”中国”大使館二つの血統「桜田町」系
満洲国大使館が始祖
満洲国を始祖とする「桜田町」の血統
”中国”の大使館には,「飯倉町」系と「桜田町」系の二つの血統があって,このうち「飯倉町」系については,清国から中華民国と”主”を変えただけでなく,中華民国内でも袁世凱→蒋介石→汪兆銘と”顔”を変えながらも続いたが,空襲と敗戦により途絶えた旨は,下掲の拙稿にて書いた。
本稿はその後編として「桜田町」系について書くもの。
血統が途絶えた「飯倉町」系とは対照的に,「桜田町」系は現在に続いている。
その「桜田町」系の始祖は,昭和7(1932)年3月1日に建国された満洲国である。
満洲国,中華民国(台湾)そして現在の中華人民共和国と,主義主張も経済体制も異なる”主”に変えているが,資産の承継に関しては,なぜかその都合が優先し,承継性が貫かれている。
昭和7年9月15日 日満国交樹立
昭和7(1932)年9月15日,日本は満洲国との間で日満議定書を締結し,「満洲国」を国家として承認,両国間に国交が樹立された。
代表公署を東京万平ホテル内に
国交樹立を受け,満洲国は,麹町区平河町六ノ六所在の東京万平ホテル内に「駐日満洲国代表公署」を置いた。現在も軽井沢にある万平ホテルの東京”支店”である。現在,厚生会館(千代田区平河町一丁目5番9号)の場所である。
ちなみに,厚生会館1階は,現在では日光金谷ホテル系の「平河町かなや」というレストランになっているが,筆者が永田町の法律事務所に在籍していた頃は「満平」というレストランで,法務省地下にもその支店「満平」があった。万平ホテルと何か関係があったのだろうか。
もっとも,日本政府は必ずしも満洲国政府を信用しておらず,警視庁による日常的な監視下に置いていた。駐日満洲国代表公署の分単位での動静や出入する人物を監視,それを警視総監が内務大臣と外務大臣に報告していた。
例えば,下掲の昭和7(1932)年11月22日付け「駐日満洲国代表公署の動静に関する件(六)」がそれである。
この昭和7(1932)年11月22日付け「駐日満洲国代表公署の動静に関する件(六)」の末尾には,以下のように,駐日満洲国代表公署が,移転先として麻布区「桜田町」の故後藤新平邸の土地と建物を価格27万円で購入し,移転準備中である旨が報告されている。
昭和8年1月10日 「桜田町」へ移転
駐日満洲国代表公署が移転先は,麻布区桜田町50番地である。現在の港区元麻布三丁目4番33号であり,中華人民共和国大使館が立つ場所である。
桜田町は昭和42年まで使われていた旧町名であり,ここに”中国”大使館のもう一つの血統「桜田町」系が始まる。
満洲国は,昭和7(1931)年12月3日付け売買契約に基づき「桜田町」の土地と建物を取得した。対価は合計27万円。
下掲の昭和8(1933)1月11日付け「満洲国代表公署の移転に関する件」によると,上記の取得後,修築を施した後,昭和8(1933)年1月10日に移転を完了している。
後藤新平と満洲国との関係
「桜田町」の売主である伯爵の後藤市蔵とは,昭和4(1929)年4月13日に亡くなっていた後藤新平の長男。後藤市蔵は同日付で「桜田町」を家督相続している。
奥州水沢生まれの後藤新平は,もともと医師。児玉源太郎台湾総督が,明治31(1898)年6月20日,後藤新平を台湾総督府民政長官に抜擢。明治39(1906)年11月1日には,南満洲鉄道株式会社(いわゆる満鉄)の初代総裁に就いている。
満洲国は,これほど”中国”なかんずく満洲に関わりが深い旧後藤新平邸を購入し,代表公署(後に公使館,大使館)を置いたのである。
土地台帳から分かる所有者の変遷
かつて地租を課すために編纂された土地台帳によると,「桜田町」の土地(地番:49番1)は,以下の経緯を辿り,満洲国が所有者となっている。
「飯倉町」系については,中華民国が土地所有権を取得することはなく,大蔵省が地主として中華民国大使館にこれを貸していた。借地であったが故に,空襲で焼失したことにより,戦後の”中国”に引き継がれることなく終戦とともに途絶えた。
これに対し,「桜田町」系は,始祖の満洲国が土地の所有権まで取得していたことが,現在にまで続く要因となっている。
昭和8年5月1日 公使館へ昇格
昭和8(1933)年1月10日,駐日満洲国代表公署がこの「桜田町」に移転してきたが,同年4月26日,満洲国において新しい日本駐在外交官官制が公布された。
下掲の駐日満洲国臨時代理公使原武が内田康哉外務大臣に宛てた昭和8・大同2(1933)4月28日付け書簡によると,満洲国内の上記官制に基づき,代表公署が廃止,特命全権公使丁士源以など館員が任命され,公使館を「桜田町」に開設すること,丁士源公使が着任するまでの間,原武が臨時代理公使として館務を処理することなどが,日本側に伝達されている。
