映画『Barbie』を鑑賞してみて、「人間っていいな」を痛感した話
先日、映画『Barbie』を見てきました。本当は、『君たちはどう生きるか』を見る予定だったのですが、直前にたけもこさんのこちらの投稿を見て、『Barbie』に切り替えました。
背景知識もほとんどない、ただの個人的な感想
「フェミニズム」や「ルッキズム」、「男性性/女性性とは」などそういったことがテーマになるのだろうな、くらいの予備知識で見に行きました。
この映画には、たくさんの時代的背景や思惑・意図があり、それを現代の優秀な映画クルーの方々が巧みな技術で表現されていると言うことは、鑑賞後に調べる中で知ったのですが、今回はこの映画について批評する、と言うよりは、単純に自分の中に湧き上がってきたことを残しておきたいと思います。
映画素人のただの個人的な感想です。(多少のネタバレを含みます)
これは『結末のない、自己探求の物語』
物語の中では、象徴的な存在として、「バービー」と「ケン」がいます。どちらも、どこかの誰かから勝手にあてがわれた「個性」や「役割」を持っていて、それを当たり前のように受け入れていたけれど、どこか虚しさや諦め、「自分は典型的なバービーだから」と言うような、逆に強すぎる自己定義や執着のようなものも持っています。
そこから、さまざまな経験を通して(ざっくりw)、バービーもケンも「アイデンティティの揺らぎ」に直面します。
そのプロセスが、苦しくて、可笑しくて、でもパワフルで、「他の誰でもない"自分"という存在を見つけたい!」という願いが美しくて、気づいたら涙がボロボロ溢れてきていました。
最終的には、2人ともそれぞれの意志で生き方を模索していくことになるのですが、終盤にものすごくモブキャラがサラッと言った一言がすごく残っています。
「女性として」「男性として」という前に「1人のひととして」、「自分らしく生きたい」と願うことは、根源的な欲求なのかもしれません。
でも、「自分らしく、そのままで」は言うほど簡単ではありません。そんな言葉をかけられたとしても、担ってきた役割を手放すことも、纏ってきた鎧を脱ぐことも容易ではないし、そもそも「自分らしさ」とはなんなのか、自分は本来の自分に何を願っているのかなんて、簡単に言葉にできたり体現したりできる人ばかりではないでしょう。
それでも、「そのまんまの自分」とはどんな自分なのか。
自分は根っこで自分自身に対して何を願っているのか。
それを探求し続けることが、人生なんだと思います。
そこに、結末はありません。毎日がピンク色でポジティブなわけでもないし、葛藤も迷いも、名前もつけられないような感情やモヤモヤもあるだろうけど、それが人生。そして、それこそが人間らしい営みなんですよね。
バービーが初めて、人間界を訪れたとき、公園のベンチに座りながら、さまざまな人間模様を目にします。家族でワイワイとピクニックを楽しんでいる様子、男性同士のカップルの仲睦まじい様子、男性が独り悲観に暮れて頭を抱えている様子、、、毎日がポジティブで、パーティで踊り明かす日々しかなかったバービーはそんな人間達の様子が新鮮。
そんな描写をみて、私も「あぁこれが人間なんだよなぁ、人間でよかったなぁ…」となぜか込み上げてきました。
『女性』という立場で感じたこと
本編ではこれでもかと言うほど、「女性として(男性として)の生きづらさ」のようなものも描かれます。
完璧な『バービーランド』で暮らすバービー達。彼女達は、「あなたは何にでもなれる!」と言うキャッチフレーズで少女達に届けられてきたことで、いかに人間界の女性達に夢を与え、エンパワーしてきたかに誇りに思っています。
ところが、いざ人間界を訪れ、かつて自分で遊んでくれていた少女に出会い、「ほら!私がバービーよ!夢と力を与えてきたでしょ!ハグしてもいいのよ!」とドヤりますが、少女は冷めた目で塩対応。何なら「バービーのせいで女性の自立は50年遅れた!お前のせいだ!」と責め立てます。
ここで印象的だったのは、その少女の一言。
何かを与えられる存在ではなく、自分ですでに「持っている」し発揮できる存在なんだ、という力強さ。現実世界の中の「女性活躍」と言うような文脈が個人的にあまり好きではないのですが、ここに通ずる言葉だなぁと感じました。
「活躍させてあげる」「エンパワーしてあげる」
無自覚なランクが潜んでいる気がしませんか。
また、大切な場所が変えられていってしまうことに悲観するバービーは「自分は"典型的なブロンドバービー"で、医者バービーや判事バービーなどの"賢い系バービーではないから、現実を変えられる力はない」と言います。
そこへ、友人が「あなたは賢いわ」と背中を押します。
どんな人も賢さや状況を動かす力を持っているんですよね。その発揮の仕方を、いつも模索しているだけで、可能性はすでにそこにある。
「賢さ」や「パワー」は特定の職業や役割に紐づくものではなく、本来誰にでもあるもので、それを「どう使うか」は自己探求の問いの一つですし、誰かに与えられるものでも、評価・承認されてでしか手に入れられないものでもない。
そんなメッセージを受け取って、現状にもがく全ての人に伝えたくなりました。(もちろん、私自身も勇気づけられました)
さいあやの偏愛
自分でも驚くくらい最後の方はなぜかずっと泣いてました。笑
「自分自身を生きたい」という願い、魂の叫び
その人の周りで、どうにか関わろうとする人たちの愛
そうした人たちの営みにより現実が変化していくプロセス
そういったシーンの一つ一つがたまらなく愛おしくて、ぐっと来たんだと思います。
改めて自分の中のスイートスポットというか、偏愛ポイントを見出せたこともまた、いい鑑賞体験になった一つだと感じています。
画面も音楽もポップで明るく、難しく考えずとも普通に楽しめる映画だと思うので、ぜひ見てみてください。
自分だけでは消化しきれていない感じもあるので、誰かと話したい・・・。
(ちなみに)
公開前のSNSでの騒動については、正直非常に残念です。が、歴史の認識は、背景が違えば扱い方も異なってくるのも当然とも思っています。
今回の件を通じて、どれだけ私たち日本人が傷つけられたのか、傷ついたのかを知ってもらえる機会になったのであればいいなと思います。