聞いてよマスター 2
アキと初めて会ったのも雨の日だった。
春の陽気が一瞬翳るGW明けの早朝。
五月病に油を注ぐような、雨の日だった。
しばらくフル稼働状態だった店のまとまった掃除をするため、私は昨晩そのまま休憩室で夜を明かした。今日から閉めて3連休、温泉でも行こうかなあ。ま、その前に一仕事だ。
とりあえず外の空気でも吸うかと階段を上り、入口の扉を開けた。開けようとした、開かない…。
もしかして私が寝ている間に〇〇しないと出られない酒場とかになったのかしら?…んなわけないよなあ。
「はぁ~」と溜息をついてから、丹田に力を込める。
フンン゛ッ゛ッ゛
全力で扉を押し開ける。重い何かがスライドする感覚、同時に
「あいだだだだだ!」
「えっ?ひ、ひとっ?」
変な声が出てしまった。思わずノブに掛けた手を引っ込める。3割ほど開いた木製の扉がぶらんと揺れており、その隙間から人影が見えた。どうやら地べたに座っているようだ。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
おそるおそる声を掛ける、怪我はしていなさそうだが…
どうやら若い男性?少し体を動かしてくれたので扉を大きく開けて横にかがむ。
「もしかして、俺ここで寝てたんです?」
座った体勢のまま、顔だけこちらに向けて彼は言った。
知らんがな――ただそう思ったが、何となく無下にできない、よくわからない感情が同時に湧いてくる。普段の私ならさっさと店の前から御退去願ったのだろうが、何故かこの時ばかりはこの髪がボサボサで、服もよれよれの若い男に対して、優しい気持ちが先行したのだ。
「まあ店に入って、何か飲んで目を覚ましてください。昨晩はどっかで酒にでも潰れたんですか?」
今の今まで寝ぼけていた彼がパッと目を見開いた。
「ああ、ここのマスターさんなの?ごめんね。俺は19だから酒はまだね。んでも、多分酒よりきついのを貰っちゃったからさ。」
そう言って彼は、1枚の紙をズボンのポケットから取り出した。
これは、角換わり腰掛銀の棋譜だ。将棋を指すのか、この子は。
思わず表情に出ていたのか、
「あれ?マスター、知ってそうな顔だね。」
見抜かれた。
それにしてもこの棋譜、随分と古い変化だが…
「▲15香と走られてさ、確かこれって△同香▲74歩△71香って受けて後手十分って俺は昔なんかの本で読んだの、間違いなく。でも実際は意外と大変じゃん。今日、たまたま久しぶりに将棋指す機会があって、んでこれの後手を持たされてさ、分かんないうちにボロボロに負けたの。何でだろな~って悔しくて悔しくて、考えて考えて考えて…。歩いて歩いて歩いて…。気が付いたらここに座り込んで扉を背にして…そこからもずっと考えてて…ええと…寝ちゃった、みたいな?」
「△17角です」
「え?」
「私も昔同じような研究をしました。▲15香の瞬間に△17角です、それで後手が分かり易く優勢になります。」
ついイキって断定口調が出る。
彼はポカンと口を開けていた、しまった…調子に乗りすぎたか。
しかし彼の口角は、三日月も驚いて満月になる勢いで大きく上がる。
「マスター!俺、普通の珈琲は飲めないから牛乳たっぷりのカフェオレにしてね!」
「はい?」
ここから私と彼の、あの懐かしくも遠い、かしましい日々が始まったのだ。
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