「大同」は大同元(1932)年3月1日に建国された満洲国の年号。
警視総監が内務大臣等に報告した昭和8(1933)年5月2日付け「駐日満洲国公使館開設に関する件」には(下掲),同月1日,駐日満洲国代表公署は,同じ「桜田町」にて駐日満洲国公使館に改称したとある。
要するに,昭和8(1933)年5月1日,「桜田町」の地に,満洲国の駐日公使館が開設された。
昭和10年5月25日 大使館へ昇格
「飯倉町」の中華民国(蒋介石政権)に関しては,昭和10(1935)年5月17日,公使館から大使館に昇格している。
ライバルの中華民国の駐日公使の大使昇格を受け,満洲国も大使への昇格を熱望した。
同月24日,満洲国の張燕卿外交部大臣が,関東軍司令官であり駐満洲日本大使の南次郎を来訪,満州国政府は駐日公使を大使とし,初代大使として謝介石を任命したいので,これに対し日本政府の承認(アグレマン)を得たい旨を申し出た。その旨を,南次郎大使が廣田弘毅外務大臣宛て「駐日満洲国公使館昇格の件」をもって報告するとともに(下掲),日本政府としてはこれを承認すべきと進言した。
翌25日,日本政府はこれを承認することを決定し,「桜田町」の満州国公使館は大使館に昇格した。
初代駐日満洲国大使の謝介石は,日本統治下の台湾生まれ。日本の明治大学で学んだこともあり,国籍を日本(台湾)から中華民国へ,さらに満洲国へと変えた経歴を持つ。
疎開・焼失・消滅
大東亜戦争の末期,中華民国の廉隅大使は軽井沢に疎開したが,満洲国の王允卿大使は,箱根の富士屋ホテルに疎開していた。
昭和20(1945)年5月時点で,箱根には,強羅ホテルにソ連大使館,仙石原にハンガリー公使館が疎開,満洲国大使と同じ宮ノ下の富士屋ホテルには,以下の国の外交官及びそれら家族の全部ないし一部が疎開していた。
イタリア社会共和国
中華民国
ドイツ国
満洲国
フィリピン共和国
ビルマ国
タイ国
昭和48(1973)年11月24日に発行された「東京大空襲・戦災誌第3巻」313頁には,昭和20年5月26日付け警視庁警備総第183号「帝都空襲被害状況に関する件」が引用されている。これは,昭和20年5月26日午後3時現在までに判明した被害概況を報告したもの。
その「五、重要施設の被害状況 13、外国公館」には,満洲国大使館,フィンランド公使館,中華民国大使館,ソ連大使館,スウェーデン公使館,スイス公使館,ドイツ大使館,ベルギー公使館及びデンマーク公使館が被害に遭った旨が記録されている。
「桜田町」の満洲国大使館は,「飯倉町」の中華民国大使館と同じく,昭和20(1945)年5月25日の大空襲で焼失している。
さらに,同年8月9日には,満洲国本国にソ連軍が侵攻。
同月15日の「玉音放送」を受け,同月17日,張景恵国務総理大臣を中心に満洲国の廃止が決定,翌18日には,皇帝の愛新覚羅 溥儀自ら満洲国の消滅を宣言している。
満洲国は,中華民国(南京汪兆銘政府)と違ってアメリカやイギリスに宣戦布告することはなかったが,降伏などを交渉する間もなく,ソ連により消滅させられた。
国交なき占領期
昭和21年6月26日 国共内戦の開始
昭和21(1946)年5月にはソ連軍は満洲から撤退し,満洲は蒋介石の中華民国に移譲された。
ここで台頭してくるのは,ソ連(の支援を受ける中国共産党である。
同年6月26日,蒋介石の国民党軍は,毛沢東の中国共産党軍に対する
全面攻撃が始まる。こうして,日本の降伏後,予定かつ予想されたように,”中国”内で国民党(蒋介石)と共産党(毛沢東)とによる「国共内戦」が本格的に始まった。
昭和24年10月1日 中華人民共和国の出現
3年に及ぶ国共内戦の結果,毛沢東率いる中国共産党が勝利。
毛沢東は,昭和24(1949)年10月1日,中華人民共和国の成立を宣言する。
蒋介石と中華民国国民党は台湾に逃れ,台北をその臨時首都とした。
こうして,日本は未だアメリカの占領下にあったが,”中国”では,北京を首都とし満洲までも支配する中華人民共和国と,台北を(臨時)首都として台湾のみを版図とする中華民国が並び立つことになった。
しかし,まだ当時は,国連の常任理事国にあるなど国際的な承認を得ていたのは中華民国(台湾)であった。
昭和26年9月8日 サンフランシスコ平和条約
昭和26(1951)年9月8日 ,日本を含めた49カ国が「日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)」に署名する。同条約は翌年4月28日に発効。
同条約には,中華民国も中華人民共和国も参加していない。
日本は,サンフランシスコ平和条約と並行する形で,二つの”中国”のうち中華民国との間で個別の平和条約締結の交渉を重ねていた。
