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ゼンマイ仕掛けの星空に

 私はシェルターから逃げ出した。連日降り続いている雨で、生活に必要な最低限の物しかない殺風景な空間に押し込められているのが心底嫌になったからだ。「こんなときに外に出るなんて正気か!? 身体が曲がっちまうぞ!」そんな怒号と静止を振り払って、私は走った。
 シェルターの外に出ても当然行く当てなどなく、ただ呆然と歩いた。雨に当たった肌がピリピリと痛む。雨とは言うものの、これは本質的には雨ではない。土の天井から漏れ出る、汚染された有害な水だ。大昔、人々は地球の地表と大気を、回復不能な程に汚してしまった。その結果、地中奥深く、今私たちが住んでいるこの場所、アーカーシに、生き延びた人たちが身を寄せたらしい。地底の中であっても、汚染の影響は避けられなかったようで、みんなこの『天災』に怯えながら暮らしている。私はそんな中にある窮屈さが嫌になっていた。それがシェルターに押し込められようものなら、言わずもがなだ。半ば発狂しそうになる心地を抱えたまま生きるのは、私にとっては簡単ではなかった。皆がアーカーシでの暮らしを受け入れていることが不思議でならなかった。これではまるでハウスの中の野菜ではないか。野菜は嫌だ。どうせなら、日の当たるところに根を張って、伸び伸びと生きる方が良い。だから私は外に出た。無鉄砲であることは分かっている。分かってはいるが、だからといってどうこうできる問題でもなかった。
 自らの内にある鬱憤をまざまざと見せつけられながら歩いていると、雨の痛みがズキズキという感触に変わってきていた。もう街の明かりが消え始める、日暮れの頃合いだった。疲れた足と気持ちを休めるためにも、近くの小屋で雨を凌ぐことにした。
 膝を抱え、雨粒を手で払う。ため息まじりに呼吸をする。まとわりつく嫌なものを振り払うように頭をぶんぶんと振る。後悔はない。これは私の意思なのだから。
「おや? お嬢さん、おひとりかな?」
唐突な頭上の声を見上げた先に、灰色のくたびれたローブに身を包んだ小さな女が立っていた。
「ひっ……!」
「ああ、ごめんごめん。驚かせてしまったみたいだね。何も怪しい者じゃないよ。怪しいヤツはみんなこう言うけど、私は本当に怪しくない。その証拠に––––」
たくし上げたローブから、金色の瞳を貼り付けたような白い顔が現れた。
「ほら。顔だって見せられる」
にかりと笑うその頬には、少女の顔には些か浮いて見える赤く爛れたような痣があった。
「こらこら、あんまり人の顔をじろじろ見るもんじゃないよ。照れるじゃないか」
わざとらしく恥ずかしげな素振りを見せつつ、彼女は再びローブで顔を隠した。自分が言えたものではないが、何故こんな雨の日に人がいるんだろうか。訝しんでいると、彼女はにゅっと手を伸ばしてきた。
「おいで。ここじゃ雨を凌ぐには少し頼りないだろう?」
頬にあったものと同じような痣と、やや歪に曲がった指のある手を握った。彼女の手は小さかったが、それ以上に大きく見えた。

 道中、彼女、ライラは私にローブを譲ってくれた。簡素な衣服に覆われた、小柄で所々が曲がった彼女の体を見るのはなんだか居た堪れなかった。「あなたの分は?」と聞くと、「家に帰ればいくらでもあるから」と言って、またにかりと笑った。「もし臭かったらごめんね」と付け加えて。確かに鼻先まで持ってくると少し湿気たような臭いこそするが、毛羽立った見た目の割りにはしっかりしていて、雨を凌ぐには十分だった。
 数百メートルばかり歩くと、ライラは脚を止めた。
「さあ、ノッテ、着いたよ。自慢のボロ屋だ」
先程まで身を寄せていた小屋とさして変わりがないように見える家がそこにはあった。あっけに取られていると
「こう見えて防水防音は完璧なんだよ?」
とライラは言ったが、どこか取り繕うような様子だった。
「ち、違うんだよ! やましい気持ちがあったとか、そういうんじゃない! ただ、本当にキミが心配だったから連れてきただけなんだよ。だからそんなに嫌そうな顔をしないでくれ」
頼もしいなと少しでも思った過去の自分に、その印象は間違いだと言ってやりたくなった。実際頼もしい人物であることに違いはないのだろうけど、今のこの見るからに情けなく泣き縋るような格好を見せられては、それも覆さざるを得ない。そもそも私はそんなに嫌そうな顔をしていただろうか。頬に手を当てて確認してみたが、確かに筋肉が少しばかり引きつっていた。なるほど、これでは彼女がこうなってしまうのも致し方ないのかもしれない。しかし彼女の言っていることは真実だろう。それはこれまでの彼女の行動が裏付けていた。やましい気持ちがあった上でそういうことをする輩もいるだろうが、彼女は自身は怪しい者じゃないと証明して見せたわけだから、それを踏まえればこそ、信用すべきだと思った。それすらも偽りだと考えるのは、流石に疑り深すぎるというものだろう。
