を持て余した若い武士たちが、町や村に跋扈し、
「さあ朝鮮と戦うのだ!」という風潮に、無恥浪人たちは大いに盛り上がっていたのでした。
安武の考えは
政治家の姿勢をまず糺す必要がある。贅沢は止め、質素の手本を示すべき、
新生国家を造る指導者たちは、国民の手本にならなくてはいけない、
それが新政府の要人たちの第一の責務であるべきだ。
また、
朝鮮を征伐せよの声が広く国民の間で盛んになっているが、
しかしこれが我が国の力が弱いための悲憤の反映にしかすぎない。
戦争するにはそれなりの理由がなければならない・・・
(中略)
現下の急務は国家の大法を立て、その規律の下、政令を統一し、
政治の信頼をまず得て、国民を安心させることである。
しばらくの間、こうした騒々しい風潮を絶ち、
朝鮮国の非を責めるようなことをしてはならない。
国は守るもので、攻めるに価しない。
万民を安堵せしむるが、政治というのである。
朝鮮征伐が世間で話題になり、躍起になっている政府や国民に対して
必死になって、朝鮮征伐を止めようとした人が横山安武でした。
明治3年7月27日、
安武は、衆議院近くで政府に対して堂々と建白書を差し出し
諫死によって、政府に衝撃を与えました。
諫死したのは、明治新政府樹立以来初めてのことで、
それだけに政府の要人たちの驚きは大きく、
政府内の震動は止むことがなかったと言われています。
西郷さんは、横山安武と同郷であり、
年は20才ほど離れていましたが、これからの日本国のこと、
また新政府に対する不満の思いは一緒でした。
西郷さんは横山安武の諫死を忘れることはなく、
明治5年、安武の碑を建てました。
西郷さんは書きながら、「おいどんに出来ぬことを、安武はよくぞやった」、
と改めて日当山温泉に訪ねてきた時の彼の風貌を思い浮かべながら涙を流されたと言われています。
この年の8月、西郷さんは板垣退助と相談のうえ、清と朝鮮の両国へ風俗や民力などを視察させるために、使者として別府晋介や池上四郎らを送りました。
この時にも西郷さんは横山安武の考えや気持ちを十分忖度しつつ仕事をされたようです。
西郷さんが明治10年2月に「政府に尋問の筋これあり」と鹿児島を立った時、
もちろん「横山安武」の意志もしっかりと西郷さんの心の中にあったのではないでしょうか。
今も韓国とのかかわりを考えるとき、
最も正視すべきものは明治6年の「征韓論」です。
西郷隆盛=「征韓論者」と教えられた歴史教育。
それは全く逆でありました。
もし、あの時、西郷さんが話し合いに行っていれば
後の日清・日露、そして韓国併合まで・・・
そして流れて、今の自民党(統一教会)。
ここまで無かったと思います。
歴史を正しく認識出来れば、
あの明治6年の政変が、日本の一大分水嶺なのです。
今、あの時に立ち返り、日本人が忘れた、大事なものを取り戻す時です。
さて、今後の日曜日は
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