
さよならまよいご
新人賞に応募した小説です
わたしの名前は和泉愛花。二十八歳だ。都内でOLをしながら、自分に恋愛感情も性的関心もない男と暮らしている。なお、わたしも彼に恋愛感情や性的関心はないので、全く問題はない。これは単なる異性同士のルームシェアだ。確かに世間的に見れば、少しどころかとてもおかしなことかも知れない。ただ、わたしも彼も、世間の目など気にしていないので、これも問題はない。ルームシェアに必要なのは、お互いを信頼する気持ちだけだ。その点では、わたしも彼も、お互いを信頼し合っているし、条件は満たしている。
ところで、彼の名前は如月颯という。格好良い名前に違わぬ顔の美しさは見る者ほとんどを魅了すると言っていい。背も高く、スタイルも良く、外見だけなら最高スペックの持ち主ということになるのだろう。彼も都内の会社でシステムエンジニアをしていて、帰宅は遅いことが多い。中小企業で営業事務として働くわたしと、IT系の会社でシステムエンジニアをする彼の間に、共通点はほとんどない。本来なら、出会いの場もないはずだった。
そんなわたしと彼が、何故出会ったのか。そして何故、恋愛感情の類が一切ないのに一緒に住むことになったのか。その話は三年前に遡る。
わたしは都内の大学を卒業してから働き始めて、三年が経っていた。適度に仕事を覚え、適度に気を抜きながら生活が出来るようになったころだった。締め日以外ほとんど残業はなかったし、自分の時間もしっかり取れていて、文句のない会社に入れたことを今更ながら喜んでいた。そんな折、会社の後輩から、合コンに誘われた。何でも、始め一緒に行く予定だった友達が急用で来られなくなったため、人数が足りず、どうにかお願い出来ませんか、という話だった。わたしは出会いを求めてなどいなかったし、そういった飲みの場は苦手だったので、最初断ったのだけれど、押しに押されて、今度ランチを奢って貰うという条件で渋々参加を決めた。その日の定時後、後輩とカフェで少し時間を潰した後、約束の二十時半に店へ向かうと、そこに彼が居た。前述の通り、彼はかなりの美形なので、既に居た女性陣の視線は彼だけに注がれていた。わたしはといえば、イケメンだの美形だの、そういったものには一切興味がないので、男性陣を適当に眺めた後視線を戻そうとした。そのとき、視界の端に、一瞬、驚いたような顔をしている先程の美形が映った。何だろう、と思って見ると、彼の視線は、驚くべきことにわたしへと向けられていた。その時点では、ただ不思議だった。彼のことを何も知らなかったこともあるし、合コンに来ているのだから出会いを求めているのだろうに、何故容姿が平凡と呼ぶには目つきの悪すぎるわたしを見ていたのかが分からず、席に着いてからも、さっきのは何だったんだろう、とぼんやり考えていた。
合コンが始まり、しばらくすると、どうやら彼自身もこの場に望んで来た訳ではないらしいと分かった。女性陣に何を訊かれても適当な答えしか返さず、目も合わせず、隣にいた男性に肘で小突かれていた。もう少し愛想良くしろよ、とでも言われたのだろう。それでも彼は平然とカシスオレンジを飲んでは、どこか明後日の方向を見た。何を訊かれてもまともに答えない彼を見て、多くの女性陣は興味(というかターゲット)を変えたらしく、彼以外の男性陣に話し掛けていた。それでも熱心に話し掛け続ける女性も一人二人いて、その度に彼は迷惑そうな顔で適当な答えを返していた。
こうして思い出すと、わたしが彼のことばかり観察していたように思えるが、それは勘違いだ。わたしは人目を惹く容姿ではないのに、社交辞令的に話し掛けてきた男性にも彼と同じく適当な答えしか返さなかったので、既にこの場から見捨てられていた。それをいいことに、テーブル全体を観察していたところ、やはり美形で女性陣の興味を一身に受ける彼が目立っていただけのことだ。その構われ方といえば、今まで一度もモテたことがないわたしでも、モテるのは大変そうだなあ、という感想を覚えるほどだった。
時間が経ち、その場は解散になったが、わたし以外のメンバーは二次会に行くらしかった。顔も良くないのに態度の悪かったわたしが誘われないのは分かっていたことだったので、さっさと帰ろうと使っている電車の改札口に向かっていたところ、いつの間にか隣に彼がいた。先程女性陣の興味と視線を一身に受けていた彼が。一応最初に全員が自己紹介をしたものの、興味がなく名前すら覚えていなかったので、何と話し掛けたものか迷っていると、彼は「如月颯と言います」と自分から口にした。きさらぎ、はやて。何だか格好の良い名前だなあ、と思った。漫画のキャラにいそうですね、と感想を述べようとしたとき、彼はその、薄く、花開くような唇で、ぽつりと呟いた。
「あの、連絡先交換して貰えませんか」
「え?」
わたしが驚いたのも無理のないことだった。先程までの合コンで、彼とわたしは一切話していない。加えて、もう何度目になるか分からないが、わたしは人目を惹く容姿ではない。いわゆるB専というやつだろうか? と一瞬頭を過ぎるが、いやいやわたしは確かに美人ではないがブスという程でも、と謎の自尊心が芽を出してしまい、考えがまとまらなかった。仕方がないので、思ったままを口にする。
「えっと、それは、何で?」
「あなたが……いえ、何でもありません。僕はあなたに惹かれました。それだけではいけませんか?」
彼がわたしを見る目は、真剣ではあったけれど、わたしを見ているというより、わたしを通して別のものを見ているような気がした。わたしは、そういう勘だけは鋭いのだ。けれど、わたしを通して何を見ているのかが気になったので、別れる前に連絡先を交換して、家路に着いた。帰宅してしばらくすると、早速、今度また会えたら嬉しいです、という内容のメッセージが届いた。また会えたら、という言葉に何だかやっぱり含みがある気がして、それを確認したくて、いいですよ、と送ったものの、その日が金曜日で、合コンの開始や解散が遅かったこともあり、お風呂に入るだけ入って、返信は確認せず疲れて寝てしまった。
起きると、ぽつんと一通、メッセージが届いていた。ありがとうございます、と一言。やはりわたし自身への気持ちというより、それ以外の何かに突き動かされ、わたしに目を付けたような気がした。それでもわたしも彼のことには関心がなかったし、どうでも良かった。そこで一旦メッセージは途絶え、わたしも日常に戻った。