「分かった。分かったから、あんまり引っ付かないで。ちょっと怖い」
「おっと、これは失礼」
パッと手を離し、顔の横で両の手を広げると、戯けるように笑った。
「とりあえず雨が上がるまでここで休んでいくと良いよ。と言っても、この様子だとしばらく雨は続くだろうから、帰りたくなったらいつでも出ていって良いからね」
家にあるものは好きに使ってくれて構わないよと言いながら、ひらひらと手を振って玄関の前に私を置いてけぼりにしようとするライラを思わず呼び止めた。
「あなたは?」
「私かい? 私はこれから仕事があるんだ」
「仕事って?」
「星を作る大切な仕事だよ」

 知らない家に一人にされた私は、何をどうしたものか頭を抱えた。私にできたのは、ただライラに言われた通り、ここにあるものを好きに使って、適当な夕食を作り、乱雑に散らかったベッドを片付けて横になることくらいだった。私には彼女が言った『星を作る仕事』の意味が分からなかった。地球の環境を元に戻すための研究なのだろうか。いや、それならば『星を作り直す』とでも言うだろう。では、星の模型を作る仕事だろうか。しかしそれならば、わざわざあんな勿体ぶった言い方をする必要もない。あるいは彼女なら、そういうこともやってのけるかもしれないが……。そもそもあんなに若い子がする仕事とはなんなのだろう? そもそも彼女の両親は? 孤児にも関わらず一人で暮らしているのか? そうやってあれこれ考えを巡らせているうちに眠ってしまっていたらしい。ライラが帰ってきたのは、丁度私が眠りから覚める頃だった。ガチャリと開いたドアで、彼女の帰宅を知った。
「おかえりなさい」
「あ、ああ、起きてたんだね。ただいま。ははっ。なんだか照れくさいなこういうの。何年振りかな」
何やら感慨に耽っているような素振りを見せるライラだったが、私の何か聞きたそうにしている様子を察知したのか、それで? というような表情をこちらに向けた。
「仕事、遅いのね」
「そりゃあ一晩中だからね。……あれ? もしかして私の仕事、まだ気付いてない?」
「ええ」
「そうかそうか。そりゃあ悪いことをしたね。私はね、星を作る仕事だと言ったけど、正確には星空を作る仕事なんだ」
ここまで言えば分かっただろう? とでも言いたげな瞳で私を見やる。が、その検討が外れたことを悟ったらしく、やれやれと肩を落とした。
「夜に天井を見上げたことはあるかい? やったことがなくてもまあ良い。夜になるとね、アーカーシの天井には星が出るんだよ。夜空、あるいは星空というやつだ。あれを作っているんだよ。私は」
「あれって勝手に出ているものじゃなかったの? 微生物だとか、キノコだとかで」
「ああ、そんなことを言ってる人がいたんだった。だからノッテもポカンとしていたんだね。あれは……何というか、私のような人間を良く思わない人もいるってことだ」
「そうだったの。私、全然知らなかった」
「良いんだよ。人間は初めに聞いたことを真実だと思い込んでしまうものだから。私だってそうさ。私は本物の星を見たことがない。フィルムに描かれた星空が本当の空を写した物だと信じている。もしかしたら私みたいに悪戯で書き換えた人がいるかもしれないのにね。父さんも爺さんも真面目な人だったから、そんなことはしていないはずだけど、それより前になるともう分からない。でも私は信じているよ。偉大な先人たちと、彼らが残したかった本当の星空をね」
 ライラの話に真剣に聞き入ってしまっていた。彼女の口調には妙な説得力がある。煙に巻いているようでいて、真実を包み隠さずに言っているように感じられるのだ。だからこそ、私は疑問に思った。何故彼女の、星空を作る仕事を良く思わない人間がいるのだろうか。私にはどうにも分からなかった。これもライラの言う通り、初めに聞いたことを鵜呑みにしているからなのかもしれないが、だとしても、こんなにも信念を持って働いている人にこんな仕打ちはあんまりだと思った。だから私は決めた。
「ちゃんと星を見たことがなかった。私、見てみたい」
「そりゃあ嬉しいね。明日も星を出すから、眠る前にでも見てみると良い」
「違う。ここからじゃなくて、もっと間近で」
「……それって、ついてくるってこと?」
