私がnoteで伝えたい「はたらく」その①父親の無念
こんにちは。maruねえです。私がなぜnoteをはじめたのかということを今日は書こうかなと思います。それを書くために私の経歴を少し話をしないといけないかなと思うので、少し自分史から書きたいと思います。
私はそろそろ50代にさしかかるおばちゃんキャリアカウンセラーであり、ソーシャルワーカーでありメンタルカウンセラーです。人生挫折の連続でしたし、まったく「一般的」な道を歩んできませんでした。紆余曲折ありましたが、そんな私でも今、自分が好きだなと思う仕事しかしていないし、それで生活できているし、今が一番しあわせだと感じる生き方をしています。
誰でも、いつからでも自分がよいと思う生き方ができる。それをあらゆるかたちで伝えたい。それがnoteを始めた一番の動機です。
人生折り返し地点を過ぎてつくづく感じることは、まず自分のためにがんばることなしに、人のためには何もできないということ。自分を大切にすることができて初めて、人を大切にできる。自分を犠牲にして人を大切にしていると、必ず後で苦しくなる時がやってくる。だからまずは自分を大事にすること、まずそこから。とにかく自分の心の声をよく聴くこと。そして自分に向き合うこと。その先に、自分にとってよりよい道が少しずつ開けてくるんだと思います。
私は、産みの親と育ての親が5回ほど変わっています。0歳から1歳まで産みの母。1歳から2歳まで祖母と周囲のおばちゃんたち。2歳から小学校に上がるまでが継母。小学校1年~4年までが父親。小学校5年~高校生までが祖母とちょっぴり祖父。この時点ですでに「一般的」を外れています。住まいもそのたびにあちこち変わりました。
父親はもともと航空自衛隊の戦闘機パイロットを経て某航空会社のパイロットになった人でした。高校卒業後にすぐに航空自衛隊に入り、すぐに戦闘機を操縦するようになりました。当時はそこから航空会社へ転職するルートがあり、それはかなりのエリートであるということでした。しかし、私生活は女癖が悪かったのか何度も結婚離婚を繰り返しました。なぜか女性だけではなく、子どもにもモテる人で、小学生のときに、私の友人がみななぜか父親のとりこになり、父親に会うために家に来るぐらい、不思議な魅力を持っている人でした。しかし、まだ若くして途中体調を崩してパイロットが続けられなくなり、そこから暗転人生を送るようになり、父子家庭として生活がスタートしてからは、鬱憤もあったのか、私は色々な虐待を受け、2回ほど死にかけました。父親は転落人生の中で、「自分はこんなんじゃない、こんなところにいる人間じゃない」ということを毎日私に聞かせていました。まだパイロットだった頃の優しい父親の面影はそこにはありませんでした。
その当時は、学歴がないというだけで、パイロットから全く望まない異業種に転向せざるを得ず、現実を受け入れられない父親の苦悩を思うと、今となってはあまり責める気にはなれません。人がプライドを奪われると、いかに脆く、そして弱いのかということを目の当たりにしました。それまでの栄光があればあるほど、それをあきらめざるを得ない状況になったとき、人はそう簡単には次にすすむことはできません。「はたらく」とはいかに苦しくつらいものか、またストレスフルなものなのか、ということを知った小学生時代でした。
今、父親の年齢をとうに過ぎて思うことは、「プライド」というやっかいなものは人生になんの足しにもならないなということです。大きな挫折があったとき、それをどう受け止めるのかで人生はまったく違う。努力家の父であれば、まだまだ色々な挑戦ができたはずです。しかし、人に頭を下げるのが苦手であったために、なかなかその挑戦ができなかった。祖母や彼の昔の友人たちは、力を貸すからやり直さないかと色々声をかけていたようでしたが、父親はその土地から離れることはありませんでした。
まだ40を過ぎたばかりの父親は、絶望の中、半ば自殺のようなかたちで交通事故であっけなく亡くなりました。私は遠い田舎の祖母に引き取られて暮らすことになりました。