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親友の死が伝えてくれたことって?
安楽浄土(あんらくじょうど)にいたるひと
五濁悪世(ごじょくあくせ)にかへりては
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のごとくにて
利益衆生(りやくしゅじょう)はきはもなし
この夏は六月に梅雨が明けたと思ったら、いきなりの文字通りの猛暑でしたね。
毎日三十五度だったりといった暑さが続き、いきなりの真夏かと思っていたら、七月に入ってからは梅雨が戻ってきたかのような雨模様のすっきりしない天気、そしたまた最近は暑くなってきました。
なかなか体調管理が難しい時期ですが、みなさんもお身体にお気を付けください。
東京では先日お盆が明けました。
東京以外では八月のお盆が一般的なのですが、この七月のお盆中、みなさんの中にもお墓参りに行かれたり、実家に帰ってお仏壇に手を合わせたりされた方もいらっしゃるかもしれませんね。
ご先祖さまにお参りするとき、みなさんはどんなお気持ちでしたか。
冒頭に浄土真宗の開祖さま、親鸞聖人のお言葉をいただきました。
安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかへりては
釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし
安楽浄土にいたる人といいますのは、この世界での命を終えてお浄土に往生されて仏さまとなられた方々のこと。
その仏さまは、五濁悪世、今、私たちが生きているこの世界、たとえば、いかり、むさぼり、おそかさといった煩悩から離れることができない、この私たちが生きている世界、この迷いの世界に返ってきてくださって、お釈迦さまがされたのと同じように、すべてのものを救いたいとはたらき続けて下さっている、そんな仏さまのおはたらきを讃えてくださっているお言葉です。
そのような仏さまのおはたらきをいただくことで、私たちはこの世界での命を終えたあとに、お浄土に往生させていただくことができます。
お浄土に往生させていただくこと、それは、この世界のでの命を終えていくこと、死ぬということなのですが、私たちは死について、けがれたものである、不吉なことである、そんなふうに受け止めてしまいがちです。
それはやっぱり死後の世界、つまり、あの世のイメージがよくないからだなと思います。
この夏の時期、テレビではよく怪談話であったり幽霊の話しがよく放送されています。
そんなこともあって、あの世のイメージは怖いところであったり、音もなく寂しいところ、光も届かず暗いところ、そんなイメージになってしまっているのではないでしょうか。
では、私たちが阿弥陀さまの救いのはたらきをいただいて往生させていただく、あの世、つまりお浄土はそんなに暗くて寂しいところなのかと心配になりますよね。
ご法事やお通夜などでよくお勤めされる仏説阿弥陀経といお経があるのですが、このお経では阿弥陀さまがご用意してくださったお浄土の様子をよくお示しくださっています。
それによると、お浄土には、キレイな宝石で飾られた池があって、その池にはたくさんのお徳に溢れた水がたたえられているだけでなく、底には金の砂がしきつめられている。
水面では大きな蓮華の花が色とりどりの色で光輝いている。
美しい色の鳥たちが、昼夜六回美しい声で鳴いて、その鳴き声は阿弥陀さまのみ教えを表している。
そして宝石でできたたくさんの木があり、それがそよ風にゆれると、まるで数えきれないほどの楽器が奏でたかのような美しい音色を響かせている。
そんなお浄土で、阿弥陀さまは今も教えを説いてくださっている。
そんなふうにお浄土の様子が描かれています。
暗くて寂しいところではまったくなくて、むしろきらきら輝いていて、美しい音色であふれている、そんなお浄土で、故人さまは仏さまとなられるわけですね。
ですから、浄土真宗では、この世界での命が終わっていくこと、死んでしまうことを、不吉であるとか、けがれたものであるとは考えずに、お浄土で仏としてのあらたな「いのち」をいただく尊いご仏縁として受けとめさせていただきます。
でも、いくら、その死が尊いご仏縁だからといっても、大切な方、愛する方を亡くされてしまった悲しみ、苦しみは消えて無くなるわけではありません。
大切な方を亡くす悲しみ、苦しみを仏教では愛別離苦といいます。
愛するものと別れ、離れる苦しみと書くとおり、本当につらいものです。
でも、この苦しみ、悲しみは、実は私たち全員が、一度は自分ごととして経験していかなければいかないことなのです。
それは、私たち自身がいつかはこの命を終えていかなくてはいけないからです。
私たちは自分がいつか死ぬということはもちろん知識としては知っています。
ですが、それをなかなか自分ごととして考えることができないのではないでしょうか。
死というものは、いつ自分の身の上に訪れるかは誰にも分かりません。
極端なことをいえば、ひょっとしたら明日からしれないし、来週かもしれない、一年後かもしれない。
でも、なかなか、そういったことを具体的に考えることができず、ついついずっとずっと先々のこと、ひょっとしたら自分には関係ないのではないか、そんなふうに考えてしまいがちです。
死について自分ごととして捉えることができないということは、裏をかえせば、今を生きている、この自分の命について自分ごととすることができないということではないでしょうか。
この私の命は、まるで風が吹けばふっと消えてしまうロウソクの炎のように儚いものであるはずなのに、毎日を忙しく過ごしていると、そんなことにも気が付かず生きています。
私がまだ子どものころ、もう四十年近く前の話しになります。
中学校一年生のときなのですが、当時、とても中のよかった男の子の親友がいました。