中華民国(台湾)大使館に「承継」
昭和27年4月28日 日華平和条約の成立
サンフランシスコ平和条約が発効する昭和27(1952)年4月28日,その日に独立を回復する日本は,二つの”中国”のうち,北京共産党の中華人民共和国ではなく,台湾国民党の中華民国との間で「日本国と中華民国との間の平和条約(日華平和条約)」を取り交わす。
日華平和条約の調印日時は,昭和27(1952)年4月28日午後3時30分(発効は同年8月5日)。サンフランシスコ平和条約が発効する同日午後10時30分に先行した(させた)。
昭和27年8月5日 日中国交回復
日華平和条約は,昭和27(1952)年8月5日に発効し,日”中”間の国交が回復する。
中華民国(台湾)は,同月16日,駐日大使として董顕光を任命した。
しかしながら,かつての満洲国が支配していた地域や中華民国(南京汪兆銘政府)が支配していた地域は,日華平和条約が締結された昭和27(1952)年4月28日の時点では,既に中華人民共和国の支配下に置かれていた。
「養正館」が仮の大使館
日華平和条約の発効を受け,中華民国(台湾)の(仮の)駐日大使館が置かれたのは,港区内の有栖川宮記念公園に隣接する「養正館」という東京都所有の建物。
現在,東京都立中央図書館が立つ地である。
養生館は,昭和21(1946)年4月,連合国占領軍により接収され,同年11月以降,”戦勝国”中華民国の国連代表団が入居・使用していた。
昭和27(1952)年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効し,「占領」が終わったことにより,占領軍に接収されていた養正館は日本(東京都)に返還されるべきものであった。
しかし,中華民国(台湾蒋介石政府)は,養正館の明渡し猶予を東京都に求めていた。
国交回復後,中華民国(台湾蒋介石政府)の大使館候補地とされたのは,戦前までの「飯倉町」ではなかった。これは,「飯倉町」は,あくまで日本政府(大蔵省)の所有地であり,時の権力者が袁世凱,蒋介石,汪兆銘と変わろうとも,戦前の中華民国は借地人だったからである。
戦後の中華民国(台湾蒋介石政府)の大使館候補には,戦前,満洲国が土地を所有し,大使館を構えていた「桜田町」である。
中華民国(台湾蒋介石政府)は「桜田町」に新大使館を建設しており,地主である日本政府(大蔵省)もこれを認めていたが,未だ完成していなかった。かかる事情を踏まえ,東京都としてもサンフランシスコ平和条約発効から6ヶ月間(同年4月28日から10月27日まで)は,中華民国大使館に対し,養正館の明渡しを猶予,その継続使用を認めていた。
ところが,中華民国は,東京都に対し「現在新築中の大使館建物は10月落成の予定であるが,いよいよ移転するまでには,室内の装飾その他整備になお期日を要するので12月末日まで継続借用」を要請してきた。
このあたりの経緯は,下掲の昭和27(1952)年8月23日付け「中華民国大使館(都立養正館)明渡し猶予について」に記録されている。
ちなみに,当該文書宛先の外務事務次官として名があげられている渋沢信一は,渋沢栄一の従兄弟である渋沢喜作(大河ドラマでは高良健吾氏が演じていた)の息子。
上記昭和27(1952)年8月23日付け「中華民国大使館(都立養正館)明渡し猶予について」によると,同月12日,東京都渉外部長と,中華民国大使館の王徳立(財務官)との間で,養正館の賃貸借及び明渡しについて,下記の合意が成立したという。
ところが,昭和27(1952)年8月14日になって,再び王徳立(財務官)が「12月末までの継続借用」を求めてきた。
しかし,東京都としては,この件については上記のとおり同月12日に既に合意・解決済みという認識であった。そのため,東京都は,渋沢信一外務次官に対し,同月23日付け「中華民国大使館(都立養正館)明渡し猶予について」をもって,「合意・解決済み」ということを中華民国大使館に対し確認することを求めた。その文面は以下のとおり。
外務省からの”確認”に対する中華民国大使館の回答は,昭和27・中華民国41(1952)年9月3日付け書面(下掲)でなされた。
結局,同年8月12日に東京都渉外部長と中華民国大使館の王徳立(財務官)との間で成立した合意を認めた形となった。
昭和27年10月10日 「桜田町」へ
結局,「桜田町」に建設していた(新)中華民国大使館は,昭和27(1952)年9月中に完成,同年10月10日の双十節(中華民国の建国記念日)に落成,仮の養正館から移転した。
「桜田町」の所有権に関する法的問題
ところで,「桜田町」は,戦前,満洲国が所有していた土地である。結論から言えば,この「桜田町」の土地所有権は満洲国から中華民国に移転している。