瞬きもせず、じっとライラの目を見つめた。私には彼女のように言葉で人を納得させることはできないから、こうするしかなかった。数十秒、そろそろ目の渇きが限界になろうかと言う頃合いで、ついにライラは根負けしたらしく、手をパタパタさせながら、うんうんと頷いた。
「リリー、夜長は平気? 明日も雨だろうし、眠たかったらいつでも寝て良いからね」
私は寝るよと言うと、彼女はもぞもぞとベッドに潜り込んで、すうすうと寝息を立てた。

 昼過ぎになって、ライラはうんうん言いながら芋虫のようにベッドから這い出た。そして私を見るなり、「誰だっけ?」と宣った。私の不機嫌に気が付いたのか、或いは昨日の出来事を思い出したのか、「ごめん! うそうそ! わかってるよノッテ」と、おそらく寝ぼけていたのであろう眼を擦りながら言った。
「朝食……じゃないや、昼食はもう食べた? まだだったら私が作るよ。こう見えて結構上手なんだよ」
さっきまでのぼんやりした様子が嘘のようにしゃっきりと動き回り始めたように見えたライラだったが、どうにも足元がフラフラしていた。
「疲れてるんじゃない? もう食べたけど、私、作るよ」
「えー? いつも通りなんだけどなあ。でも、ノッテが言うならそうなのかもしれないね。それじゃあ、頼むよ」
そして、シーツがぐしゃぐしゃのままのベッドにどっかりと腰を下ろした。
 私が作ると言ったものの、ここには簡素な食材と道具しかないから、作られるものは限られている。おそらくライラが作っても似たようなものになるだろう。彼女の料理上手が本当ならば、私のものは少しばかり見劣りするかもしれない。ともあれ、台所に立つのはそれなりに慣れてはいるから、簡単に手早く出来るものを作ることにした。
「お待たせ」
「おお! すごい! ベーコンエッグかい? 良いなあ! 私、食べてみたかったんだよ。こんなカリカリのベーコンエッグをさ!」
「まさかとは思うけど、食べたことないの? ベーコンエッグ」
「ないよ。いや、正確にはあるんだけど、こんなにキレイなのは食べたことがない」
褒められていることを素直に喜んで良いのか、彼女の食生活を心配した方が良いのか。ともかく、彼女の料理上手は額面通りのものではないと言うことだけは分かった。大方、同じものばかり食べていて、他はからっきしといったところだろう。
「ほら、熱いうちに食べて。美味しいはずだから。きっと」
「そうだね。では早速……いただきます!」
ライラの行儀は、決して褒められたものではなかったが、それでも一心不乱に美味しそうに食べる姿を見るのは素直に嬉しかった。まるで子供のように口の周りをベタベタにしながらニコニコしている姿は、彼女の見た目以上にあどけなく見えた。
「ご馳走様ー! いやあ、美味しかった。久しぶりだよ。こんなに美味しいものを食べたのは。ノッテは私よりもずっと上手だね。すごいよ」
「これくらいでそんなに褒めないで。恥ずかしい……」
「何も恥ずかしがることなんてないさ。胸を張れば良い。少なくとも、私の知る限りでは一番の料理人だよ。プロにだってなれるんじゃないかな」
「もう、良いでしょ。褒められるのは慣れてないの。そのくらいにしておいて」
「そうなの? それじゃあ仕方ないね」
つまらないなあとでも言いたげな表情だったが、今にも火が吹き出しそうなわたしの顔を見てから言ってほしいものだ。褒められ慣れていないのは本当だし、恥ずかしいのも本当だ。それに、どうして良いか分からなくなるのだ。ライラなら飄々と躱せるのだろうが、私にはできない。その術を知らない。しかしながら、悪い気はしていないのもまた事実で、その板挟みのむず痒さに、どうにも身を捩らせてしまうのだ。
「さて、今夜のことだけど」
 ライラはそう切り出した。
「今夜も生憎の雨だ。その上、星を作るのは屋外での仕事だ。つまり雨に打たれるのは避けられない。言いたいことは分かる?」
「覚悟しておけってこと?」
「そう。それもあるし、辛くなったらいつでも帰って良いということでもある。まあ、それなりに過酷だからね」
「大丈夫よ。私、覚悟を決めるのだけは得意なの」
「ハハハッ! そりゃあそうだろうね。シェルターから一人で逃げ出すくらいだから」
「……どうしてそれを?」
「一目で分かったさ。雨に日に独りで、傘も合羽もなしに歩いてるのなんて、逃げてきたとしか考えられないよ。あるいはもっと別なところからやってきたとも考えられるかもしれないけど、それはあまりにも現実離れしすぎているからね。今やヒトの住処なんて、このアーカーシくらいらしいし、それに––––」
