掌外沿を黒く塗れ
ボールペンを持つ手を止めてはじめて、ラジオの深夜放送が終わり、スピーカーからは微かなノイズが流れていることに気付いた。日曜日の夜、正確に言えば月曜日の早朝は番組の終わる時間が早い。僕はラジオの電源を切った。カーテンの隙間から寒そうな暗闇が見える。大学入試まであと二ヶ月を切っていた。
机の上のノートには yield という単語が並んでいる。頭の中で 「ホイールどうぞと明け渡す」と語呂合わせをしながらボールペンで書いたものだ。筆記と語呂合わせが自分にとっては一番合う記憶方法だと信じている。語呂合わせで覚えたのでは発音表記に関する問題の対策はできないのだが、それでいい。そこは最初から捨てている。深夜放送が終わった部屋はあまりに静かで、僕以外の人間がこの世界に存在しているという確信が揺らいでいく。
胃にいつもの痛みを感じた。温かい牛乳が飲みたい。階下で寝ている両親を起こさぬよう足音に気を配りなが階段を降りリビングに入ると、流し台横にある冷蔵庫の扉を開けた。いつもなら扉左側のポケットに牛乳が立ててあるはずなのだが見当たらない。流し台を見ると、水で満杯にされた牛乳パックがあった。仕方なく部屋に戻るため階段までいくと、横の部屋から両親の寝息が聞こえてきた。音を立てぬよう細心の注意をはらいながら僕は階段を登る。
部屋に入ると机の上のノートを閉じて電気を消しベッドに潜り込む。「ホイールどうぞと明け渡す」常夜灯の橙色を見つめながら頭の中で何度か繰り返してみた。こんな覚え方をした英語が何の役に立つのだろう。胃の痛みは治まらない。僕は目を閉じた。どれだけ待っても眠たくならない。でも朝までは目をあけない。いつものことだ。ベッドのなかで姿勢をまっすぐに、両腕は体側につけ拳を握りしめ時間が過ぎるのを待った。
眠れていたのかどうか、はっきりとはわからない。気がつくと階下からスリッパを履いた足音が聞こえ、続いて「ガタン」と水道管の揺れる音がした。目をあけるとカーテンが光を帯びている。朝になった。
階下の足音は母のものだろう。朝になるといろんな音が聞こえ始める。テレビの音、食器がかち合う音、まな板を叩く包丁の音、洗濯機が動く音。外からは車とバイクのエンジン音、アスファルトを滑るタイヤの音が聞こえる。音はこの世界に僕以外の誰かが在ることを確信させてくれる。そんな音の中でも誰がたてたのかわからない、遠くから聞こえる音に僕はより安心を覚える。これまでも、これからも自分とは全く関わることのない誰かがこの世界には沢山いると考えることでベッドから出る勇気を手に入れる。
今日こそボールペンのインクが無くなるまでノートに書き続けよう。一ヶ月前に買った替芯がまだ十本も残っている。一日一本替芯を使い切るという目標はまだ達成したことがない。暗記用のノートも新しいものがまだ五冊ある。今日も書こう。頭の中で音を繰り返しながら、ノートに1.0mmのボールペンで、英単語や日本史用語を書き続けよう。
今日は月曜日だ。来年には僕が暮らすであろう東京から送られてくる生番組を深夜ラジオで遅くまでやっている。関わることのない沢山の人が暮らす東京から届く音と、ノートに書き残された文字と、空になった替芯をより多く積み重ねていけば、僕は必ずここから出ていける。