しかし,満洲国の所有権が中華民国に移転するには,売買,贈与,承継…何らかの法的根拠が必要である。
法的根拠とは別に,現実的な問題もある。
日華平和条約が発行した昭和27(1952)年当時,旧満洲国領を支配していたのは,中華民国(台湾)ではなく,中華人民共和国であった。国交の有無は別にして,旧満洲国が日本で所有していた資産は,どちらかと言えば,中華人民共和国に承継されるのではないか?という問題意識が出来てくるのは,ある意味では当然である。
以下,旧満洲国の所有権が中華民国に移転するに至った経緯について触れてみるが,まずは登記簿からその変遷を追ってみる。満洲国の大使館があった「桜田町」は数筆の土地からなるが,大部分の面積を占める麻布区桜田町所在の(地番)49番1の土地を追ってみたい。
「桜田町」を中華民国が所有する法的論拠
後藤家から満洲国へ(昭和7年12月3日)
満洲国は,昭和7(1932)年12月3日付けの「売買」を原因として,「桜田町」を後藤一蔵から取得している。
この経緯は「桜田町」の登記簿甲区(所有権)順位8番として登記されている。
満洲国から中華民国へ(昭和20年9月2日)
満洲国から中華民国への「桜田町」の所有権移転については,登記簿甲区(所有権)に,順位番号8(後藤一蔵→満洲国)に続く順位番号9に登記されている。
内容は以下のものだが,この登記には疑問が満載。
まず疑問が生じるのは,登記申請日が昭和42(1967)年12月20日という点である。中華民国(台湾)は,昭和27(1952)年8月5日に日本の国交を回復し,同年10月10日には「桜田町」に大使館を開設している。しかし,その所有権移転登記を申請するまで,15年を要したというのである。
次に疑問を抱かざるを得ないのが,満洲国の所有権が中華民国へ移転された日が,昭和20(1945)年9月2日とされている点,さらに所有権移転の原因が「承継」とされている点である。
なぜ「昭和20年9月2日」に「承継」か
満洲国が所有した「桜田町」の所有権移転の期日が「昭和20(1945)年9月2日」であること,その原因が「承継」であることについては,当時の中華民国(台湾)側の法的解釈に依拠したものと思われる。
この法的解釈には,昭和18(1943)年12月1日のカイロ宣言,昭和20(1945)年7月26日のポツダム宣言及び同年9月2日の降伏文書が関係する。
解釈の是非はともなく,中華民国(台湾)側からすると,「中華人民共和国」が誕生する昭和24(1949)年10月1日より前に,所有権を取得したことにしなければならない現実的な事情があった。
カイロ宣言(Cairo Declaration)
昭和18(1943)年12月1日,アメリカ,イギリス及び中華民国の3カ国が発表したカイロ宣言には,下記のような条項があり,満洲や台湾の中華民国への返還(帰属)が明記されている。
中華民国(台湾)は,満洲や台湾の返還先が,抽象的な「China」ではなく,具体的に「Republic of China(中華民国)」 と指定されていることを重視している。
ポツダム宣言(Potsdam Declaration)
昭和20(1945)年7月26日,アメリカ,イギリス及び中華民国の3カ国(後にソ連が参加)が日本に向けて発したポツダム宣言第8項は,次のように「カイロ宣言の条項は履行されるべき」と規定している。
つまり,ポツダム宣言は,カイロ宣言が明記する満洲や台湾の中華民国(Republic of China)への返還を日本に要求している 。少なくとも中華民国(台湾)はそう解釈する。
降伏文書(Instrument of Surrender)
昭和20(1945)年9月2日,アメリカの戦艦ミズーリ艦上で,日本全権の重光葵外務大臣(天皇及び日本政府の代表)と梅津美治郎参謀総長(軍部の代表)が署名した降伏文書の第1条には,「ポツダム宣言の受諾」が明記されている。
要するに,カイロ宣言には満洲の中華民国(Republic of China)への返還が明記,その履行を日本に要求したポツダム宣言を,日本は降伏文書への署名をもって受諾している。
こうして,降伏文書への署名日である昭和20(1945)年9月2日に,”満洲”が中華民国(Republic of China=台湾)に返還され,満洲国が日本国内で所有した「桜田町」などの資産は,中華民国が「承継」した。昭和20(1945)年9月2日であれば,「中華人民共和国」は未だ存在しておらず,旧満洲国領を含め”中国”は中華民国(蒋介石政権)が統治していたので,実際上の問題も生じない。