彼とは中学に入ってから知り合ったのですが、クラスも違っていましたし、何がきっかけだったかも思い出せまさんが、とても気があって、文字通り、ずっと毎日一緒に遊んでいました。
私が中学生のころはまだゲームなんかはあまり無かったですから、プラモデル作りだったり、あとは、そうですね、釣りにもよくいったりしました。
彼の家にもよくおじゃまして、漫画を一緒に夜遅くまで読んでいたり、ご家族にもとてもよくしていただきました。
そして、家に帰ったら帰ったで、夜にはこれもまた毎日のように電話で話していました。
当時は今のように一人に一台携帯電話があるわけではなくて、一家に一台、ダイヤル式のじーこじーこ回す黒い電話でした。
つまらない授業に対しての文句、キライな先生の悪口みたいな話しを、飽きもせず話していました。
毎日毎日、一緒に遊んで、話しをして、もちろん勉強も少しはして、仲良くしていました。
そんなある日のこと、彼が体調を崩してしばらく入院することになりました。
まだ子どもですから「いいなぁ、学校に行かなくていいなんて」「ベットで一日中ごろごろできるなんてうらやましい」そんな感じで話していました。
お見舞いにももちろん行きましたが、とくに変わった様子は私には分かりませんでした。
でも入院が少し長引き、2ヶ月ほど経ち、お見舞いにいったときにも、ちょっと長いね、退屈だね、とそんな話しをしていました。
そんなとき、うちで夜ご飯を食べていたとき、あの黒い電話がジリリーンと鳴ったんですね。
電話は母がとりました。
相手は誰かなって思っていたら、どうやら彼のお母さんみたいでした。
私はテレビを見ながら夜ごはんを食べていたのですが、こんな時間にどうしたのかな、と思ったら、電話の雰囲気が変わったんですね。
急に母が慌てた感じになって、「はい、はい、分かりました。すぐに伺います」と言って電話を切りました。
そして私に向き直ってこういいました。
「親友くんが亡くなったって。今、おうちに帰ってきてるから、ぜひあなたに会いにきてあげてほしいそうよ」
そんなことを言われて、それからは急いで母と二人で彼の家に向かいました。
家に着いてお部屋に通されると、そこにお布団が引かれて、彼が横になっていました。
少し向こうでは、親友のお母さんと母が何か言葉を交わしていますが、そんな周りの音は耳には入ってきませんでした。
茫然自失、という状態はまさにこのことなのだと思います。
音も聞こえなければ、声も出ない、もちろん涙なんて出ません。
目の前の光景が、本当にまるで夢のようでした。
人が亡くなっている姿を見るのは初めてでした。
ましてや、とても仲良しだった親友、自分と同じ年の、中学生、です。
その顔は、普通に眠っているようでした。
顔に少し触れさせてもらった、ちょっとひんやりとした感触だけは覚えていますが、当時はやっぱり親友の死というものが受け入れられなかったのですね。
あんなに毎日毎日、一緒に遊んで話して勉強して、そんな彼が死んでしまった、もう二度と遊んだり勉強したりすることができない。
それってなに、なにが起こったんだろう。わけがわからない。
そんな気持ちでした。
でも、その後、お通夜、お葬式に参列させていただく中で、少し気持ちが落ち着いたのか、いくら大切な親友でも、やっぱり人の命というものはずっと続くものではないんだな、いつかは必ず死んでいくものなんだ、ということ、そして自分もそれは同じなんだ、ということが、親友の死を通して、伝わってきました。
そして、これは仏さまになった彼が私に教えてくれた、命の尊さそのものでした。
私たちは大切な方が亡くなるとお通夜やお葬式をお勤めして、その後も一周忌などの法要をお勤めしますね。
こういったご法要、ご仏縁は、私たちが大切な故人さまをお偲びする大事なご縁です。そしてそれと同時に、なかなか自分の命に向き合うことができない私たちに向かって、故人さまが、その人生をもって、その死をもって、その命をもって、人はみな死ぬということ、だからこその命の在り方、尊さを伝えてくださる、そんなご縁を故人さまが私たちのために設けてくださったご縁でもあります。
そして、なにより故人さまが私たちをお浄土に往生させようとはたらいてくださっている、ご自身をご縁として、阿弥陀さまの救いのおはたらきに出合わせていただく、そんなご縁なのです。
阿弥陀さまの救いのおはたらきというのは「あなたがいつどこでどんなふうに生まれ、いつどこでどんなふうにその命を生き、いつどこでどんなふうにその命を終わっていったとしても、必ず救いとってお浄土に往生させて、仏としてのいのちを授けるよ」というものです。
そのおはたらきで、私たちもこの命終わったあとにお浄土に往生させていただける。
そして、そのお浄土で、先立たれた方々と今度はお互い仏としてご一緒させていただくことができます。
そのときに、私はこんな人生を過ごしてきたんだよ、こんな命を生きてきたんだよ、とたくさんのお土産話ができるように、みなさまにおかれましても、今、この命を生ききっていただきたいと思います。
今、私たちは大変な世界を生きています。
日本ではまだまだコロナウイルスが収まりませんし、海外では戦争が起きてしまっています。
でも、そんな世界を生きた先に、お浄土に往生させていただける、また大切な方と仏としてご一緒できる、そんなあの世があるということを心に持っていただくと、今を生きる少しの勇気になるのではないでしょうか。
私もまた、親友である彼にあったときに、胸をはって報告できるように一生懸命に生きていきます。
このたびは、親鸞聖人のお言葉をいただきながら、先立たれた方々が仏さまとなって、この私に伝えてくださっていることを、みなさまとご一緒にいただきました。
まだまだ暑い日が続きます。
みなさまもどうかご自愛ください。
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