饒舌だったライラが突然口を継ぐんだ。何か言いづらいことでもあるのだろうか。あっけらかんとした態度の彼女にしては珍しいと感じた。いつものように勿体ぶっているだけとも思えなかったのだ。
「どうしたの?」
「ああ、いや、あのときのノッテの寂しそうで、でも何かを心に決めたような目には覚えがあったってだけだよ」
「前にも同じようなことが?」
「そういうわけじゃなくて……うーん」
「言いづらいことなら良いわ。それで? 今夜の注意事項はこれで終わり?」
言うと、ライラは手をポンと打ち、崩していた姿勢を正した。
「おっと、そうだった。それじゃあ、もう一つ。私の仕事道具には触らないこと。危ないわけじゃないけれど、星を映す機械ってのはそれなりに繊細なんだ。修理はできるけど、自分でしなきゃいけない。これがなかなか面倒でね。昼間のうちにやっておかなきゃいけないから、仕事中眠くって仕方ないんだよ。というわけでよろしくね」
分かったと返事をする前に、ライラはぽふんと音を立ててベッドに横になり、「それじゃあ私は少し休むとしよう」と言って、眠った。
 仕事以外の時間はこんなに眠っている人が、どうしてあの日は外に出ていたんだろうかと不思議に思った。「ただの散歩だよ」とはぐらかされるか軽く流されるかのどちらかだろうから、聞いても仕方がない。それを知っても知らないでいても、これが幸運だったことに変わりはない。私はライラとの触れ合いの中で、自分の中で凝り固まっていたものが解きほぐされていくような感覚を覚えていた。きっと、自由な彼女の姿に惹かれているのだろう。こんなふうに生きていいんだと。こんなふうな暮らしも悪くはないんだと。私も彼女に習って、ぽふんとベッドに横たわった。そして、ライラの隣で眠った。

「おはようノッテ! 時間だ!」
 ライラの威勢の良い声で飛び起きた私は、あたりをキョロキョロ見回して、ようやく私の後ろにいる彼女の姿を捉えた。
「まさかリリーも寝てると思ってなくて、動けなかったんだ。丁度ベッドの端にいるし。寝顔を眺めていても良かったんだけど、流石にもう出ないといけない時間だからね。無理矢理だけど起きてもらった。さあ、ノッテ、準備は良い?」
立ち上がるなり、寝癖のついた髪を直しながら少しの気恥ずかしさを振り払い、こくりと一つ頷いて、自分の意思を伝える。
「よし来た! それじゃあ行くよ。ローブを忘れずにね」
いつの間にか玄関の前に立っていたライラからパッと投げ渡されたローブを眼前で受け取る。あの湿気たような臭いが鼻先に広がる。おそらく昨日私に貸してくれたものだろう。それをサッと見に纏い、雨が降り頻る外へと繰り出した。
 
 ライラの家から百メートル程歩いた先の高台が、彼女の仕事場だった。「ここの梯子、修繕してなくてボロだから、気を付けてね」というライラの言葉通り、足を掛ける度にギシギシと軋んだ。少し怖かったが、彼女が上から見守っていてくれていたおかげか、安心して登ることができた。梯子の段ももう終わりかと言う頃合い、少しぐらついた私の腕をライラがパシッと掴み、ぐいと引き揚げてくれた。そこにはアーカーシの街が一面に広がっていた。
「高いところは怖くない? 始めに言っておくべきだったね」
首をふるふると横に振り、平気だと嘘をついた。本当は少しだけ怖かったが、それよりも、『星空を作る仕事』を間近で見ることの方が大切だった。
「さて、これが、星を映す機械だ」
バサリと覆いかぶさっていた布を取り払うと、両手を広げても足りない程の大きさの半球状の物体が現れた。側面には大きなゼンマイが付いている。
「面白いだろ。こんなに大きな機械なのに手動なんだ。昔の同型機にはもっとマシな動力源があったみたいなんだけどね、今じゃこのザマさ。このゼンマイをね、手で巻くんだよ。本来この程度の大きさのネジ巻きじゃ、この天井に星を映す程の大きなエネルギーを生み出せないみたいなんだけど、中に特殊な機構が組み込まれているらしくってね。いわゆるロストテクノロジーってやつだ。それでなんとかなっているって寸法さ。これがね、重いったりゃありゃしないんだよ。始めの頃はひいひい言いながら回したもんさ」
「どうしてそうまでして星空を作りたいと思ったのかな」
「星空なんてなくったって暮らしていけるだろうに、生活に彩りがなくなったら生きるのが面白くなくなっちまうってんで、ご先祖様が始めたらしいんだ。それでも誰かがやらなきゃいけない仕事だし、私は好きでこの仕事をやってる。それが知らないご先祖が勝手に始めて、巡り巡って家族から継いだ仕事でもね。私の仕事なんだ。それにね、私は好きなんだよ。星ってものがさ」