というのが中華民国(台湾)の解釈であり,多少論理の飛躍があるが,この解釈に基づいて,満洲国から中華民国への「昭和20年9月20日承継」を理由に,所有権移転登記が申請されたようである。
では,なぜその登記の申請が,昭和20年9月2日からはもちろん国交回復がなった昭和27(1952)年8月5日よりも遥か後年,昭和42(1967)年12月20日になったのだろうか。
なぜ「昭和42年12月20日」に登記申請か
「桜田町」など,旧満洲国が日本国内で保有していた資産の帰属については,昭和27(1952)年4月28日に調印された日華平和条約の交渉過程でも大きな問題となっていた。
中華民国は,自国へ帰属することを日華平和条約上で明記することを求めた。しかし,当時は既に,昭和24(1949)年10月1日に成立した中華人共和国が「満洲」を実効支配していたのに対し,中華民国の支配地域は台湾に限られていた。この現状から,旧満洲国在日資産の中華民国(台湾)への帰属については,日本が反対していた。このあたりは「外交資料室の中華平和条約」に詳しい。
結局,日華平和条約の本体ではなく,日本と中華民国(台湾)との間の合意ができたときに引渡しうる旨を議事録にて陳述するという,いわば先送り案で合意が成立した。
この議事録では,満洲国が日本に所有した財産について,日華平和条約及びサンフランシスコ平和条約に基づいて中華民国(台湾)に移管(承継)されるとしたが,その移管(承継)の効力発生のためには,日本と中華民国(台湾)「両当事者間の同意」が必要であるという条件(停止条件)が付されていた。
この停止条件たる「両当事者間の同意」が成立したのが,15年後の昭和42(1967)年12月20日(頃)なのである。しかし,なぜこの日に至ったのか?ついては,どうしてもわからない。
なお,この論法に法的な正当性があるかは,疑問はある。
「桜田町」登記の続きと現在
登記の続き
昭和42(1967)年12月20日に申請された昭和20(1945)年9月2日「承継」を原因とする中華民国への所有権移転登記には,次のように続きがある。
昭和47(1972)年9月29日,登記名義人の表示が「中華民国」から「中華人民共和国」に変更されているのである。
後に詳解するが,ここでは紹介にとどめる。
粗悪移記に伴い新たに作成された登記簿
参考までに,上に掲げた登記簿は,それまでの登記簿を閉鎖して,昭和43年2月21日に新たに作成されたものである。
順位番号9番だった「満洲国→中華民国」の登記が,この新登記簿では順位番号1に登記とされ,かつそこに「法務大臣の命により移記 昭和43年2月21日」とあるのは,粗悪な用紙が使われ損傷のおそれがある(旧)登記簿を閉鎖し,現在(昭和43年2月21日)効力のある登記事項のみを,新しい登記簿に移記したものであることを示している。
これは,昭和38年7月18日付付け民事甲第2094号民事局長依命通達「粗悪用紙等の移記について」という法務省通達に基づくもの。
「桜田町」についていえば,昭和43年2月21日時点で効力がある登記事項である「満洲国→中華民国」のみが新しい登記簿の順位番号1に移記された。それ以前の後藤新平や満洲国への所有権移転などは,新しい登記簿には移記されず,閉鎖された古い登記簿を辿らないとその存在が分からなくなっている。
コンピュータ化された登記(全部事項証明)
現在は,上記の「粗悪用紙等の移記」により作成された登記簿を含め紙の登記簿自体が閉鎖(廃止)され,登記はコンピュータ化されている。
このコンピュータ化された「桜田町(49番1)」の登記(全部事項証明)は,次のものである。現在,一般に閲覧できる登記はこれになる。
この登記のコンピュータ化による移記が「昭和63年法務省令37号附則第2条第2項の規定による移記」である。「桜田町」については平成8年6月20日に実施されたことがわかる。
コンピュータ化時点で効力がある登記事項のみが移記(データー化)されたため,前述の「粗悪用紙等の移記」と同様,移記作業が行われた平成8年6月20日時点において効力がある「中華人民共和国」が所有者である旨の登記事項のみが移記(データ化)されている。
そのため,後藤新平,後藤一蔵,満洲国はもちろん,中華民国でさえ,その名が登記に姿を出すことはなくなっている。その上で,「桜田町」は「中華人民共和国」が「昭和20年9月2日」に「承継」したことになっているのである。
日本がミズーリ艦上で降伏文書に署名した昭和20(1945)年9月2日に,そもそも「中華人民共和国」は地球上に存在していない。その中華人民共和国に承継?この違和感こそが,この問題の全てを代弁しているとも思える。
昭和47年9月29日 国交”正常”化と断絶
中国中日備忘録貿易弁事処@恵比寿
