年貢と耕作権がセットだったと言うこと他
日本中世の歴史・戦国大名と一揆(池亨)に
「検地は年貢取得者や取得量を確定する作業だが、裏を返せば、年貢納入責任者・納入量を確定する作業である。こうして年貢納入責任者として検地帳に名前を登録された者が百姓身分とされるのである。
検地によって年貢納入量が増えたのは確かだが、彼らは一方で年貢を納めている限りは、土地を取り上げられない。
すなわち、農民的土地所有権(耕作権)が大名から保障されたのである。
・・・(中略)・・・
こうした見方からすると、武士身分の者は国土防衛などのために軍役を勤める義務を果たす限りで、その原資として年貢を受け取る権利が認められていたと言える。
もちろん、そこには搾取と言う現実が存在し、生活水準からすると決して平等ではなかったが、原理的にはこのような身分制の論理で、年貢取得が正当化されていたのである。」
と書かれています。
戦乱の世、どの土地が誰の物かをめぐる争いも多発していたようです。
戦国大名達は、領国で「検地」を行い、どの土地が誰の物か確定していきました。
地方の武士の側からすると、自分の領地として確定してもらう事が大切で、戦国大名達が領国を形成していったのは、このような地方武士達(国人)の支持を受けての事だったようです。
この検地による領地の確定は、農民側からすると、年貢を納める義務を発生させますが、年貢を納めていれば、農民的土地所有権(耕作権)が認められる、
つまり、いきなり土地を奪われてしまうような事が起きない、安心して耕作が出来る状態が得られる、
その対価として「国土防衛」を担う武士に年貢を払う
そう言う一種の「社会契約」が成立したと見ることができるわけです。
後に天下統一をした豊臣秀吉の太閤検地では、村内の事に武士は介入しない(つまり、年貢を納めていれば、村内の事は農民たちが「自由に」決められる)としたそうです。
江戸時代には、村の寄り合いは、「本百姓株」を持った人達で構成され、新参者がやってきた場合、その人に「本百姓株」を与える(村の仲間とする)かどうかもその寄り合いで決めていたそうです。
現代において、新規就農して農地を借りたり、買ったりする(つまり、耕作権を得る)には、農業委員会の承認が必要です。
この農業委員会とは、「村の寄り合い」を近代法の「言葉」で述べたものだと思います。
実際、見沼でも農業委員をしている人達は、戦国時代に遡る農家の家柄だったりして、17代目とかと言う人もいます。
新規就農=村の新参者に農民的土地所有(耕作権)を認めること
⇒農業委員会(本百姓株を持っている人達で構成する村の寄り合い)で承認する
と考えると、戦国時代以来の歴史的背景のもとに、現代の農地制度も存在していることが分かります。
さて、新規就農については、公的な農業塾のような場所でなく、どこか農家で実習したと言うのでもよいとされています。
戦国時代~江戸時代的な言い方で言うと、「本百姓株を持っている村の誰かのところで修業したってのなら、村の仲間にしてもいい」と言う事です。
それで、僕が「新規就農」者として認められたと言う事が意味をもってきます。
菜園起業大学は、受講生が野菜栽培基礎講習、野菜栽培年間実習の後、農園運営実習を修了した人が「農業委員会に提出する書類」に僕のサインをするようにしています。
戦国時代~江戸時代的な言い方をすれば、増山=新参者だが村の仲間になった奴だから、増山のもとで修業した=村の仲間のところで修業した=新参者が村の仲間になることを認める
と言う理屈になるわけです。
こうして、「新参者のところで新参者が修業して村の仲間になっていくシステム」、これが菜園起業大学なのです。
まだ蒸し暑い日が続いていますが、2週間予報は、雨の降る日が今後あまりないとしています。7月第2週後半、もしくは第3週あたりから、更に気温の水準があがるようです。
どうやら、それが今年の「梅雨明け」だと思われます。
今日の五枚目の数字づくりのお題は、7、4、8、8を使って7を造るです。
頭の中で考えていないで、実際にポーカーチップを積んだり並べたりしてやってみましょう。
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