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「資本主義」は終わるのか?

人類の歴史の中でいろいろな「体制」が登場してはやがてなくなっていきました。

だから、「資本主義」と言う体制もいつかはなくなるはずだ・・・

これは真実だと言えるでしょうか?

例えば、あんまりなくなっていない「体制」と言うものがあります。

例えば、「法治国家」とか「貨幣経済」と言う「体制」がそうです。

「法律」ってものがどういう風に登場してきたか?について、旧約聖書に面白い事が書かれています。

十戒を始めとする律法は、民の長老達を招集して会議が行われたタイミングで啓示されています。

旧約聖書には、これ以前に、長老による会議が開かれたと言う記載がなく、この時の会議が「旧約聖書・初会議」なのです。

その前はどうなっていたかと言うと、モーセが一人で集団を運営しているのを見かねた義父さんが、「十人の長、五十人の長、百人の長、千人の長」・・・つまり、「中間管理職」を置いて組織を作るように進言しています。

その前はどうだったかと言うと、族長時代には、「アブラハムは配下の者に命じて」と言う記載が出てきます。

旧約聖書が史実通りかどうかはともかくとして、この展開は、「組織」、「法律」が成立する過程について、興味深い考察となっています。

つまり、少人数のグループを「族長」が運営している時代は、「組織」も「会議」も「法律」もなくてもやっていけるのです。

「族長」が「配下」に命令すれば、集団は運営出来るわけです。

ところが、集団の人数が増えてくるとそうはいきません。

最初の律法である「十戒」が啓示された後、次に出てくる律法群には、「水溜を掘って蓋をしておかなかったため、他人のロバ、または牛が落ちて死んだ場合、弁償しなくてはならない」と言う規定が出てきます。

当時は、農業社会なので、水溜にロバや牛が落ちるなんてことは現代の交通事故なみに頻発する出来事だと思います。

ところが、モーセが一人でやっているとすると、言ってみれば市長さんや町長さんが交通事故の処理をしているような状態で、駆けつけてくれる白バイや交通係のお巡りさんはいない有様なのです。

「モーセ様、隣の田吾作がな、水溜を掘って、蓋しとかなかったから、オラの牛が落ちてしまっただ。モーセ様、田吾作になんか言ってケロ」って与作が駆け込んでくる・・・

この与作・田吾作論争みたいなのを、モーセ様が朝から晩まで一人で処理している・・・そういう状態だったと旧約聖書には書かれています。(与作とか田吾作とかって名前は書かれていませんが、朝から晩までモーセが一人でやっていたと言うのは書かれているのは本当です。)

これでは集団が運営できないので、組織を作れと言うのが、義父さんのアドバイスでした。

かくして「組織」が生まれ、長老を招集しての「会議」が開かれ、「律法」が啓示されるわけです。

「組織」と「法律(ルール)」はセットなのです。

どうしてかと言うと、リーダーが一人で決めている時は、リーダーがわかっていればよいので、ルールを明文化する必要はありません。

せいぜい、「こういうことはしないでね」的な事を集団のメンバーが了解していればいいわけです。

ところが「十人の長」、「五十人の長」、「百人の長」、「千人の長」が、それぞれ集団全体の中の「小集団」を運営するとなると、ある人はこう言ったけど、別の人はああ言ったと判断が分かれてしまうと困る、全員が同じような基準で物事を決めないとならない、

だから、「水溜を掘って蓋をしておかなかったために他人のロバや牛が落ちて死んだら弁償する」と言う「ルール」が明文化される必要があるわけです。

ですから、人類がある一定規模以上の集団になっている限り、「組織」で運営せざるを得ないし、組織にはルールが必要と言うことになれば、「法治国家」的なものは必然的に要請されます。

ですから、いろいろな「体制」が生まれては消えていくにしても、「法治国家」と言う「体制」は残っていくわけです。

字数の関係で「貨幣経済」については詳しく述べませんが、「貨幣経済」と言う「体制」も消滅して、物々交換みたいなものに戻っていくわけではなく、「貨幣経済」と言う体制としてほぼ永続しているわけです。

「貨幣経済」と「資本主義」がどう違うかと言うと、平たくいえば、お金それ自体を目的とした投資が行われる事、労働力を含むあらゆる物が商品化されると言う事、この2点だと思います。