昭和27(1952)年4月28日,日本と国交を樹立したは,中華民国(台湾)である。逆に,中華人民共和国は日本と国交がなっかった。そのため,日本には中華人民共和国の大使館はなかった。
その代わりに,中華人民共和国は,昭和39(1964)年8月以降,現在の渋谷区恵比寿三丁目35番24号の地に,大使館に相当する「中国中日備忘録貿易弁事処駐東京連絡処」を設置していた。
この中華人民共和国の弁事処が中国共産党の出先機関として,国交”正常”化と中華民国(台湾)との断交を,陰に陽に日本に工作していたと言われている。ちなみに,この弁事処があった地は,現在は中華人民共和国大使館の恵比寿宿舎となっている。
中華人民共和国との国交”正常”化
昭和47(1972)年9月29日,北京にて,日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)が調印される。
これにより,日本と中華人民共和国とで国交”正常”化がなった。日本側の署名者は,田中角栄内閣総理大臣と大平正芳外務大臣。
日中共同声明において,日本政府は「中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であること」を承認している。”中国”という定義・範囲不明の概念がここに出てくる。
他方,「台湾」について,中華人民共和国は「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明」したが,日本はこれを認めることはせず,「中華人民共和国政府の立場を十分理解し,尊重」するにとどめている。
中華民国との国交断絶
日中共同声明に調印したその日の夜,大平政芳外務大臣は,北京で行われた記者会見で「最後に,共同声明の中には触れられておりませんが,日中関係正常化の結果として,日華平和条約は,存続の意義を失い,終了したものと認められる,というのが日本政府の見解でございます。」と対外的に表明している。
これを受け,同日,中華民国(台湾)側から,日本との国交を断絶する旨が通告された(一部を下記に抜粋)。この台湾「外交部」による対日断交声明が,むしろ小気味良い。
令和4(2022)年9月29日をもって中華人民共和との国交”正常化”から50年となるが,当時の中華民国(台湾)が指摘していた「田中角栄がついに狼を部屋に引き入れ,敵を友と認め,中共匪団の浸透転覆活動を助長することになったのは,日本およびアジア太平洋地区に限りない禍患をもたらすことは必至であろう。」との懸念が,50年後に現実となってはいないだろうか。
中華民国大使館の閉鎖
昭和47(1972)年9月29日の国交断絶後,港区元麻布三丁目「桜田町」にあった中華民国(台湾)の大使館は,駐日大使などを段階的に引揚げ,同年12月28日をもって閉鎖した。
日本政府へ在日財産の保護を要請
大使館閉鎖の前日(昭和47年12月27日),中華民国政府は,その駐日大使館公使の鈕乃聖の名義で,法眼晋作外務次官あてに書簡をもって,以下のように,日本政府に対し,中華民国が日本で所有した「桜田町」などの資産を保護すること,決して(中華人民共和国など)第三者に引き渡したりしないように要請しているのである(「梅と桜ー戦後の日華関係」365頁)。
公使の名義になっているのは,大使は既に帰国したため。この申入れが中華民国駐日大使館として最後の対外務省書簡となった。
国交断絶後の大使館の取扱いについては,日本も昭和39(1964)年に批准している外交関係に関するウィーン条約第45条 a号は以下のように規定している。
中華民国は,当該条約に基づいて,国交断絶に伴い閉鎖する大使館土地・建物の保護を,接受国たる日本に要請したのである。
ところが,日本政府は,この要請に背き,「桜田町」の中華民国駐日大使館の土地を,中華人民共和国に引き渡してしまうのである。
中華人民共和国大使館へ「変更」
仮大使館をホテルニューオータニ内に
昭和47(1972)年9月29日に日本との国交”正常化”させた中華人民共和国は,翌年2月1日,千代田区紀尾井町のホテルニューオータニの15階を借り切る形で,大使館仮事務所を開設した。
その翌月,昭和48(1973)年3月27日,ホテルニューオータニ内の(仮)大使館に初代駐日大使の陳楚が着任している。
現在でも中華人民共和国系のイベントがホテルニューオータニで開催されることが多いのは,このような友誼による。
昭和48年3月14日 「桜田町」に決定
中華人民共和国大使館の設置場所については,日中国交”正常”化以来の懸案であり,日本と中華人民共和国との間で協議が重ねられたが,昭和48(1973)年3月14日,結局,「桜田町」の中華民国大使館(跡)とすることで合意が成立した。
下に引用するのは,これを報ずる翌日付け朝日新聞の記事。
