彼らを縫い糸から解放するただ一つの方法
前触れなく現れた訪問者は、ベッドの枕元で座っているぬいぐるみの方を指差して、唐突に言った。
「その子の皮は剥いでやらないの?」
私は面食らった。正しく鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていただろう。そもそも、チェーンロックの隙間から顔を覗かせるだけの、この女の位置からはぬいぐるみは見えていない筈だ。
「ええっと……どういう意味ですか?」
「あれ?もしかして、ただのぬいぐるみだと思ってた?」
女は私の疑問を知ってか知らずか、そう続けた。そして“ただのぬいぐるみ”ではないぬいぐるみ、『スタッフト』について話した。
ずっとこのままの姿で変わらないものだとばかり思っていた。彼女の言ったことを信じるならば、どうもぬいぐるみのこの子『ポンちゃん』は生き物であるらしかった。『スタッフト』––––英語でぬいぐるみを指す単語らしい––––は、通常は見に纏う布を自ら破って脱皮するものなのだという。そうした後には人知れず何処かへ行ってしまうとも。可愛がっていたぬいぐるみのことをすっかり忘れてしまうなどということは、私からすれば信じられないことだが、それは少なくないことらしい。そうして忘れられた頃に、彼らは忽然と姿を消すのだという。しかし中には、長年ぬいぐるみとして扱われてきた結果なのか、その本能を忘れて脱皮をしないままでいる個体があるそうだ。
彼女はぬいぐるみの姿をした生き物に関する様々を、やはり聞いてもいないのに、次々と話した。スタッフトはおもちゃ売り場や専門店なんかに陳列されたぬいぐるみに紛れては、それと知らずに買われていき、子供達の遊び相手になる。小さい頃に「おもちゃが独りでに動いた」などというのは子供の遊び心と、それが生んだまやかしだと言われるが、その一部は間違いで、ぬいぐるみに関して言えば子供達の元へとやってきたスタッフトの仕業というのが真実であるらしい。確かに、この子は昔から勝手に動く子だった。おままごとをしていても、その役を勝手に離れてどこかへ行ってしまうことがあった。私はそれに憤慨していたこともまた、よく覚えている。
「彼らが嫌うものが何か、知ってる?」
「……なんですか?」
私を試すような口ぶりに少々苛立ちつつも、その答えが分からなかった私は、そのままの意味の言葉で以って返答する。
「この子たちはね、洗濯を嫌うのよ。ああ、勿論清潔じゃないのが好みってわけじゃなくてね。猫みたいなものかしら。猫って水が苦手でしょう? スタッフトは猫のそれとは少し訳が違うけれど。正確にはね、洗濯機に入れられるのが嫌いなのよ。そんな経験、今までにない?」
確かに彼女の言う通りだった。昔、母が面倒臭がってポンちゃんを洗濯機に放り込もうとしたことがある。目を離した隙に洗濯機の外に出ているので「外に出したのはあなた?」と、毎度母に問い質されていた。その度にふるふると黙って首を振っていたが、母に信じてはもらえず、よく叱られた。未だにそれを根に持っているから、はっきり覚えている。以来、母に言われた通りに手洗いをするようにしていた。それでもやはり準備をしている間に何処かへ行ってしまうことがほとんどで、碌に洗えた試しがないというのも事実だ。
「その子の性格なんでしょうね」
「性格……ですか……?」
「ええ。知能がある生き物なんだから、あって当然でしょう?」
私が返す言葉を決めあぐねていると、彼女はお構い無しといった様子で、話を少し前にまで戻した。
「だとすると、垢が固まって、剥がすのに苦労するかもしれないわね」
「い、いや、ちょっと待ってください。そもそもどうして無理やり皮を剥がなきゃいけないんです? それに、脱皮したら何処かへいってしまうんだって、さっき言ってたじゃないですか。そもそも貴女、一体誰なんですか?」