しばらくして、唐突に、彼からメッセージが届いた。「急ですが今週の土曜日なら何とか都合がつきそうです。予定が合えばご一緒しませんか」というものだった。友人もおらず、趣味も料理くらいしかないわたしには、急を要する用事が一切なかったので、そのときも気軽に、いいですよ、と返信した。この時点で、わたしは彼の仕事についてを一切把握しておらず、休日出勤が多い中やっとの思いで休める日が来たというのにわたしを優先した、ということを全く知らないままだった。ただ、何とか都合が、という言葉だけで、この人は忙しいんだな、と思った。それくらいの感慨だった。
約束の時間より少し早く待ち合わせ場所に行くと、彼は既にいた。どうやら時間に正確な人のようだ、とそのとき思った。思えば、合コンのときも、早くから席に着いていたし、きっとそういう人なのだろう、と考えながら、「こんにちは」と声を掛けた。スマートフォンに視線を落としていた彼は顔を上げ、背が高いお陰で大分と高い位置にある目線をしばらく彷徨わせたあと、やっと下にあるわたしの顔に気付き、ああ、と呟いた。わたしも女性としては背が高い方で、百七十センチあるのだけれど、彼はそれよりもっと高い。きっと、百八十センチを悠に越えているだろう。だから見下ろすことには慣れているだろうに、自分と同じような目線でわたしを探していたことに疑問を抱いた。それはきっと、わたしを通して見ている別のものに関係するのだろう。
わたしにはどうしても、これがデートであるとは思えなかった。彼もきっとそうだろう。ただ、二人で、お茶をして、わたしが興味を持っていないせいで知らなかった彼の話を聞き、わたしも自分のことを話した。ただ、意外にも彼は、合コンでわたしがした自己紹介を覚えていた。「和泉さんは、会社都内でしたよね。家から近いんですか?」改めて聴くと声はやわらかで透明感があった。きれいな人は声まできれいなのだな、と男性に対して思うにはおかしな感想を抱いたが、さすがに口にはしなかった。
「家からは三十分くらいですね。まあ近い方、ですかね? ……えーっと、如月さんはどうなんですか?」
「あ、僕の方が年下だから敬語で話してるだけなんで、和泉さんは普通に喋ってくれていいですよ」
「年下だったんだ……。落ち着きあるね。じゃあ、如月くん、でもいいかな」
「はい」
そう言って彼、如月くんは笑顔を見せたのだけれど、その表情はどこか固く、無理に作っているようにしか見えなかった。無理しなくていいよ、と言うべきだろうか。それならついでに、わたしに惹かれたというのも言い訳だと指摘しておいた方がいいだろうか。初めて二人で会うのに突っ込み過ぎな気はしたのだけれど、どうしても気になって、話が途切れたタイミングで、わたしは結局言ってしまった。
「無理しなくてもいいよ」
「…………え?」
「笑顔も、わたしに惹かれたっていうのも、言い訳でしょ? 何か理由があるんでしょ?大丈夫だよ、分かってるから」
わたしがそう言うと、如月くんはようやく笑顔を止めた。無表情ではないが、何かを考え込んでいる風だ。この間に何かを口走るのは避けた方がいいように思えたので、わたしは黙っていた。アイスティーを飲んで、ただ待っていた。彼の、何かしらの覚悟が、決まるまでを。
やがて、彼は深い溜息を吐いた。その溜息で、彼の中にあるものの根深さに気付いた。わたしは、余計なことに首を突っ込んでしまったかなあ、と少し思っただけで、後悔や罪悪感などは微塵も覚えないまま、唇を開いた彼を見つめた。
「あなたに惹かれたというのは、確かに言い訳です」
「他の誰かに重ねてる?」
「…………そこまでバレてるなんて、思ってもみなかったですけど」
彼は眉間に皺を寄せて、ぼそりと、「やっぱり、こういう人って、変に鋭いのかな」と呟いた。独り言のようだったけれど、気になったので、「こういう人って?」と訊ねてしまう。如月くんは「まあ、これから話します」と言ってまた溜息を吐いた。あまり話したいことではないけれど、わたしが妙に感付いてしまったので仕方がなく話しているといった具合だった。そこでようやく、何だか申し訳ないなあ、と思った。それも、些細なものだったけれど。
「僕、高校時代、部活やってたんですけど」
「へえ。スポーツ?」
「そうです。簡潔に言うと、そこで僕に色々なことを教えてくれた先輩が、あなたに似ているんです」
「スポーツって意外だねえ」
呑気に相槌を打つと、彼は更に怪訝な顔になって、「普通、気になるのそこじゃないでしょ」と言った。まあ、そうかも知れないけれど、わたしは学生時代から、よく、変わってるね、と言われていたので、普通、に該当する訳はないのだった。「そうかもねえ」とだけ答えると、如月くんは諦めたようにもう一度溜息を吐いて、続きを話し始めた。
「で、その先輩が、僕に多大なる影響を与えていて、今でも夢に出て来たりするんです」
「へえ。そうなんだ。じゃあ如月くんはその先輩のことが好きなの? そう聞こえるけど」
「好きとか、そういうのじゃ……ないと思うんですけど。でもそこも分からないままで。そもそも僕、人を好きだと思ったことがなくて」
「ああ。それはわたしも分かるなあ」
うんうん、と頷くと、意外そうな顔になった如月くんが、「そんなの僕だけだと思ってました」と言ったので、そんなことないよ、と返した。わたしもよくは知らないけれど、性的対象が存在しないという人も世の中にはいるらしい。噂だったかインターネットだったかでそれを知って、わたしはそれかも知れないなあ、と思ったことがあったので、そう説明した。如月くんは興味深そうに聞いていた。少なくとも、初めて会った合コンのときよりはずっと。
「人を好きになるって、どういうことなんだろうね」
「僕にも分かりません。そう言ってるじゃないですか」
「分かってるけど、同じ悩みを持つ人と出会うなんて思ってなかったからさ。わたしも初めて人に話したよ」
「あ、そうなんですか。……まあ、言いづらいですよね」
