ひきこもりと私(リライト)
宣言通り。
消してええええぇぇぇぇぇぇl!!!!っリライトしてえええぇぇぇぇ!!
と、さておき。
別に間違ったことを書いていたわけではない(と思っている)
だけど、
2年も経てば違う見方もできている。
として、その記録を残しておきたい。
ひきこもりやひきこもり状態についてはまぁ大きく変わったことはないでしょう。高齢化は今なお進んでいるし、その認知も進んでいる。
支援者も支援の形も進んでいるけど。
革新的にこう変わった。みたいな印象はあまり受けていない。
そりゃそうだ。その現場に強く身を置いているわけではないもの。
あくまで私が身を置くのは困窮や貧困で、
その困窮や貧困も、一つの現象でしかない。
その背景にひきこもりの要因があったりする。
今回書き直したくなったのはここ。
ひきこもりの要因(っぽい話)
あくまで私見ですが、「何となくひきこもる」っていうのはかなり稀で
うん。稀じゃなくなってきた気がする。
と、言いたいところもあるけど、
「なんとなく」に見えるだけなような気もしてる。
もちろん深掘りしていけば、前回書いたような疾患とか見えてくるけど
もうなんかさ、
知識や理解を超えてくるよね。
それだけ自分の見えてる世界も変わったんだと思うけど。
本人も支援員も頑張って、言葉を重ねて
言葉にならないあれこれも読み取って伝え合って
ようやく見えてくるものが
疾患の一言に片づけられてもね。
その人のこれまで生きてきた生活の業や
押し込めた感情や
思考の癖
そういうのが「状態」を表すのだろうし
そういうのを言葉にすることのまぁ難しいこと。
そりゃ「なんとなく」と言うさね。
そう言うのがイメージできてきて
もう一度支援とは何かと説いてみる。
前回のこの部分
外の世界には引きこもっていては得られない特別な快感があると
どう伝えられるかが重要なのだと思う。
人間同士の関係だからいろいろな不具合や面倒なことが起こるのは
当たり前だけど
何のために何をするかに向かって行動ができればきっとよくなる。
ここも間違っちゃいないけど、
特別な快感を伝えるだけでは行き詰まる。
経験と不具合や面倒なことは「あってもいい」と思えるぐらいまで
時間と安心を伝えること。
このぐらい明確な支援としての行動を取ることが
「きっと良くなる」なんだと思う。
2年前の記事、、、って書いたら
ほんとにピッタリ2年前の記事でした。
ひきこもりについて思う時期なんですね。
年末近いからかな。何かしなきゃって。