自慢げに話すライラはどこか嬉しそうだった。こういったことを語り聞かせる機会に恵まれなかったのかもしれない。何せ、滅多に人が出歩かない夜の仕事なのだから。
「さ、そろそろ時間だ。少しだけ目を閉じてくれるかな。起動の瞬間は結構眩しいんだ。慣れていないと目が変になっちゃうから」
ライラはその細腕と歪な指で、ごり、ごり、とゼンマイを回し始めた。目を瞑ると、彼女の手が壊れてはしまわないかという不安に駆られた。けれど彼女は毎日これをやっているわけだから、心配はいらないと自分に言い聞かせる。鈍い音が辺りに広がっては消えていく。ゼンマイが回るごとに、私の期待も大きく膨らんでいく。あの半球がどのように星空を映し出すのか。間近で見る、そしてそれが人の手で作り出されたものだと知った上で見る星空が、私の目にどう映るのか。ネジ巻きの音がぎいぎいというものに変わり始めた頃、目蓋の向こうに僅かな閃光を感じた。
「もう良いよ。目を開けてご覧」
暗闇の中の眩い光に目をチカチカさせながら目蓋を開くと、全天を覆う小さな明かりたちの明滅が見えた。そして––––
「なかなかに良いものだろう? 雨の日だけだよ。これが見られるのは」
––––星が降っていた。雨粒に反射した光が、まるで星が落ちるように降り注いでいた。
「この機械から光線が出て、天井に星を映すって仕組みなんだけど、雨に遮られた光がね、こうやって降るんだよ。私は星の雨って呼んでる。本当は私だけの特別な星だったんだけどね。ノッテとなら良いや」
もっと普通の星空が良かった? と聞くライラに、私は大きく首を横に振った。
「これは、とても……本当に、素敵……」
「それは良かった。私も誰かと一緒に見るのは初めてだからね。なんだか嬉しいよ」
しばらく、顔を見合わせて、まるでくすぐり合うように、互いにくくっと笑った。
「そうそう。気付いてるとは思うけど、雨に遮られるせいで、星が瞬きするんだよ。これもなかなかに可愛らしくてお気に入りなんだ」
「普段は違うの?」
「ああ。いつもはもっと燦然と輝いてるって感じかな。じっとこっちを見つめているような、あるいはただそこにあるだけっていうような、そんな感じ。これも私は好き。っていうより、私は星そのものが好きなんだろうなあ」
どこか遠い目をするライラに、私は彼女がどこか遠くに行ってしまいそうな、そんな心地になった。そして彼女をこちらに引き止めるためなのか、私は彼女に一つの問いを、純粋な疑問を投げかけた。
「これは野暮な質問かもしれないけれど、ライラはどうして雨の日でも星空を作ってるの? 誰も見ていないなら、あなたもシェルターに行くことだってできるはずよね?」
「これが私の仕事だからっていうのもあるけど、私はあの場所が嫌いなんだ。窮屈で、息苦しくて。だから毎晩ここで星を描いてる。誰も見やしなくてもね。だから似てるなと思ったんだ。ノッテと私は、似たもの同士。こうやってるのもね、気ままなものだよ。勝手な星を作ってもバレやしないからね。そうだ。いくつかフィルムがあるんだよ。見てみるかい?」
私はこくっと頷いた。照れ隠し……にはなっていなかっただろう。自分でも分かるくらいに、目は俯き加減で、頬も熱くなっていたから。そんな私を見て、ライラはふふふと指を口元に当てた。曲がった指先も、なんだか笑っているように見えた。
「本物の空ではね、季節ごとに違った星が見えるらしいんだ。だから、大体ではあるけど、その時期に見える星を写したフィルムがある。例えば、これは夏の空のフィルム。今みたいな暑い時期のものだね。夏には、ほら、ここ。大きな星が三角形を作っているだろう? 冬にも似たようなものがあるんだけど、形作ってる星が違うものなんだ。確か夏のものは、デネブとアルタイルとベガ。冬のはシリウス、プロキオン、ベテルギウス。だったかな。こんなふうにね、星にも名前があるんだ。で、こっちが私が遊びで作ったフィルム。勝手に自分だけの星を描き加えて作ったやつだ。元々あるものと材質が違うから、綺麗には映らないけど、それでもまあまあ悪くない出来だと思うよ。せっかくだから見てみようか。誰も見てないから、驚かせてしまう心配もないしね」
「うん。見てみたい。ライラだけの星」
「ははっ。私だけの星か。でもノッテも見ることになるから、これからは私たち二人だけの星だね」
わざと私の顔を赤らめようとしてからかっているのか、ライラは恥ずかしい台詞を面と向かって吐いた。やはりライラという人は、どこか捉え所がなくて、子供っぽくて、そして可愛い人だと思った。私よりも幼いのだから、子供っぽいのは当然としても、何故だか私よりもずっと大人びているようなときもあって、不思議で、彼女といると心が踊った。そのライラは鼻歌まじりにフィルムの交換をしている。一度電源を切ったり、またゼンマイを回したりと、少々手間のかかる作業らしく、時間がかかっていたが、ようやく彼女がこちらを向いた。