その日は、それで終わった。お互いの深いところが意外と繋がっていたことが分かって、わたしは如月くんを身近に感じるようになった。あくまで、恋愛対象ではなかったし、性的興味は一切なく、一人の人間として、共鳴しているのだと思うようになった。そしてそれは如月くんも同じだったようで、時々、また会えますか、というメッセージが来て、わたしも応じて、何度か二人で会って、ただひたすら話すだけの時間を過ごした。その中で、一応念の為、わたしはあなたに恋愛的な意味でも性的な意味でも全く興味がないよ、と言うと、安心したようにほっと息を吐き、僕もです、と答えがあった。普通の人たちから見たら変な会話だろうけど、わたしたちは普通じゃないので、そのことを確かめると、安心するのだった。
半年が経ったころ、会話の流れで、如月くんの仕事が殺人的に忙しさを増していることが分かった。そのころにはわたしも如月くんも大分とお互いに心を開いていて、ご飯作っておいてあげようか? と言ったり、それは申し訳ないのでいいです、と断られたりしていた。如月くんは相変わらず、わたしは名前も顔も知らないかつての先輩に思いを馳せているようで、その殺人的な忙しさの合間を縫ってわたしと会うことを選び続けた。けれど、会う度にどんどん痩せて、というよりやつれていく如月くんを見て、どうしても耐えきれず、わたしは支離滅裂だと自分でも思いながら一つの提案をした。
「一緒に住まない?」
「……え?」
「ほら、わたしたち、お互いに恋愛感情も性的関心もないでしょ。一緒に住んでも問題ないでしょ」
「それは、そうですけど……僕はともかく、和泉さんに利点あります?」
「利点って言われても、別にないけど……。わたし料理好きだし、如月くんのことを少しでも助けたいなって思ったから。せっかく一緒の悩み持ってるんだし、仲間みたいなものでしょ? だめならいいけど」
「仲間って……漫画じゃないんですから」
やつれた顔で苦笑する如月くんは、痛々しくて、でも、変わらずきれいだった。きれいなもの、格好良いもの、かわいいもの、その全てに然程興味はないけれど、これは多分、本能に近いんだろう。守らなくては、と思わせる。庇護欲とでもいうのか、そういう感情を抱かせる儚さが、如月くんにはあった。モテるのも、きっと顔やスタイルの良さだけでないんだろう。相変わらず如月くんに対してのそういった興味は一切なかったけれど、モテる理由については、何となく分かる気がし始めた。
如月くんは少しの間悩み、もう一度わたしの意思を確認してから、結果的に、「お願いします」と呟いた。そうしてわたしたちは、一緒に住む準備を始めたのだった。
こういうことがあって、二年前から、わたしたちは一緒に住み始めた。如月くんは変わらず忙しく、わたしと言葉を交わさないどころか顔すら合わせない日も良くあった。とはいえ、わたしたちがしているのは同棲ではなくルームシェアなので、会話などなくても問題はない。一般的なルームシェアと違うのは、ほぼ全ての家事をわたしがしているということ。これは、わたしが、締め日以外は殆ど定時で帰ることが出来る職に就いているから、という理由に基づく、極めて合理的な結論だ。如月くんは一応、土日の掃除担当ということになってはいたけれど、土曜日出勤も頻繁にあったので、そういうときはわたしが土曜に簡単な掃除を終わらせておき、日曜日に如月くんが細かなところを担当する、というサイクルが確立されていた。本当は、殺人的に忙しい如月くんの、貴重な一日だけの休みに掃除なんかして貰うのは申し訳ないと思っていたのだけれど、彼は彼で家事に手を付けられないことを悪いと思っているようで、言わずとも自分から始めてしまう。それに、大雑把なわたしと違って如月くんは几帳面で綺麗好きなので、わたしの掃除では気になるところもあるようだった。罪悪感からか、決して口にはしないけれど。
一緒に暮らすようになって、如月くんは如月くんなりに心境の変化があったようで、わたしにため口で話すようになった。そのときも、「敬語止めても良いですか」という提案付きだった。ちなみに、ここにも、如月くんが抱く、『憧れの人への気持ち』と『わたしへの一応の配慮』が表れている。如月くんは、わたしに似ているという憧れの人を重ねてわたしを見てはいるけれど、そのことにも罪悪感があるようで、少しでも切り離すために、憧れの人にずっと遣っていた敬語を止め、わたしという人間に接することにしたようだった。わたしはといえば、如月くんは年下とはいえ妙な落ち着きがあるので、ため口でも全く何も気にせず、良いよ、とだけ答えた。そもそも、わたしという女は他人に興味がない性質なので、落ち着きがない年下にいきなりため口で話されても何も思わないかも知れない。
そういう訳で、他人に興味がないわたしの、唯一気になる存在が、如月くんなのだった。だから世話を焼いてしまうし、疲れていれば心配もする。ただ、相変わらず恋愛としての興味は全くなかった。強いて表すならば庇護欲、弱いものを守らなければという本能、それらに動かされ、わたしは如月くんとの生活を続けていた。
ちなみに、如月くんと暮らし始めたことについては、誰にも何も言っていない。友達は元からいないから良いとして、一緒に合コンに行った後輩にも、職場の人にも、親にも。引っ越すから住所が変わるとは言ったものの、住所は教えていない。万が一住所が知られ、親が家に来るようなことがあれば、あらぬ誤解を受けてしまう。わたしも、如月くんも。『普通』の人たちから見れば、わたしたちのルームシェアが『同棲』に見えることは重々承知していたから、そこは細心の注意を払っていた。一緒に出掛けることも無く、タイムテーブルもばらばら、もちろん表札にも名前は出していない。だから、同じマンションの人たちも、わたしたちが一緒に住んでいることを知らない気がする。そう思いたいだけかも知れないけれど、実際わたしの出勤時間はともかく、如月くんは十時出勤なので、普通の人たちより大分と遅く家を出る。二人で住み始めたマンションの場所はちょうどお互いの職場の中間で、アクセスも良かった。わたしは二十分、如月くんは十五分ほどで職場に着く。ぎりぎりまで寝ていたい方の如月くんは大体ぎりぎりに家を出るので、そうすると早くて九時半。如月くんからも、その時間に誰かと会ったという報告は聞いたことがなかった。そして帰りは言わずもがな遅いので、如月くんの存在自体、マンションの人たちに認識されているかどうか怪しい。お互いの間で、もし二人で住んでいることがバレて、何かを訊かれたら姉弟だということにしようということになっていたけれど、今のところその嘘を吐く心配すらもなさそうだった。