彼女のペースにすっかり呑まれていた私だったが、息を吹き返したように、毛玉の如く喉に詰まった声をようやく吐き出すことができた。しかし、やはり女のペースから脱することは出来ず、
「それが彼らの本能。あるべき姿だから」
女はそう言うと一呼吸置いてから
「私のことは宗教の勧誘か新聞のセールスとでも思ってくれて構わないわ。お話できて楽しかったわ」
と言って、そそくさと立ち去っていった。
もはや客人と呼ぶのすら憚られるような来訪者に辟易して、早々にベッドに沈み込んだ。どうしてあんな女の話を真剣に––––それも玄関先で––––聞いていたのだろうかと、そんなことをしていた自分に嫌気が刺しながら、枕に埋めた顔を横にやると、ぬいぐるみの彼がクルミボタンの瞳で私を見つめていた。
「ポンちゃんは何処かへ行きたいの?」
不意にそんな言葉が口を突いて出た。彼は返事をすることなく、ただジッと私を見ている。昔に比べると、彼はあまり動かなくなっている。以前は、私の目を盗んではよくイタズラをしていたが、ここ最近はめっきり少なくなった。先ほどの話を聞いた後だからだろう。もしかすると、縫い付けられたぬいぐるみの体が窮屈なのかもしれないと、そんなことが頭に浮かんだ。彼女がいった通りに、蝶のように羽を広げ、私の知らない何処かへと羽ばたいていくのが、彼の本来あるべき姿なのかもしれない。
私は半信半疑のまま、インターネットでスタッフトについて検索してみた。都市伝説のような存在でありながら、明確なデータの集積がそこにはあった。不可思議に思いながらも––––ほんの少しばかりの興味と好奇心を含みながら––––彼らの脱皮について書かれたページを開いてみると、人の手でそれを行う方法が記載されていた。例の女の話によれば、彼らの脱皮は人知れず行われる筈であったが、そこには子細な情報があった。彼らの皮を剥ぐ要領自体は、普通のぬいぐるみの綿の交換の応用のようなものだった。ぬいぐるみは表の生地のほとんどをミシンで縫い合わせた後、その隙間から綿を入れていき、最後に手縫いでその穴を塞ぐというものなのだが、綿の入れ換えはその逆の手順で、手縫いの縫い跡にハサミを入れ綿を取り出し、新しいものを詰めていく。つまり、脱皮の介助に於いても同様で、最後に縫製された縫い目にあたる部分を見つけて、そこから切り開いていくというものだ。当然ながら、ぬいぐるみの綿の交換など終ぞやったことがない。どうすべきか思案しつつポンちゃんに目を向けると、彼は先程から変わらず、私を見つめていた。
「あはは。何やってんだろ」
馬鹿げたことを真剣になって悩んでいる自分を笑い飛ばして、そのままベットに身を預けて眠った。
目が覚めると、目の前にポンちゃんがいた。後ろ向きに倒れた状態だった。いつもなら自力で起き上がっているところだが、今朝は違った。妙な胸騒ぎが私を襲った。このままだと、彼に残された時間は少ないのかもしれない。そう思った。もちろんただの勘違いなのかもしれない。私の妄想なのかもしれない。そう思っても、このざわざわした心地は消えそうになかった。
私は昨日見たページに何度も目を通し、その手順を頭に叩き込んだ。押入れの奥から埃を被りかけていた裁縫箱を引っ張り出し、裁ち切り鋏と糸切り鋏とを取り出す。彼の体を覆う毛を掻き分けて縫い目を探す。それは丁度、腹の横にあった。糸切り鋏を手に取り、震えそうな腕をグッと抑え込んでから、彼の体を抱き上げた。
「ポンちゃん、痛かったらごめんね」