この朝日新聞の記事によると,当時の法務省や外務省など関係当局は,中華民国(台湾)がその大使館のために所有していた土地(及び建物)について,①元麻布の旧中華民国大使館は中華人民共和国の外交上の資産であること,②日中国交”正常”化の結果,当該土地及び建物の所有権は中華人民共和国にあることが確定したとの理由により,その所有権は中華人民共和国にあるとの見解をとっている。
果たしてこの解釈には,法的根拠はあるのだろうか。
「桜田町」登記の不思議
ここで,問題の「桜田町」の登記を再掲する。
日中国交”正常”化当日の昭和47年9月29日に所有者の名義が中華民国から中華人民共和国に変更されている。
「桜田町」の登記については,満洲国から中華民国への所有権移転についても疑問が多い旨は述べたが,この「中華民国→中華人民共和国」への変更については,現在進行形で法的な論争となっている。
中華人民共和国が「桜田町(49番1)」の所有者として登記された原因は,中華民国からの所有権移転ではなく,単なる「登記名義人表示変更」である。
これは不動産登記法64条1項に規定する「登記名義人の氏名若しくは名称又は住所についての変更」である。典型例としては,Aさんが結婚で氏を変えたり,B社がその商号を変更した場合である。AさんやB社そのものには変更がないことが前提である。主体には変更がないことから,「登記名義人の氏名若しくは名称又は住所についての変更」の登記は,登記名義人が単独で申請することができる(不動産登記法64条1項)。ただし,Aさんとしては氏変更後の戸籍,B社としては商号変更後の登記などを証明書として法務局に提出する必要がある。
この典型例と同様,「桜田町(49番1)」も,単に”中華民国”から”中華人民共和国”に名称が変更した(だけ)で,登記名義人(所有者)そのものには変更がないことが前提である。
確かに,日本は昭和47年9月29日に中華人民共和国を承認はしたが,そうかと言って,中華民国は台湾で”国家”として同日より前と何ら変わらず存在していた。そのため,「名称が変わっただけ」という理由で,「桜田町」など中華民国(台湾)が日本国内で所有していた資産が「中華人民共和国」の名義に変更されることは,台湾に存命の蒋介石として,到底,認めることはできない。
あらためて,「登記名義人表示変更」とされた法的根拠,言い方を変えれば,その名称が変更しただけの「登記名義人」とは何であろうか。
光華寮事件
実はこの論点については,中華民国(台湾)が日本国内で所有していた資産が,昭和47(1972)年9月29日の日中共同宣言以降,中華民国と中華人民共和国のどちらに帰属するのかを争点として,長く裁判で争われている。
いわゆる光華寮事件である。
これは,光華寮を所有していた「中華民国」が原告,”中国”からの留学生を被告として,建物(光華寮)からの明渡しを求め,昭和42(1967年)9月6日に京都地裁に提訴した事件。
京都地裁に係属中の昭和47年9月29日に日中共同宣言があり,この論点が原告適格の有無として主要な争点となった。被告の主張は,昭和47年9月29日の日中共同宣言によって,光華寮の所有権は中華民国から中華人民共和国へ移転,原告の”中華民国”は光華寮の所有者ではなくなっており,光華寮からの明渡しの訴訟を提起する資格はないというもの。
昭和52年9月16日に京都地裁判決,昭和57年4月14日に大阪高裁判決,昭和61年2月4日に差戻し後の京都地裁判決,昭和62(1987)年2月26日に(差戻審)大阪高裁判決が出された。
この後,最高裁の判決が下されるのは,平成19(2007)年3月27日。なんと20年を要した。というより20年後にいきなり言い渡された。
「桜田町」など中華民国(台湾)が日本国内で所有していた資産が,昭和47(1972)年9月29日の日中共同宣言以降,当然に中華人民共和国の所有となるのか,所有となる場合にはその法的根拠は如何に。
最高裁は,この論点については直接触れず(それは再び京都地裁に差戻して審理させている。),昭和47年9月29日における中華人民共和国との国交”正常”化と中華民国との断交に対する法的解釈を示している。それは以下の判示部分で,日本国の公式見解と言っていい(日本国憲法81条)。
最高裁は,「国家としての中国(中国国家)」という概念を抜き打ち的に打ち出す。その上で,昭和47年9月29日,”中国国家”の名称が中華民国から中華人民共和国に変更された(だけ)という立場をとった。しかも,これを「公知の事実」として反証を許さない。
その上で,昭和47年9月29日,”中国国家”内において,当該民事訴訟を追行する代表権者(提訴時は中華民国の大使)に変更があったにも関わらず,代表権がない者のまま下された諸判決は違法であるとして,適法な代表者の下で審理を行わせるべく,再び京都地裁に差戻している。そして,なんと現在でも係属中である。
