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そもそも「農業」、特に半農生活や環境問題とかを言う人は、「自分の世界」を自分で支配したい気持ちが強いかもしれない。

「権力への意志」と言う言葉を聞くと、仮面ライダーのショッカーとか、ガッチャマンのギャラクターとか、実写版ヤッターマンで深田恭子さんが演じてたドロンジョとか、世界征服を目指すみたいな事を連想する人もいるかもしれません。

しかし、「世界」と言うのは、2つの意味があって、ひとつは「全世界」で、もうひとつは「自分の世界」です。

この「自分の世界」への「権力意志」、つまり、自分の世界は自分だけのものなんだ、絶対に干渉を許さないんだみたいな事を掘り下げた哲学が例の「実存主義」かもしれません。

元祖・実存主義のキルケゴールは、聖書の「たとえ全世界を儲けても、自分を失ったら何の意味があるか」と言う言葉を持ち出しています。

全世界より自分の世界ってわけです。

しかし、その「自分の世界」も「全世界」の中にあるので、一切、全世界に無関係に独立しているわけにはいきません。

例えば、インドの仏教徒とギリシア人の対話の記録である「ミリンダ王の問い」には、自分って言うのはなんだ?、骨とか肉とか目とか内臓とか、そういう身体のパーツを集めてくれば「自分」になるのか?、

「自分」って言うのは、それらのパーツを動かしているなにかだみたいな話が出てきます。

そして、タイマツを持ってきて家に放火した場合、タイマツが燃えている火と家が燃えている火は別物だから、火をつけた「自分」には関係がないとは言えないって話も出てきます。

タイマツの火はタイマツを構成している物質が燃焼反応を起こしているわけですし、家が燃えているのは家を構成している物質が燃焼反応を起こしているので、化学的には別の現象だとみなせないこともありません。

また、火をつけた瞬間の「自分」は、その時の「自分の世界」の中で行動していて、家が燃えるのは、その時の「自分の世界」の中にはなかった、だから、タイマツで家に火をつけても罪はないと言えるかと言うと、それはやっぱりある・・・

やっぱり、「自分」は「自分の世界」の中で行動しているつもりでも、その行動は「全世界」の中で行われているので、「自分の世界」の中の行動もどこかで「全世界」と結びついているわけです。

と言う理屈で、今度は、「全世界」にとって役立つ事をしないと「自分の世界」で生きている自分の人生も意味がないみたいに考えて、社会的活動に乗り出す人もいます。

実存哲学者のハイデガーはどうやら、その活動が「ナチ」だったようです。サルトルは「マルクス主義」だったようです。

映画「生きる」の主人公にとっては、「公園を作る」事がその活動だったようです。

「全世界」の方に意味がある事と「自分の世界」を生きている自分の人生の意味を関連づけると言うのは、必ずしも悪い事ではないのですが、それが、ある種の思想と結びついて、過激な民族主義とか政治活動の方に行ってしまうと、周りの人たちは「トバッチリ」を受けるわけです。

さて、今の世の中、「お金を稼ぐ」と言うような事だったら、農業より有利な仕事はたくさんあります。

むしろ、農業はお金儲けには不利な仕事です。

そう言う時代にあえて農業に関わろうと言う人は、やはり、どこかで「自分の世界」を大切にしている側面があると思います。

お金儲けよりも「自分の世界」が大事と言う考えがどこかにあるから、あえて、「農業」に関わるのでしょう。

だから、農業に関わる人は、「普通の人」よりも「自分の世界」に対する権力意志が強い人が多いのかもしれません。

平たく言えば、「自分らしく」生きたいと言う気持ちが強いと言うことです。

しかし、その「自分の世界」もやはり「全世界」の中にあるわけです。ですから、全く、自分だけで独立して農業に関わると言うわけにいかず、どこかで「外部」と接触しないといけません。

また、その際には、その「外部」に対する「責任」も生じてきます。

ところで、その「外部」、「全世界」の方なんですが、

そこで暮らす人達もやはりそれぞれに「自分の世界」を持っていて、その「自分の世界」への「権力意志」=自分は自分で自由に生きていきたいと言う考えをなにかしら持っているわけです。

でまあ、この「『自分』の自分の世界」と「『他人』の自分の世界」の関係、これは、例えば、旦那さんの方は一生懸命、農業の実習とか体験農園とかに通って、将来は田舎暮らししたいみたいに思っているけど、奥さんは虫が大嫌いで田舎暮らしなんかトンデモナイって思っているとか、

ある種の農業、例えば、化学肥料みたいなものは使うべきでないみたいな事を考えている人と、そう言うものを使って農業をしている農家との間でのトラブルとか、

そう言う例をけっこう見るわけです。

でまあ、この手の事例については、ケース・バイ・ケースと言うか、個々の問題ごとに考えるしかなくて、一般的にこれが正しいと言うのはいいにくいのですが、

いろいろ考えてみると、一つは大念処経が「怒りがある心を怒りがある心と知り、怒りがない心を怒りがない心と知り、貪りがある心を貪りがある心と知り、貪りがない心を貪りがない心と知る」

つまり、大念処経は、「怒り」や「貪り」が悪いと言ってはおらず、ただ、自分が怒りや貪りがある心なのか、怒りや貪りがない心なのか、そう言う事を知ろうと言っているわけです。

この考え方で行くと、今、自分は「自分の世界」で自由に生きたいと思っていると言う事、その自分の心を客観的に見ると言うことは大事かもしれません。

そして、今度はイエス・キリストが「自分がしてほしいことは他人にもしてあげなさい」、つまり、自分が自分の世界で自由に生きたいように、相手も相手の自分の世界で自由に生きたいと思っていると言う事を認めると言うこと、

そう言う風に考えていくと、個々の事例において、少し違う行動が出来るようになるのかもしれません。

既に5-6月に何度も最高気温30℃を超える「真夏日」が出現しています。今後も出現するだろうとの予想が出ています。

「梅雨」と言う概念で現状を捉えていいのかどうかもよく分かりませんが、6月~7月前半にかけて続く「どんよりした」天候の多い状態がいずれ終わり、「カンカン照り」の日々がやってくるのだとして、

「どんより」が多い時季でも真夏日になる日があるとしたら、「カンカン照り」が多い時季になったらどうなるのか?

と言うことがやはり気がかりです。

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