川のほとりに
古本屋で見つけた1冊の本の話。
❝ ぼくらの泳ぐ北上川の深みは、町はずれの橋の下にあった。橋は対岸の遠野街道の基点になっていて、その先の遠野の峠を越えれば海が見えて、眼下に釜石の港町があることをぼくは知っていた。岩手県には細い篠ならばあるが、竹は生えていない。それなのに、竹槍で戦う話が子供たちのあいだにも伝わっていた。そういうある日、ひときわ暑いのに、ぼくらに泳ぐことは許されなかった。正午に重大放送があるという。隣家に集まって、ラジオを聞かねばならなかった。❞ p188
「めぐりくる夏の日に」 河島英昭 著 岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b264420.html
このエッセイ集では、戦前の東京に生まれた著者が、疎開先の岩手県の北上川のほとりで敗戦を迎え、戦争の影を落としながら盛岡に進学した少年時代の夏、幼年期に失われた故郷と川の風景を軸に回想している。
古本屋の100円棚にささっていて、白い背表紙が吸い込まれるように目に入ってきた。感染症の緊急事態宣言により時間が停止したようなこの時期に読むと、戦争時代の回想録も時間が停止しているかのような感覚をおぼえ、出会うべくした出会ったような本だった。
河島英昭氏はイタリアの小説家/詩人 チェーザレ・パヴェーゼの翻訳者でもある。私が「故郷」と「幼年期」についての本を読み漁っていた時期に繰り返し読んだ本のひとつがパヴェーゼの小説だった。故郷の風景や青春の痛みを、神話のように視覚的かつ鮮やかに残した小説が多い。
このエッセイ集のタイトルにある「夏」もパヴェーゼの小説を思い出す季節のひとつだった。その「夏」は翻訳者自身の記憶にも残る象徴的な季節であることを知った。
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❝ 十年を経て、ぼくも辛うじて都会へ帰ってきた。そして平和なはずの時代に、さらに失われてゆく緑を追いかけながら、ある日、春の郊外の土手にショプコの群れを見つけた。それらはもう菖蒲になりかかっていた。「菖蒲っこ!」そうだったのか。思わずそう叫んで、ぼくは胃袋のあたりを押えた。そして我にかえったとき、武蔵野の水辺には、ただ青い風だけが流れていた。❞ (1974年)p13
河島氏にとって再び住むことが叶わなかった失われた故郷の東京・大森。
それは私にとって幼年期に過ごした雫石・橋場という僻地にあたる。
高地の深い森に囲まれたクラスメイトは6人ほどしかいない小さな保育園と小学校で、父の転勤のため5歳~7歳まで住んだ。当時住んでいた小さな貸家は数年後には解体され無くなり、当時通った小学校は過疎化で閉校した。
そのあと父の故郷遠野に引っ越した。
そのため出身地としている遠野は私にとってどこかよそ者のような目でとらえることができる地でもあり、8歳で転校生として入った小学校から上京するまでの10年間を過ごした時間は、多くの友人と出会った楽しい時間であると同時に、無意識下に幼年期の喪失の影を落とした10年間でもあったように思う。
❝ 「あなたの故郷の川は?」と尋ねられれば、私はためらわずに答える。「内川、それは東京都に失われた河川の一つだ。」 ❞ (1990年)p6
私の故郷の川といえば、盛岡の北上川に注ぐ雫石川上流の「竜川」だ。奥羽山脈の険しい深みを流れていた川のほとりに近づくには幼すぎて、姿かたちの記憶はないが、竜川のざあざあ流れる音とそこから自宅庭の奥に静かに流れる用水路で遊んでいた記憶が鮮明にある。
その竜川は、かつて河島氏が少年時代を過ごした盛岡の北上川のほとりに注いでいく。見えない糸に導かれるように、「川」をとおして過去とつながり、故郷を新しく見出している。
河島氏にとって10歳まで過ごした東京大森界隈は、半世紀以上を経た晩年にも、なお原風景となって心に染みついて離れなかった。それでも現在を罵り、ただ過去を懐かしむつもりはないとつづっているように、イタリア文学に没入し、表現する方法を検証していったことが、無上の幸いをもたらしたという。疎開先の岩手のほか、信州や軽井沢、イタリア、東京大森への再訪など異土を歩き渡りながら、時代と季節をめぐっていった。
❝毎年、同じようにめぐってくるのに、違う表情をみせるのが夏だ。
1945年8月。思い返すたびに、またとない青空、遠い雲、緑の山並み、そして光る川。❞ p71
北上川にそそぐ中津川 2018年4月 撮影:民佐穂
先月2020年5月25日は河島英昭氏の三回忌にあたる。
改めて亡き河島英昭氏に感謝したい。
チェーザレ・パヴェーゼ(Cesare Pavese, 1908年9月9日 - 1950年8月27日)…20世紀のイタリア文学におけるネオレアリズモの代表的な作家の一人