「さあ、出るよ。私たちだけの星だ」
パッと光が広がり、白んだ視界が開けると共に、星が現れた。
「他にも星がたくさんあって分かりにくいんだけど、ちょうどあの鉄塔の上の辺り。赤い星があるだろう? あれが、私が作った星。今日から、私たちの星」
「名前は?」
「ああ、そういえば考えたことなかったな。ノッテは何が良い?」
「ライラが付けて。作ったのはあなたよ」
「私はノッテが好きなのが良いんだけどな」
「じゃあ、ライラ。あの星は、ライラ」
「ええ? それじゃあ自分で作った星に自分の名前をそっくりそのまま付けるナルシストみたいじゃないか」
「私はライラが良い」
「わ、分かったよ。それじゃあ、今日からあの星はライラだ。おーい! ライラ! 聞こえてるかー?」
そうやって、二人して肩を上下にくすくすやりながら、けらけらと笑った。

 夜明けの時間まで星空を楽しんでいると、丁度雨も止もうかという勢いにまで落ち着いてきた。
「それじゃあ、私、帰るね。お父さんもお母さんも、きっと怒っているだろうから」
「そうか。もう帰っちゃうのか。なんだか寂しいな」
「やめて。私だって寂しいの。でも大丈夫。また会いに来るから。夜、あなたが星空を作る頃に」
「そういうことなら、分かった。家を出る上手い言い訳を考えておくことをお勧めしておくよ」
「うん。それじゃあまた」
手を振り合って別れた。ライラの歪な手が、背中の向こうでずっとゆらゆらしている気がしたが、振り向けばきっともっと寂しくなってしまうから、脚を蹴り上げるようにして駆け出した。
 
 案の定、父も母もカンカンで、一体どこに行っていたのか、誰かに乱暴をされていないかなど、色々と私を問い質したが、「誰もいなかった。一人で雨を凌いでいた」と誤魔化した。問題は、ライラの言った通り、家を出る口実をどうしたものかということだった。そこで、私は適当な友人をでっち上げることにした。「最近できた仲の良い友人がいて、夜にしか会えないから外出許可が欲しい」嘘は一つも言っていないし、言い訳としては完璧だと思った。幸い、父も母も過保護気味ではあるが私には甘かったから、私の要求をすんなり飲んでくれた。その代わり、家を出るときにはきちんと報告をすることという条件がつけられたが、あまりにも簡単だったから、少し吹き出しそうになるのを我慢した。
 早速、その日の夕暮れ時に、家を飛び出た。もちろん、両親に伝えてから。家を出て数百メートル。もつれそうになりながら走った脚が少し疲れてくる頃、ライラのボロ家が見えた。
「ただいま、ライラ」
息を切らせつつ、玄関先でライラを呼ぶ。するといつもの寝ぼけ眼を擦りながら彼女が出てきた。
「はいはい、どちら様ー。ってノッテか。おはよう。ずいぶん早いね」
「もうすぐ夜よ」
「分かってるよ。てっきり夜になってから来るものだとばかり思ってたから」
「そんな勿体ないことしないわ」
「勿体ない?」
「ええ。私、あの機械が星を出すところ、好きだもの」
「眩しいのに」
「眩しいから良いのよ」
そんなやりとりで顔を綻ばせつつ、ライラの眠気もどうやら覚めてきたようなので、彼女の仕事場へ行くのを急くと、「慌てなくても仕事は逃げたりしないよ」とライラは笑った。
 今日はどんな星が見られるのかと、わくわくしながら高台の梯子を上がる。登り切った上から手を差し伸べるライラにきゅっと捕まり、一気に駆け上がる。この瞬間さえも、私には楽しみだった。
「さて、今日はみんなも見ているから、普通の星空だ。今は確か夏の半ば頃だから……これだね」
独り言を溢しつつ、大きな革のバッグから一枚のフィルムを取り出して、半球の中にセットする。そして、重たそうなゼンマイをごりごりと回す。どこか昨日よりも軽快なテンポで動いているように見えた。今日は晴れているから、機械の調子もライラの調子も良いのかもしれない。そんなことを思っていると「そろそろだよ」とライラの声が聞こえた。きゅっと目を瞑り、光で目が焼かれないようにする。刹那、ぶわっと白い閃光が目蓋の裏まで届き、星空が生まれたことを知らせた。
 昨日とは違う、邪魔するものが一つもない紺碧の天井に、白、青、橙、色とりどりの星々が煌めいていた。わあと歓声を上げると、ライラはこちらを向いて笑いかけた。
「やっぱり違うかい? 微生物のせいだと思っていた星空とは」