そういえば、一緒に暮らす少し前、誰も恋愛・性的対象にならない人のことを何と呼ぶのか調べてみた。インターネットによれば、ノンセクシャルと呼ぶそうだ。わたしはほぼ確実にそう言っていいと思うのだけれど、如月くんは、どうにも、違う気がする。長く共に暮らすうち、『憧れの人』についての話も大分と聴いて来たのだけれど、『憧れの人』とは、相手が高校を卒業してから一度も会っていないらしい。大学生になった後は、何度か飲み会などのお誘いもあったようだけれど、それらは全て断っていたと如月くんは言った。そして、その理由として、「もし今あの人に会って、憧れ以外の何かが生まれてしまったら、怖いから」を挙げた。それは、恋愛対象が男性かも知れないと認めることの怖さではなく、憧れの人に抱く気持ちが恋になってしまう怖ろしさを感じさせた。それは、恋愛対象がないわたしにも分かる気がした。何となく、だけれど。
「きっと、如月くんは、憧れは良いものだけど、恋は汚いものだと思ってるんじゃない?」
「ああ……なるほど」
如月くんは、わたしの提案が妙にしっくりいったらしく、いつになく深く頷いた。そして続けて、「だったら余計会う気にはならないな。あの人を汚すかも知れないなんて怖くて仕方ない」と呟いた。独り言かも知れなかったけど、そうだよねえ、と答える。話はそこで終わり、後は平和な日曜の昼下がりになった。けれどわたしは、考えていた。如月くんの『憧れの人』への気持ちは、やっぱり恋なんじゃないかなあ、と。汚すかも知れないと怯えることは、その可能性があると認識しているということでもあるからだ。可能性がないなら、怖れる必要もない。そういえば、最初二人で会ったとき、好きなの? と訊いたわたしに、自信なさげな顔と口調で「そういうのじゃないと思う」と言っていたし。
要するに、如月くんは、自分の『憧れの人』が『恋愛対象』になってしまうことが怖くて仕方がないのだ。そして、その気持ちが『憧れの人』を汚してしまうかも知れないという危惧のお陰で、会うことも出来ず、その人に似ているというわたしに面影を重ねて何とか生きている。それって、辛いんじゃないかなあ、と他人事のように思う。実際他人事なのだけれど、如月くんに関しては、わたしにとっては最早同志とでも言っていい存在だったから、多少の感情は生まれた。けれどそれは、どうしても恋愛感情ではないのだった。
そうして今、一緒に暮らし始めて二年が経つ。近頃は如月くんの仕事も少し落ち着いたらしく、二十二時くらいに帰宅して、食事やお風呂を終えても、三十分くらいは話す時間が作れるようになった。その間、如月くんが話すのは、憧れの人のこと。どういうところがわたしと似ているか、その人がどう凄かったか、何を教えてくれたのか。様々なことを、普段は無口な如月くんが饒舌に喋るのを聴いて、時々相槌を打つ。更に時々、口を挟んだりもする。
その話を聴いていて分かったのは、如月くんがその人のことを本当に尊敬していて、感謝もしている、ということだった。聞けば如月くんは、その人に師事を受けるまで、部活は部活だという程度の考えしか持っていなくて、熱意もなかったらしい。それを見兼ねたのか、同じポジションだったその人が、如月くんを指導するようになり、如月くん自身の技術が目に見えて向上したのだと言う。それは確かに凄い人だな、と思った。でもわたしにはそんなことをするほど何に対しても熱意はないし、似ているのもあくまで外見だけなのだろうと思っていたのだけれど、また、ある日曜日に話していると、如月くんは、「そういうところも似てるんだよね」とわたしに向かって言った。誰と誰が、なんて訊くまでもない。
「そういうとこって、どういうとこ?」
「最初会ったときも言ったけど、妙に勘が鋭いところ」
そのときのわたしは、如月くんが携帯を持って真剣な顔をして、スリープを解除したりまたスリープしたりを繰り返しているのを見て、「ご両親に連絡取ろうか迷ってるんだったら取った方が良いよ」と言ったのだった。確かに、鋭いと言われればそうかも知れないけれど、そんなに言われるほどのものだろうか。今ではわたしも如月くんの『憧れの人』についてある程度詳しくなっていたから、その人だったらもっと鋭いんじゃないかな、と思った。
「孝行したいときに親はなしって言うしねえ」
「……そういうとこも似てる」
「えー?」
「自分の話になるとすぐはぐらかしてた、あの人も」
今のわたしの言葉に、はぐらかす意図がなかったかと言われればないとは言い切れなかったので、そうなんだ、と言うだけに止めた。そしてしばらく時間を置いて、「今日の夕ご飯何が良い?」と話を変えた。如月くんは何か言いたそうだったけれど、結局、「久し振りにパスタが食べたい」と、渋々、口にした。わたしが得意とするのは和食なので、確かに洋食はあまり作らない。如月くんはどちらかといえば洋食が好きだし、確かに信頼し合う上では歩み寄るのも大事だと思い、分かったよ、と答えて、何パスタにするかを話し合った。
その日のパスタの出来は上々だった。如月くんは食欲が薄いというか食への興味がほとんどないらしく、出されたものなら大体何でも食べる。珍しい食材や見たことのない料理には顔を顰めるけれど、恐る恐る口にして、何だ普通だ、とでも言うように表情を緩め、結局完食することが多い。残すときはお腹がいっぱいのときだけだ。そういうときも、わたしは怒ったり嘆いたりすることなく、次の日の自分のお弁当に入れてしまう。寧ろ、おかずを考えなくてラッキーくらいに思う。
最初は如月くんが心配で始めた同居だったけれど、今ではわたしたちは、お互いを信頼し合って、とても良い関係が作れていると思う。激情を向けることは決してない、凪のような関係。喜ばしく思うことはたまにある。けれど、悲しんだり寂しがったり、そういった感情とは無縁だった。ここでもしどちらかが、相手に好意を持ってしまったら、この関係は破綻する。お互い、お互いのことを、恋愛も性愛もなくただ人として信頼しているからこそ成り立つ関係。ある意味綱渡りのようなものなのかも知れない。けれど、わたしも如月くんも、そんなことはないと言い切れる。言い切れるからこそ、少し怖い。この関係に、出口は、あるのだろうか?