最高裁の判旨を「桜田町(49番1)」に当てはめると,この土地の所有者・登記名義人は「国家としての中国(中国国家)」ということになる。昭和47(1972)年9月29日以降,”中国国家”の名称が「中華民国」から「中華人民共和国」に変更となり,「中華人民共和国」を名乗る”中国国家”が「桜田町」を所有しているという立場を取っている。
こう見てみると,平成19(2007)年になって出された最高裁判決は,前記の昭和47(1972)年9月29日当時に法務・外務当局がとっていた解釈を追認したものとも言える。
当の外務次官が発行した「登記名義人表示変更」の証明書
光華寮事件については,地裁,高裁と判決出る都度,親台湾派と親中共派それぞれにより国会でも話題となった。
例えば,昭和62(1987)年7月16日第109回国会衆議院予算委員会において,公明党の冬柴鐵三衆議院議員からの質問に対し,法務省民事局長千種秀夫(この後に最高裁判事)が答えている。
この回答と登記簿の記載を合わせると,次の事実が分かる。昭和48(1972)年6月5日,中華人民共和国が「登記名義人表示変更」の登記を申請。名称変更の証明書として,当時の法眼晋作外務次官が「別紙目録記載の不動産の登記名義人の名称は,昭和47年9月29日,中華民国から中華人民共和国に変更されたことを証明する」と記載された証明書を出した。この外務次官が作成した証明書のために,法務局は「登記名義人表示変更」登記として受理した。
ちなみに法眼晋作外務次官は,昭和47(1972)年12月27日,中華民国大使館閉鎖の前日,中華民国公使から,中華民国が日本で所有した「桜田町」などの資産を保護すること,決して(中華人民共和国など)第三者に引き渡したりしないように要請を受けた,当の本人である(ただ本人は中華人民共和国との国交”正常化”には反対していたらしい。)。
日華関係議員懇談会と日中友好議員連盟
やや余談になるが,昭和48(1973)年3月14日,中華民国(台湾)が所有していた「桜田町」の大使館跡地が中華人民共和国に引き継がれることが決定されたその日,自民党による親台湾派の議員連盟が立ち上がり,これに対抗するように,親中共派の超党派議員連盟も発足しており,これが現在まで続いている。
以下は,このあたりを報じる昭和48(1973)年3月15日付けの朝日新聞の記事。
新台湾派の日華関係議員懇談会は,昭和48(1973)年3月14日午後,ランダムに名を上げると,岸信介氏,中川一郎氏,宇野宗佑氏,渡辺美智雄氏,石原慎太郎氏,海部俊樹氏や小渕恵三氏など,自民党議員の3分の1以上にあたる152人(衆議院議員99人,参議院議員53人)が参加して発足した。平成9(1997)年,超党派の日華議員懇談会に改組され,現在に至っている。
一方,親中共派の日中友好議員連盟は,この記事に書かれた経緯を経て昭和48(1973)年4月に発足し,現在に至っている。最近では,親子二代で日中友議員連盟の会長を務めていた林芳正外務大臣が就いていたが,この点の批判を受け「無用の誤解を避けるため」という理由で同連盟会長を辞任したことが話題となった。林芳正氏の後任会長には,父親の小渕恵三とは逆にこちらに所属している小渕優子氏が就いている。その他のメンバーには,共産党の志位和夫委員長や社民党の福島みずほ党首が副会長,公明党の山口那津男代表が顧問を務めるなど,表現し難い顔ぶれが並んでいる。
昭和48年5月21日 南麻布へ仮移転
昭和48(1973)年2月1日,ホテルニューオータニ15階に仮設置した中華人民共和国大使館は,同年5月21日,港区南麻布四丁目の既存のビルへ,これも仮移転している。
「桜田町」の土地について,中華人民共和国より「登記名義人表示変更」の登記が申請されたのは,その直後の同年6月5日である。
南麻布の仮大使館は意外にも6年の長きに及ぶことになり,この間,昭和51(1976)年1月8日には周恩来が,同年9月9日には毛沢東が相次いで死んでいる。彼らへの弔問は,ここ南麻布の(仮)大使館で受けている。
昭和54年9月14日 「桜田町」へ
「桜田町」つまり現在の地である港区元麻布三丁目4番33号に,中華人民共和国大使館が新築落成するのは,この地が大使館と日中で合意されてから6年半を経た昭和54年(1979)年9月14日であった。
これが現在の中華人民共和国大使館である。
もともと後藤新平の私邸であるから,現在の日本と中華人民共和国との関係からすると手狭なようで,隣接地の共有者持分や近隣の土地を買い上げるなどしており,新たな近隣問題,さらには外交問題の原因となっている。