「ええ。全然違うわ。前の星たちよりも、こっちの方が生き生きして見える」
「生きているのはむしろあちらの星空だったろうに」
「いいえ。あれは嘘で塗り固められた偽りの星よ。この星には息遣いがある。この星を映し続けてきた人たちの、そしてあなたの」
「嬉しいことを言ってくれるね。作り物の星でも、人の心はこんなにも動かせるんだぞって言えば、きっとご先祖たちも喜ぶだろうね」
「そうだと私も嬉しいわ。どうしてもっと早くに知ることが出来なかったのかしら。悔しいわ」
「良いじゃないか。今、こうして、この星空を見上げられている。それだけで」
「……ええ。そうね」
ライラは時折、遠くを眺める。星空の、さらに向こう。どこだか分からないずっと遠くの場所を見ているようだった。その度に私の心は締め付けられる。だからなのだろうか。私はライラの手を握っていた。どうしたんだい? と彼女が聞くより先に、私は唇を開いていた。
「ライラ、私も星を作る仕事がしたい」
ライラは困ったような表情を見せた。曲がった人差し指で、こめかみを掻き、ううんと唸った。
「ダメだよ」
「どうして?」
「ノッテにはもっと別な仕事がある。私みたいにこの道しかなかったわけじゃないんだ。もっと安全で豊かな暮らしができる、そういう道がキミにはあるんだ」
「星を作る道だってあるはずよ!」
「ノッテには似合わない」
眉をハの字に曲げて、ライラは口元を緩めた。哀れみに見えて、胸が痛んだ。彼女がそれを向けているのが、私なのか、彼女自身なのか、分からなかった。心が握り潰して丸めた紙みたいに、くしゃくしゃになりそうだった。一度皺の寄った紙は簡単には元には戻らないというのに。けれど、彼女を責めることは私には出来なかった。彼女の言葉は、紛れもない善意から出たものだからだ。それは容易に分かった。だから言えなかった。「どうしてそんなことを言うの」と。
「まあ、とりあえず星を見よう。星は逃げたりしないし、キミの夢も逃げはしない。急がなくても大丈夫。ゆっくり、星を見よう」
ライラは足を投げ出して手を付いた。

 しばらく星空を眺めていると、ライラが咳き込むのが聞こえた。冷えてきたからかもしれないと言って、さして気にもめていない様子だったが、私にはその音がずいぶんと異様なものに思えて仕方がなかった。そう、確か肺を悪くして亡くなった祖母も同じような咳をしていたような––––––––
「ライラ、あなた、体は大丈夫なの?」
「大丈夫って、何が?」
「聞いてはいけないかと思って黙っていたけど、あなたのその体、あの雨のせいでしょう? こんな野晒しの場所で雨の日も仕事をしているんだもの。ねえ、そうでしょう?」
「ああ……まあ、そうだね」
「だったら––––」
「でもね、これは遺伝なんだよ。爺さんも、父さんもこうだった。だからこれは私たちに定められた道なんだよ。きっとね」
「でも……!」
「良いんだ。私はこれで。ここで星を作れたら、それで良い」
「やめて。今から死ぬみたいな、そんなこと言わないで」
ライラは穏やかに微笑んで、それから震える青い唇を開いた。
「そうなんだよ、ノッテ。私はもうすぐ死ぬんだ。キミには言わないでおくつもりだったんだけど、まあ、話の流れってやつさ。私はもう長くない。もって数日ってところかな。医者も匙を投げてたよ。これはもう助からない。どうにも出来ないってね。ああ、痛み止めくらいはくれたよ。じゃなきゃ今頃、仕事も満足に出来てない」
「なんで……どうして言ってくれないの……」
「ノッテのそんな顔が見たくなかったからさ。それに、キミと知り合ったのはついこの間のこと。そんな人に、よく知らない人間の死と喪失感を味わわせたくなかった。でも、思ったよりもキミとは親密になってしまった。きっとあの星、ライラのせいだね。いや、あの星のおかげでノッテと仲良くなれたと言った方が良いかもしれない。私はね、感謝しているんだよ。キミにも、ライラにも」
「どうして……まだ子供なのに……」
「ああ、そういえば言ってなかったっけ。私はこう見えて成人はとうに迎えてるんだよ。いつも勘違いされるけどね。これもやっぱり雨のせいか、あるいは遺伝のせいかもしれないね」
ライラはいつもの調子で振る舞おうとしているらしかったが、息も絶え絶えという様子だった。時折咳き込み、指を震わせながら話す彼女を見ると、酷く胸が痛んだ。
「もう……もう良いの。ライラ、もう喋らなくて良い。無理しないで。もって数日なんて嘘なんでしょう? もうギリギリなんでしょう? それでも私に星を見せてくれたんでしょう? ねえ、お願い。私も手伝うから、ライラを、私たち二人の星をもう一度見よう。誰かに怒られるって言うんなら、私が代わりになるから。だからお願い。ライラ……ライラ……」
