見出し画像

きれいは穢ない 穢ないはきれい

「きれいは穢(きた)ない 穢ないはきれい」マクベスの中の魔女の言葉。
若い時、"きれいか、穢ないかどちらかにしてよ!"
中年になって、"もしかして、「きれいは穢ない」はありかも?”
いま老年、"確かに「きれいは穢(きた)ない 穢ないはきれい」だよな!"
心に残る言葉は、ことあるごとに顔を出し、真意を変えていく。お盆の週だから番外編を書いてみた(笑)

「九相図」というのがある。美女が亡くなって骸が腐ってゆき、ついには骸骨と化していく有様を九相にわたって描いた仏教画だ。きれいは儚ないもので、一皮剥けばグロテスクに変わる。修行僧たちの煩悩を戒める仏の教えだが、九相図には諸行無常が響きわたっている。確かに何ひとつ、変わらないものはないのだが.....

いま老年、「きれいは穢(きた)ない 穢ないはきれい」はまた、違う響きを奏でている。きれいはやっぱりきれいなんだ!  ただ、"きれい" は "穢ない"に裏打ちされるとき、よりいっそうキラキラと輝くのだと思う。目の前のバラはやがてしぼんで枯れてしまうがゆえに今、輝きを放つのだ。内に秘めたる"穢ない"がきれいを平べったいものでなく、奥行きがある陰影を含んだものとする。束の間であろうとも、きれいは人を幸せにする。その幸せをこころから味わうため、知りたいのが「きれいは穢(きた)ない 穢ないはきれい」。

「かごめかごめ」というわらべ唄、「夜明けの晩に」と唄われる。夜明けは日の光がさし始める時、晩は闇があたり一面に拡がっていく時、じゃあ夜明けの晩は? 闇に引き戻される夜明け、闇が支配する夜明け、そんな夜明けがあるのかな? 子供のころは無邪気に唄ってたのに、戸惑いを覚える。
闇は光の母体なのではないか。闇があってこそ光は生まれる。闇で覆いつくされた中から夜明けの光は生まれる。闇にも大いなる存在意義があるのだ!

例えば病と健康。病が闇で健康を光とすると、健康に支えられる病がある。病に支えられる健康もある。「病気だけど元気です!」があいさつ言葉の人もいる。「病気のためにあれもこれも出来ない!」と意気消沈の人もいる。子供のころのように怖くて闇から走って逃げるのではなく、闇にうごめくものを人任せにせず、自分自身で見つめてみる。光を見出したいなら闇を見つめるほかはない。「光は闇 闇は光」も真実だと思う。

今年のお盆、コロナで息子たちも帰省せず… 
一人あれこれ妄想(笑)にふけるのも悪くない!

「シルリアの海」 you tube アップ たまには現実から離れて............


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?