日常はそれこそ、凪のように、あるいは矢のように、過ぎていく。ゆっくりしているようでいて、一瞬のようでもある。平坦で変化のない仕事を終えると、スーパーに寄って食材を買い、帰宅して風呂の掃除をして、十九時を過ぎたら食事を作り始める。作り終えたら自分だけ食事を済ませ、お風呂に入り、全てを終えてから、ささやかな楽しみである缶チューハイを飲む。やがて如月くんが帰って来るので、食事を温めて出して、如月くんがお風呂に入っている間に二人分のお皿を洗って、また缶チューハイを飲む。また、と言っても、わたしはお酒が強くないし飲むペースも遅いので、先程までの残りを飲むことが多い。綺麗好きな如月くんがお風呂を終えて出て来るまでには、長くて一時間掛かる。その間にもう寝ようかな、と思い始めるけれど、そこは気分によるところが大きくて、起きていることもあれば寝てしまうこともある。わたしが起きていれば如月くんは缶チューハイを傾けるわたしの斜め前に座って憧れの人の話を始めるし、わたしが寝ていれば自分も部屋で寝る。ちなみに、ルームシェアなので、当然ながらベッドルームは二つある。都心に近くワンルームではないこの部屋は、それなりに家賃も高い。ただ、わたしも如月くんも、趣味というものがほとんどなく、浪費をしなかったので、貯蓄はあり、日々の給料だけでも生活には全く苦労しなかったから、こうしてこの部屋に住めている。家賃も生活費も光熱費も、完全に折半。その代わり、食費だけは如月くんが多めに出してくれている。本人いわく、家事をしないことへの罪滅ぼし、らしい。そんなこと気にしなくても良いのに、とわたしは思う。でも節約しながら料理を作り、外食も会社の飲み会以外しないとはいえ、二人暮らしだと食費もそれなりに掛かるので、有難いことなのだった。
そして、その日は突然やって来た。
いつもは早くても二十一時半に帰宅する如月くんが、急に二十時半に帰って来たのだ。如月くんの定時は二十時なので、ほぼ定時で上がったことになる。そのときわたしは、ちょうどその日の夕ご飯を作り終えたところで、玄関から音がしたのに誰も入って来ないことを不審に思い、見に行ったのだった。帰宅した彼は顔面蒼白といった様子で、スマートフォンを片手に玄関で立ち尽くしていた。どうしたの、何があったの、と訊いても、蒼くした顔を俯けて何も言わなかった。とりあえず無理矢理背中を押してリビングに移動させ、座って、と声を掛けてからお茶を淹れにキッチンに立った。お茶を淹れてから振り返ると、辛うじてわたしの声は聞こえたようで、如月くんはラグの上に座っていた。マグカップをテーブルに置き、何があったのかは分からないけれど相当良くないことのようだ、と思いながら、彼が話し始めるのを待った。
大分と長い間待ったと思う。その間にお茶はとっくに冷めていた。それでもそのお茶を一口飲んで、覚悟を決めたように如月くんが唇を開く。いつか、花開くようだと思った唇も、今日は色がなく、病人のようだった。
「あの人……から、連絡があったんだ」
「……そうなんだ。でも、それってこれまでもあったんじゃないの?」
「うん。飲み会の誘いとか、元気かとか、他愛ないものだったから、それには僕も返してたんだけど」
声にも覇気がなく、如月くんは、今にも消えてしまいそうだった。今は、儚いを通り越して、喪失寸前のように見える。実際、表情は茫然自失といった感じで、わたしと話していながら独り言を言っているようにも見えた。
「…………今回は、耐えきれなくて。いつも助けて貰ってるのに、また頼っちゃってごめん」
「わたしは全然いいけど……。で、何の連絡、だったの?」
「………………結婚式の、連絡だった」
ああっとわたしは声に出してしまった。如月くんはずっと、強い憧れを持っていた。その人のことが今でも夢に出て来ると言っていた。好きなんじゃないかと訊いたら、そういうのじゃないと思う、と自信がなさそうに答えた。その話は、一緒に暮らし始めてからも何度かしたけれど、その度に如月くんは、そういうのじゃない、そういうのにしたくない、と言い続けていた。そして、あの人を汚すかも知れないなんて考えたくないから会いたくない、とも。
当然のように浮かんだ疑問を、口にするべきか迷った。迷って、でも、如月くん自身も考えていることだろうからと、結局、訊いた。
「…………行くの?」
「分からない……まだ、迷ってる」
「返事は? した?」
「予定確認します、とだけ……」
如月くんは憔悴していた。それはそうだろう。ずっと憧れて、恋にはしたくないと思う程の強い憧れを持って、決して会わないと決めていた人の、よりにもよって結婚式。普通なら行きたくないと思うのだけれど、感謝もあると言っていたから、行くべきだという迷いが、如月くんを戸惑わせている。戸惑う、という軽い言葉で表して良いものなのかも分からない。もっと重苦しい何か。底のない泥の沼に足を取られてもがき苦しんでいる。そんな状態の男の人を、助ける術をわたしは持たない。けれどわたしには、約三年、築き上げて来た彼との信頼関係がある。そこから何かを導き出すことは、出来るかも知れない。
「行った方が、いいよ」
「和泉さん……?」
「会ったら何か変わるかも知れない。でも、変わらないかも知れないじゃない。それに、せっかく誘ってくれたんだし、久し振りに顔見せてあげたら、その人も喜ぶよ。ずっと会ってないんでしょ?」