ライラは咳き込み続けた。それでも、私の願いを聞き届けようと、体を起こした。無茶を言ってごめんなさい。けれど、私には思い出が必要なの。心のずっと深くに刻み込めるような、あなたの痣のように、ずっと体に残るような、そんな思い出が。二人だけの星だけじゃイヤなの。それでも十分だけれど、私は欲張りだから、あなたと私だけの時間がもっと欲しい。口には出さずとも、私の気持ちはきっと彼女に届いているはず。だって、ライラはいつも私の心を見透かしていたもの。そうでなきゃ、私は––––––––
「ノッテを人殺しにはさせないよ」
ライラはにかりと歯を見せた。やっぱり。ライラは私のことならなんでも分かる。信じてるもの。通じ合ってるって。ライラなら分かってくれるって。
「私は、ここを降りるまでは死なないよ」
 それから私たちは半球の映写機のゼンマイを回した。ごりごり、きりきりと。ライラの腕の力は明らかに弱まっていた。二人分の力でも、ライラ一人のときと同じ勢いでしか回らないゼンマイが、まるで彼女の死期を知らしめているように感じられて、どこかにこの憤りをぶつけたくなった。けれど、ライラと同じゼンマイを持っている以上、必然的に彼女に無理をさせることになるし、そのせいで今よりもっと悪くなるかもしれない。それだけはいけない。昂る気持ちを落ち着かせて、確実にネジを巻く。私のこの冷たいものだけを巻き取って。熱いものは残しておいて。そう願いながら巻いた。
「そろそろだよ」
か細い声でライラは呟き、きゅうと目を閉じた。私もそれに合わせて、目蓋を伏せた。いつもよりも、閃光が強く感じられたのは、完全に目を閉じていなかったからだけではないはずだ。目蓋の裏の眼球が、酷く潤っていたのも、その一因だろう。
「ほら、私たちの星だよ、ノッテ」
ライラの曲がった指先が、震えながら二人の星を指した。昨日とは違う晴れた紺色の空に、赤い星がよく映えていた。瞬きもせず、じっとこちらを見つめて、静かに見守っているようだった。この景色をしっかりと目に焼き付けておきたい。その一心で涙を堪えていたが、どうにも我慢ができなかった。
「そうね……。ライラ……」
横目に見たライラの瞳にも、涙があった。流れ出た一雫が煌めいて、彼女の頬に一筋の星の雨を降らせていた。そして、私の両頬にも、きっと同じものがある。ライラは私の体を引き寄せた。私も同じようにして、彼女を抱き留める。首筋に当たる彼女の涙は氷のようだった。

 ライラが亡くなってから程なくして、アーカーシ市長の命により、次の星空を作る職の後継が決められることになった。本来、跡を継ぐ者を遺言に残しておくものだそうだが、ライラはそうしなかった。理由は定かではないが、もしかすると、彼女は星を独り占めにしたかったのかもしれない。私もその職に立候補してみたが、若すぎると言う理由で断られた。ライラが言ったように、選考委員も「もっと別の道があるのだから、やめておきなさい」と提案した。噂によると、結局候補者は全員断られ、どこの誰とも知れない老人が充てがわれたらしい。これでは結局また同じことを繰り返すだろうなとも思ったが、市ですらもこの職を疎んじているのだということも分かった。ライラは、私がこういう目を向けられるのを嫌がったのだろうか。問いかけようにも、彼女はもういない。私は部屋の明かりを消した。
 あれから一つ、新しい習慣になったことがある。あの日の夜、ライラから形見として受け取った『ライラ』の星空のフィルター。あまりにも大きな荷物を抱えて帰ってきたものだから、あの日の両親は酷く驚いていたのをよく覚えている。けれど、私の部屋には丁度良い大きさだった。夜になると、明かりを消し、小さな電球を点ける。そこにフィルターを覆いかぶせて、部屋の天井に星空を描くのだ。
「私はいつでもここにいるから、寂しくなったらおいで。ずっとキミのことを見ているよ。ノッテ」
ライラの最後の言葉と、あの日の涙を思い出す。
「お婆ちゃんになったらそっちへ行くから。私のこと、ちゃんと見つけてね。ライラ」
『ライラ』の方角へ手を伸ばし、呟く。あのときに見た星の雨は、もう見られないけれど、ライラのいるところでなら、きっと見られる気がする。

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最後までお読みいただきありがとうございました。


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