そう言いながら、パイル地の体にハサミを入れた。ポンちゃんの体がピクリと動いた気がした。押し込めていた不安が蘇り、手が震える。そんな私とは逆に、彼の顔は安らいだように、落ち着き払っているように見えた。むしろこの行為をを喜んでいるようにも感じられた。荒くなりつつあった呼吸を整えてから、再びハサミを動かす。チョキチョキと鳴る音が、残虐なものに聞こえてしまう。チョキ、チョキ。糸を断つ音がいやに鼓膜に響く。居心地の悪い音だったが、ポンちゃんの耳には心地よく聞こえていたのだろうか。彼の口元は柔らかに緩んでいた。その表情にやや緊張が解けたが、やはり恐る恐る、少しづつ、しかし丁寧に糸を切り解いていった。
そうしている内に、綿を入れ換えるだけならば十分な穴が彼の横腹に開いた。ぽっかりと口を開いた穴から、草臥れた綿が見える。それは不思議と隙間無くみっちりと詰まっていた。しかしこれでは彼をこの体から解き放つには未だ足りない。断ち切り鋏に持ち替え、綿が顔を覗かせる穴に鋏を挿し入れる。ジャキリ、ジャキリと刃が音を立てる。その音の連続に併せて、穴はどんどん広がっていく。女が言ったように固まった垢のせいなのだろうか。動かすハサミにやや抵抗を感じる。糸切り鋏のそれよりも重く、より凄惨な音が響くが、ここまで来て止めるわけにはいかなかった。それほどに残酷な行為は他にはないだろう。体に鋏を入れることよりも、よっぽど凄惨だ。ポンちゃんの顔を見やる。先程と表情は変わらない。それに安堵を覚え、また鋏を動かす。
ジャキリ、ジャキリ––––––––
ジャキン
今までとは毛色の違う音が鳴った。まるで、何かに当たったような……刃が何かを噛んだような……そんな音が––––––––
途端、ポンちゃんの体が激しく震えた。
「ポンちゃん!? ポンちゃん!? ごめんね……ごめんね……痛かったね……」
子供を宥めるように、声をかける。ブルブル震えたままのポンちゃんの顔を見る。しかし、彼の表情は全く変わってはいなかった。その不可解な差に、言い知れぬ怖気を感じた。断ち切り鋏を持ったままの手は動かせずにいた。心臓が肋骨を破り、飛び出しそうなほどに脈打っている。なんとか平静を取り戻そうと、意識して息を吸っては吐いてを繰り返すが、浅いままのそれでは落ち着こうにも落ち着けなかった。半ば過呼吸になりかけたままで、震えるポンちゃんの体にハサミを近づける。ハサミを開き、彼の開いたパイルの皮に刃をかける。
ジャキン
先に聞いた音と同じものが部屋に木霊した。同時に、ポンちゃんの皮はべろりと捲れ上がり、どろりと何かが溢れ出た。もぞもぞと動き回るソレは何かを求めるように、蠢いている。ふと、女の言葉を思い出す。彼は『何処かへ行きたがっている』。真っ白になった頭に、その言葉だけが浮かんでいた。ハッとして立ち上がる。脚をぶつけた机がガタガタ鳴り、置いてあった糸切り鋏がカチカチと音を立てる。ほとんど走るように窓辺へと向かう。ポンちゃんだったものと断ち切り鋏を持った両の手で、いやに重たく感じる窓を開け放った。ビュウと風が部屋に入り込み、カーテンがバサバサと翻る。得体の知れない何かは、ズルズルとその身を引き摺りながら窓へと向かっていった。綿のようなものが、ふわりと部屋に舞っては消えていく。揺れるカーテンに体を絡め取られそうになりながら、風の吹き込む方へとにじる。不定形の肉体をサッシの形に歪ませながら、ソレは窓の向こうへと消えた。
左手には中身を失ってだらりと項垂れたパイル地のぬいぐるみ。右の手には糸が絡んだ断ち切り鋏。そして、目の前で起こったことを未だ信じられずにいる私。風はいつの間にか吹き止み、静けさが部屋に充満している。静寂で埋まった狭い部屋。空っぽになったぬいぐるみと、空虚な私だけが、その場に残った。
しばらくして、スタッフトについて再び調べてみたが、インターネット上にも書籍にも、詳細な情報は存在していなかった。
ただ『ぬいぐるみから何かが出てくる』という都市伝説だけが、まことしやかに囁かれていた。
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