性格や話し方、癖、如月くんが教わったこと、それらはたくさん聞かされて来たけれど、名前だけは未だに知らされていない『その人』。姿形だけでなく様々なところが似ているらしいわたしなら、如月くんを動かすことだって出来るかも知れない。何より、如月くんを、後悔させたくなかった。ただでさえ様々なことに後悔しているであろう如月くんを、これ以上、自縄自縛に陥らせたくはなかった。生きているだけで苦しいなんて、そんなの、悲しい。わたしだって、人生が特別楽しい訳ではないけれど、如月くんのそれは別物だった。自分でもどうにもならない思いを抱えて、泥沼に足を取られ、生きれば生きる程沈んでいく。そして、そんな彼に手を差し伸べられるとしたら、今のところ、それはわたししかいないのだ。
「行こうよ。如月くんの何かは変わっちゃうかも知れないけど、今のままだって絶対良くないよ」
「……それは、分かってるよ」
「勇気が出ないならわたしも一緒に行こうか?」
「…………遠慮する」
結局、その場で行くと決めることはなく、日々が流れて過ぎていった。何度か返事を催促するメッセージが来たようで、難しい顔をしているのをその度に見た。ある日、いつもある眉間の皺が薄くなっていたので、「決めたの?」と訊いたら、「行くことにした」と返事があった。如月くんが大分と長い間悩んでいたせいで、結婚式の日はほとんど目前だった。先方も大変だろうなあと考えたのだけれど、如月くんの負担になってもいけないし、彼が彼自身で決めたことだしと口出しはせず、いつも通りに振る舞いながら見守った。
当日、普段は限界まで寝ている如月くんが早く起きて来て、落ち着かないらしくうろうろするので、温かい紅茶を淹れてテーブルに置いた。式はお昼だと聞いていた。移動の時間を含めてもまだ大分余裕がある。一通りの家事を終えてリビングに戻ると、如月くんは一応座っていて、紅茶も半分ほどなくなっていた。自分の分のコーヒーを淹れて、斜め向かいに座る。こっそり表情を窺うと、心なしか緊張しているように見えた。まあ、それはそうだろう。今日彼は、心に根を張る憧れと、対峙しようとしているのだから。
「大丈夫?」
「……まだ、分からないけど。大丈夫かも知れないし、大丈夫じゃないかも知れない」
「だよねえ」
「でも、本当に、怖いのは……」
そこで一旦言葉を区切り、如月くんは俯いた。既に身支度を整えた後で、朝の光の中、スーツの光沢が眩しかった。髪も、いつもは前を下ろしているけれど、ワックスで後ろに撫で付けている。見た目だけだと、何だか違う人みたいだ。わたしがいつもと違う姿を観察している間、ずっと黙っていた如月くんは、随分長い時間を掛けてようやく唇を開いた。その表情は、悲痛に満ちていた。
「あの人が変わっていれば、この思いを消してしまえるかも知れないと思う。でも、変わって欲しくないんだ。あの人には、あのころのままでいて欲しい。僕の我儘だ。我儘だけど、もし変わってしまっていたら、僕はきっと、あの人に、憧れの根源とも言えるあの人に、幻滅してしまう。それが、怖くて堪らない」
泣きそうな声で絞り出すように言う如月くんを、咄嗟に抱き締めたくなった。恋愛でも性愛でもなく、親愛を込めて。でも彼はそれを望まないだろう。この関係が壊れてしまうだろう。だからぐっと我慢して、如月くんの思いの強さを奥歯で噛み締めた。
如月くんが怖れているのは、憧れの人が変わってしまっていたとき、幻滅してしまうだろう自分だ。人間なら誰にも訪れる変化を、如月くんは求めない。一番うつくしかったあのころのまま、いて欲しいと願っている。このこと自体はそう珍しいことではないと思うのだけれど、それでも、如月くんは、あまりにも思いが強すぎた。思いが強い分、幻滅も激しくなるだろう。そうなれば彼は、耐えられるのだろうか。如月くんが怖くて堪らないと言ったそのことが、わたしにも怖ろしくて堪らない。
無責任な励ましを口にするのは憚られて、わたしは黙っていた。如月くんも、黙っていた。そのまま時間が経ち、十時半を少し過ぎたころ、如月くんが立ち上がり、「行かなくちゃ」と言った。秘められた決意を感じたわたしは、ん、と頷き、普段は見送りなんてしないのに、玄関まで付いて行った。靴を履く如月くんの背は震えてなんかいなかった。内にあるものの熱量を感じさせないほど、冷静な背中。やがて靴を履き終えた如月くんが立ち上がり、わたしの方を振り返った。
「行って来ます」
「行ってらっしゃい。……気を付けてね」
「うん」
思えばこのとき、わたしたちは初めて、このやりとりをした。普段はわたしの方が早く出るし、わたしが出るとき如月くんはまだ寝ているし、休日に外出するときも、気付けばいなくなっていることばかりだった。そしてわたしも、声だけ掛けてさっさと一人出て行ってしまうことが多かった。でもこのときは、そうするべきだと思った。確固たる理由なんて、多分ない。三年の間に培った関係がもたらした、一つの結果だと思う。曖昧でぐんにゃりとした思考の奥から導き出された行動。ただ、このときばかりはそうするべきだと思った。それでいい、と思う。