農家がお米なり野菜なりを売って貨幣を得て、その貨幣で洋服を買うと言う場合、農家の目的は「洋服」にあります。

経済学的な表現を用いると「洋服」の使用価値、寒さを防いだり、オシャレをしたりする・・・生活に取って必要な物事の実現にあるわけです。

このように、人にとっての物の「使用価値」を獲得するための手段として「貨幣」が存在していると言うのが、資本主義以前の「貨幣」のあり方なわけです。

他方、資本主義では、まず、「貨幣」を投入する「投資」を行います。その投資により、原材料を仕入れ、商品を販売して利益を得る、つまり、当初、投入した「貨幣」以上の量の「貨幣」を獲得する事を目的として事業が行われます。

この場合、原材料と言う「物」、商品と言う「物」の使用価値ではなく、「交換価値」が重視されるわけです。

仮に、大根を加工せず、大根として売るのだとしても、農家のところから仕入れ、店頭に並べるまでの間に「運ぶ」とか「並べる」とかと言う「労働」が行われています。

「運んだり」「並べたり」が行われているから消費者は自分で農家のところに行かなくても「大根」が買える、

仕入れた「大根」が「商品としての大根」になるには、「運ぶ」「並べる」と言う労働が必要で、この「労働」が価値を産んでいる、これがアダム・スミスなど、古典派経済学の発想でした。

マルクスは、しかし、「労働」が生み出す価値が労働者に適正に分配されていない点を問題にしたわけです。

アダム・スミスの国富論は、植民地への投資に言及しています。シュムペータもマルクスが言うように労働者を搾取していると言うより、植民地への投資によって資本主義が利益を得ていること、先進国の労働者もその恩恵を受けていることを指摘しています。

シュムペータは植民地が開発され、豊かになっていくと、本国の「はけ口」としての機能を失い、資本主義のエンジンが停止するのではないかと述べています。

シュムペータがこれを書いているのは、第二次大戦前の事です。

大戦後、植民地の多くが独立しました。ただ、旧植民地の途上国には資源はあるが、資本や技術はない、そこで資本や技術を持っている先進国が途上国に投資し、資源を開発すると言う図式は残りました。

現在、新興国が台頭してきています。旧植民地諸国が技術&資本を持つようになっていった場合、どうなるのか?

ほぼ1世紀前に行われたシュムペータの予言を思い起こすわけです。

一方、マルクスが述べていた「労働者」への搾取ですが、いわゆる2024年問題・・・運送業の労働者の時間外労働時間の制限実施と言うことですが・・・例えば、産地で採れた野菜をその日のうちに都会に運ぶと言った事が制約されるようになってきます。

また運送業労働者の賃銀水準が向上するとすれば、それは野菜の価格にも反映していくでしょう。

こうして、植民地(または旧植民地の途上国)や低賃金労働をはけ口とした状態がなくなっていった場合、「資本主義のエンジン」はどうなっていくのでしょうか?

と言っても、単純に近代以前の状態、つまり、農民が野菜を売って得た貨幣で洋服を買うと言うような図式で経済全体が運営されるとは思えません、やはり、最初に貨幣を「投資」し、収益を得る形で事業が営まれるだろうし、その過程では労働力を商品として買う、経営者も「経営者」として雇われ、「経営者としての労働」に対する対価として報酬を受け取る、つまり、「経営者としての労働」の商品化が行われる状態にいるだろうと思います。

この意味では、「法治国家」や「貨幣経済」と同様、「資本主義」もなくならない、永続する体制として残っていくと言えます。

さて、途上国や低賃金労働者と言うはけ口抜きとなった「資本主義」のエンジン、これはどのように回っていくのでしょうか?

僕は、従来の資本主義のエンジンが停止するほどの「豊かな社会」だからこそ、半農生活とか菜園起業とかが成り立つと考えているのですが、これについては、また改めて述べたいと思います。

2週間予報は、4/20に最高気温26℃となるとしています。平年値(1980-2022平均値)より 7℃高い値です。

4/23–25には、一転して、18–19℃と、平年値以下、20℃以下となるとの見通しです。

これは一過性のもので、またゴールデンウィーク付近には高温状態になるのでしょうか?

4/25は関東地方の降雹のピーク、つまり、大気が不安定化しやすい時季とされています。

やはり、種まきしたズッキーニやエンサイ等は、寒冷紗や不織布でトンネルしておいた方がよさそうです。

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