聞いてよマスター 9
「一局、お願いできますか?」
聞き間違いではなかった。確かに今まさに、この麗人は私に対局を挑んできたのだ。階段から落ちかけて恥ずかしそうに赤面していた彼女とは別人のようだ。あったのは勝負師の顔だ。
「……お名前を伺っても?」
特に意味のない質問。強いて言うなら、何も知らないまま挑戦を受けることに対して本能的な恐怖を感じたからか。別に客に対局を希望されることは初めてでも珍しくもない。お酒を飲み、趣味を同じくした棋友だと分かれば自然に将棋が始まることは多々ある。
しかし初来店、それも座った直後に戦闘モードに入る客は流石にいなかった。少し動転した自分に気が付いて、慌てて発言を撤回する。
「あ、いえ。いきなり名前を聞くというのは不躾でしたね。お気になs…」
「対局が終わったら、教えます。」
「え?」
「私に勝ったら…の方が良いですか?」
そう言って彼女は不敵に笑って見せた。ああ、苦手な感じだ。どうしよう。ただの客なら何とでもなるが、将棋指し、しかもそこそこ腕に自信があるタイプ。どこでこの店のことを聞きつけたのだろうか、先程よりテーブル席の方からチラチラと、こちらを興味津々といった感じで見ている杉岡、そしてその友人は関係なさそうだ。
「うちには破る看板なんてありませんよ。」
そう言って冗談交じりに苦笑してみたが、やはり本気のようで、張り付いた笑みを浮かべたままこちらをジッと見つめてくる。こんな状況じゃなきゃ照れるところだ。ハアと溜息をついて棚から一寸盤と駒を取り出す。
駒を並べていく左手の指はしなやかで白く美しい。薬指には銀色の地金に青い石を埋め込んだような指輪がキラリと光っている。深い青色、サファイアか…いや、タンザナイトだろうか。よく似合っているな、などと思っているうちに並べ終わってしまった。
「ご注文のお酒をすぐに作りますので、先に初手をどうぞ。」
自然に先手を譲ってみる。やや不満そうな表情に見えたが少し考えて、どうやら従うことにしたようだ。
電気ブランをソーダで割り、手早く彼女の左手側へ。
「あら、ありがとう。」
少し意外そうに顔を上げたが、すぐにまた盤上へ目を落とす。初手は既に指されており▲76歩。私が△34歩と返すと、即座に▲66歩と突きだしてきた。サウスポーは振り飛車党が多いとは都市伝説の一種だが、あながち嘘でもない気がする。
随分とオーソドックスな四間飛車だ。ただし急戦に対しては藤井流のような左金を上がる手段を残しているか。普段の私ならそれでも急戦調に構えていく所だが意地を張らずに、おそらくはお望み通りの持久戦調にしてみようか。お手並み拝見と言わんばかりに一直線に穴熊を目指す。
▲15歩
許してくれない。「舐めないで!」という声が聴こえてくるようだ。表情を見たかったが、完全に盤上没我、まったく覗くことが出来ない。
素直に応じ続けてアッという間に風前の灯だ。とは言え織り込み済みで、この局面は難解な形勢と知っている。この後の指し方一つで、先手も後手も一瞬で転落しかねない緊張感のある展開だ。
▲15香
稲妻のような香捨てで貴重な歩を回収される、しかしこれは取れない。なるほど挑戦してくるだけのことはある。これは相当な指し口だ。
ふと見ると、どうやら彼女はお酒に口一つ付けていない。二重の意味で眩暈がしてきた。
△14歩 ▲45歩 △33銀 ▲44香
頃合いかな…
そう思った。局面自体は難しい形勢だが、見た目には攻めが決まっているだろう。何より出した酒を飲んでほしい。心からそう願っているのだ。
「いやはや、うまく攻められちゃいました。めちゃくちゃ強いですねえ、参った参った。どうぞ、勝利の美酒ということで、そろそろ飲んではくれませんか。」
少し声を高くして、やや大げさにそう切り出した。
つづく
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