わたしはいつも通り、お昼を作って一人で食べて、少しの間テレビを見てから、日が落ちる前に洗濯物を取り込んだ。ラグの上に投げ出した洗濯物を畳んでいると、玄関の方でがちゃりと音がした。ここで迎えに行くのは、何か違うな、と思ったので、素知らぬ顔で洗濯物を畳み続けた。廊下のドアが開いて、リビングに如月くんが入って来る。何故だろう、その表情を見るのが、少し怖かった。だから顔は上げず、おかえり、と言うだけにした。元々二人分なのでそう多くない洗濯物を畳み終え、ようやく顔を上げると、そこに如月くんはいなかった。自室に着替えにでも行ったのだろうと気にも留めないつもりだったのだけれど、ベランダから人の気配がして、つい振り向いてしまった。先程閉めたはずのカーテンが開かれていて、窓も少し開いていた。そこから、甘いけれど嗅ぎ慣れない匂いが漂って来て、何かと見れば、背を向ける如月くんは煙を纏っていた。知り合って三年、一緒に住んで二年、彼が煙草を吸っているところなんて一度も見たことがなかったから、何かあったのだな、と察することは出来た。緩やかに降りて来た夜が辺りを暗く染めていく。しばらく見つめていると、不意に彼の横顔が見えた。頬に涙の粒が光っていた。場違いながら、その美しさには息を呑んだ。本当にうつくしいものというのは、興味がない人の心まで動かしてしまうんだ。二十八年生きて来て初めて気付く事実に感慨を覚えていると、煙草を携帯灰皿に押し込んだ如月くんが、窓を閉めて部屋に戻って来た。先程半端に開いていたカーテンもきっちりと閉じられている。少しは平静を取り戻したらしい、と感じて、密かに安堵した。
「煙草……吸うんだね」
「実はね。和泉さんが寝た後、いつもベランダで吸ってたんだ」
「そうだったんだ。全然知らなかった」
わたしが笑うと、如月くんも少し笑った。けれどその笑顔はすぐ崩れて、瞳から頬へ、涙がつうと伝った。号泣という訳ではない、静かな泣き顔だった。立ったまま如月くんは泣き、落ちた涙がぽたぽたとラグに染み込んでいく。わたしは何も言わずにただそれを見ていた。慰めもせず、励ましもせず、如月くんの言葉を待った。それによって、わたしたちの関係性は、大きく変わるから。
やがて彼が、シャツの袖で涙を拭い、「着替えて来る」と言って自室へ向かった。その間にわたしは、洗濯物を自分の分と如月くんの分にわけて、自分の分を部屋にあるクローゼットに入れた。リビングに戻ると、いつもの部屋着になった如月くんが、ラグの上で膝を抱えていた。また泣くかも知れない、と思いながらわたしも座ると、その表情はどこか迷いが晴れたように見えた。それでもまだ大分と長い間彼は黙っていた。話すことをまとめているのか、それとも感情を整理しているのかは計り兼ねたので、やはり、自ら声を掛けることはしなかった。
「好きだと、思ったんだ」
日もすっかり暮れ、夜と言っても差し支えのない時間になったころ、如月くんはようやく唇を開いた。その言葉が、自分の感情を認めるものだったので、わたしは素直に喜び掛けたのだけれど、続く言葉によっては喜んではいられないと自分を諫めた。もし、話が続いた先、そう思えたのなら、言おう。一緒に住み始めたころにはとてもではないけれど言えなかった言葉を、彼に贈ろう。それが何よりの餞だろうから。
「変わってなかった。あのころと、何も。僕に対する態度も、あの人の部活への思いも、見た目も。何もかもそのままだった。そこで、ようやく自覚出来たんだ」
「うん」
「自覚、すると……自分の、気持ちを、認めると……今まで悩んでいたのが、馬鹿らしく思えて来た。ただあの人が好きだと、僕が認めれば良かっただけなんだ。あの人は、汚れない。僕が尊敬したあの人は、僕の気持ちなんかで、汚れたりしない。あの人は、あの人だから」
「だからわたしは何度も言ったでしょ」
「うん。和泉さんの言う通りだった」
軽い口調で言っても、如月くんは晴れ晴れとした声でそう言うだけだった。本当に、迷いはなくなったらしい。それならわたしも、彼に言わなければ。これは、喜ぶべきことだから。
「おめでとう」
「……え?」
「自分のことを認めるっていうのは、成長出来たってことだよ。だから、おめでとう」
「成長、か。出来てるのかな」
「出来てるよ。少なくとも、出会ったころよりずっとね」
「そうかな。……ありがとう、和泉さん」
出会ったころのことを思い出す。学生時代から、ずっと憧れていた人。その人の背中を追い掛けていたはずが、迷子になって、ふとした瞬間見付けたわたしにその人の面影を重ねて、何とか生きて来た如月くん。恋が汚いものだと思い、憧れの人を汚したくないからと、頑なに自分を認めなかった如月くん。真面目すぎて、かわいそうで、それでもうつくしかった如月くん。もう、わたしに憧れの人の面影を求める必要はない。誰かを想う気持ちがあるって、素敵なことだから。面影は面影でしかなく、所詮幻影で、にせもの。にせものは早く消えるべきだった。
「いつにする?」
「え?」
「ルームシェア。解消するんでしょ? 出来るだけ早い方がいいよね」
「あの人といい、和泉さんといい、何でこんなに鋭いのかな……」
苦笑した如月くんに、わたしは誇らしげな笑みを見せてあげた。最初は、何でわたしなんかを、と不思議で仕方がなかったけれど、今となっては、胸を張りたい気分だ。これだけ真面目でとびきり純粋な如月くんに、そこまで想われている人、その人にわたしは似ているのだから。
その日の内に話をまとめ、ちょうどマンションの更新時期が来ていたので、そのときに解約することになった。新しい部屋を探さなければいけないし、引っ越しの準備もしなければ。これからは呑気に構えていられない。共鳴していると思えた人もいなくなってしまった。それでもわたしは生きている。この世界に生きている。このまま誰のことを好きになれなくても、如月くんと過ごしたこの二年は、わたしにとっての生きる糧になるような気がした。
明日には引っ越すという日の夜。金曜日だった。引っ越しのために死に物狂いで取った有給で一日家にいた如月くんが、ぽつりと、「ごめんね」と呟いた。わたしはキャリーケースに引っ越してすぐ使うであろう細々としたものを詰め込んでいる最中で、「何が?」と言いながら振り返った。随分唐突だったし、謝られるような覚えもなかったからだ。わたしの顔を見て、何も気に病んでいないことが分かったのか、如月くんはふっと笑った。
「引っ越しのこともそうだけど、色々振り回しちゃったから」
「振り回されたんじゃないよ。わたしが好きで回ってただけだよ」
「意味分かんない」
くつくつと笑っている如月くんは、あの日から、嘘のように穏やかになっていた。こうして笑みを見せることも増えたし、時々、スマートフォンを見て一人楽しそうにしていることもある。きっと、『あの人』からのメッセージでも読み返しているのだろう。好きだという感情を素直に受け入れた如月くんは、角が取れたから、ますますモテるだろうと思えた。でも、どれだけモテても、彼の気持ちが向くのはこの世でただ一人。そしてそれを知っているのはわたしだけだと思うと、多少愉快な気持ちになった。
「和泉さん、ありがとう」
「惚れるなよ!」
わたしがふざけて親指を立てながらそう言うと、如月くんはついに吹き出して、しばらく楽しそうに笑っていた。彼は荷造りが全て終わっているので、何も焦る必要がない。わたしだって後はもうキャリーケースに詰めるだけなのに、余計な邪魔が入ってしまった。どこに何を入れるべきかを考えているわたしの後ろで、如月くんが笑い続けている。次第に、楽しい気持ちが伝染して来て、わたしも笑ってしまった。こうして、最後の夜は、二人して馬鹿みたいに笑っている内に更けていった。
引っ越しのトラックがどんどん荷物を詰めていく。それを眺めながら、他愛のない話をした。新居はどの辺りだとか、新生活で何が楽しみだとか、コンビニでもいいからご飯はちゃんと食べるんだよ、とか。わたしは、「会いたくなったらいつでも言ってよ」とは言わなかった。もう彼に、憧れの人の面影は必要ないし、自分の中の想いだけで満ち足りているように見えたから。そこにわたしが顔を突っ込むのは、野暮だなと思ったのだ。最後の荷物がトラックの中へと運ばれていく。わたしが傍らに立ててあったキャリーケースを手に取ろうとしたとき、不意に、如月くんが唇を開いた。
「僕にもう、あの人の面影は必要ないけれど」
思わず顔を上げると、如月くんはわたしのことを見ていた。目を細めて、眩しく見えるくらいきれいに笑って、言葉を続ける。
「和泉さんという人を好きになったから、会いたくなったら連絡するよ」
「わたしも、如月くんという人を好きになったから、いつでも言ってね」
「恋愛じゃ、ないけどね」
「うん。やっぱり、恋愛じゃないんだよね」
お互いの意思を確認して、安堵した後、引っ越し屋さんに促されて、二人別々でトラックに乗った。バタン、とドアの閉まる音。数秒して、エンジンが起動し、トラックは走り出す。少し開いた窓から入り込む風はまだ冷たかったけれど、わたしの心はぽかぽかと温かかった。何せ、生まれて初めて、人を好きになることが出来たのだ。残念ながら、恋愛ではないけれど、これはわたしにとっても、一歩成長したと言っていいだろう。
これから、どこに行こうかな?
これから、何をしようかな?
今なら、何だって出来る気がした。新しいことに挑戦するのも自由、やりたかったことをやってみるのも良い。住宅街を抜け、大きな道路に出たトラックは、わたしの新しい部屋に向かって、ぐんぐん進んでいく。そのトラックよりもずっと早いスピードで、わたしの心は走り出す。
わたしはずっと、もがいていたのだ。知らない間に。誰のことも好きになれない自分を、おかしなものだと思っていた。その予感だけはずっとあって、正体を掴みきれないまま、あれも違うこれも違うと探し続けていた。如月くんと出会って、自分と同じような人が他にもいることを知って、安堵した。如月くんは結局、わたしとは違う人だったけれど、わたしのことをよく理解してくれたし、わたしも彼のことを理解出来た。その末、人として、彼のことを好きになった。決して恋愛には発展しないその気持ちは、それでも、わたしの心に一筋の光をもたらした。わたしでも人を好きになれる。心がある。欠陥品なんかじゃない。
これからもわたしには、恋愛としての『好きな人』は出来ない。変だと言われることもあるだろう。純粋な疑問を向けられることもあるだろう。親からは結婚や子供の催促が来るかも知れない。それでも、わたしは胸を張れる。恋愛じゃなくても、好きな人はいるんだ、と。恋愛じゃなければいけないの? どうして? 誰が決めたの? 人は恋愛をしなければいけないなんて、誰が決めたの。下心のある恋愛より、単純に人として好きだと思うことの方が、大事だと、わたしは思う。人を人として好きになって、その結果、恋愛が出来れば、一番いいのかも知れない。ただ、わたしにはそれが出来ない。だから、人を人として好きになろう。如月くんだけでなく、他の人たちのことも、理解していこう。そして好きになれたら、好きな人が増える。好きな人が増えれば、それだけ喜びも増えるはず。その分悲しみが増えたところで、それは仕方がない。わたしの人生なのだから、他の誰にも左右される筋合いはない。わたしはわたしだ。わたしが好きなことをして、生きていく。世界にわたしが、存在する限り。
トラックが、また、住宅街に入る。わたしの新しい部屋が、もうすぐ見えて来るはずだ。そこで何が起きるかは、まだ誰にも分からない。けれどわたしは、人を好きになることが出来るわたしは、無敵。もう何も怖れることはない。あの人を想うだけで満ち足りる如月くんだって、何も怖れてはいないだろう。偏見や中傷に晒されても、心にこの思いがある限り、わたしは負けない。わたしの世界を、わたしは、わたしの好きに生きる。
了