ショートショート『その時』
ドクン、ドクン、ドクン
真矢の鼓動がうるさいほどに大きく頭の中に響いてソファーで雑誌を見ていた佳代は思わず苦笑して独り言をもらした。
「こんなに大きい音は初めて・・もしかして・・プロポーズでもされたのかしら?」
三時間後。
「ただいま」真矢の明るい声と階段を駆け上がってくる足音が聞こえるとすぐに佳代の部屋のドアが勢いよく開いた。
「もう、ノックぐらいしてよ」
「聞いて、聞いて」
「ハイ、ハイ、分かってるわよ。和田さんにプロポーズされたんでしょ」
「え?なんで知ってるの?」
「だって胸の音がドク、ドク」
「えー聞こえてたの、やだ、恥ずかしい」
「聞いてるこっちまで恥ずかしかったわよ」
「フン、佳代だって高校の時、彼氏と初めてキスした時、ドク、ドク凄くて聞いてる私まで恥ずかしかったんだから」
「何年前の話よ、やめてよ」
真矢と佳代は双子である。
その為か時折、頭の中に相手の鼓動が聞こえる。
それは時に恥ずかしかったりする・・でも胎児が母の鼓動を聞くようにその音に包まれると自分たちが互いにとって特別な存在である事を痛感するのだ。
「和田さん、今度の日曜日にお父さんたちに挨拶に来るって」
「いよいよ、じゃない」
「うん」
「おめでとう、真矢」
「ありがとう」
佳代は幸せそうな真矢の姿に目を細めた。
日曜日、朝から父は落ち着きがなく訳もなく家の中をウロウロしては料理作りに精をだしている女連中にたしなめられていた。
そして正午前、玄関の呼び鈴がなると真矢はパタパタとスリッパの音をさせ廊下を走りドアを開け、和田を招き入れた。
「お招きいただきありがとうございます。和田と申します」
和田はそう言うと穏やかな笑顔を真矢の身内に向けた。
その瞬間、佳代は彼に恋をした。
勤め帰り、最寄り駅を出て自宅への長い上り坂を歩いていた佳代は立ち止まると、くっきりと夜空に浮かび上がっている欠けた月を見上げた。
今宵の夜空とは真逆に佳代の心の中は彼に出会ってから昼も夜もずっと曇り続きなのだ。
考えるな、どうにもならない事なのだから。そう自分に言い聞かせ再び歩き出すと
「佳代さん?」
後ろから声をかけられた。
振り向くと和田がいた。
「こんばんは・・今、お宅に伺おうと・・」
「・・こんばんは、真矢はまだ帰ってないと思うけど・・」
「そうですか・・じゃあ、あなたをご自宅まで送ってもう一度、駅に戻って・・」
「そんな、大変じゃないですか。駅の改札で真矢を待っていたら?」
「でもこの間チカン騒ぎがありましたよね・・危ないですから、やはり佳代さんを送ってから・・」
「やめて下さい」
「佳代さん?」
「あっ・・ごめんなさい。大きな声をだして・・でも大丈夫ですから」
足早に立ち去ろうとする佳代の手を和田がつかんだ。
「え?」
「・・・・送らせて下さい。あなたが心配なんです」
「手を、手を放して」
和田は手を放そうとしなかった。
佳代は彼の手を振り払った。
「僕は・・」
「言ってはダメ」
口に出してしまえば皆が不幸になるのだ。
「あなたのするべき事は駅の改札で真矢を待つことよ」
佳代は踵を返すと歩き出した。
これでいいのだ・・こうするしかないのだ
その時だった。
助けて、誰か、助けて
頭の中で声が聞こえた。
「真矢、真矢。どうしたの?」佳代は叫び、あわてて和田が駆け寄って来た。
「どうしたのです?」
「真矢が・・ああ、真矢がどうしよう。真矢、どこにいるの?お願い、返事をして」
和田は真矢に電話をかけようと急いでスマホを取り出した。
突如、鼓動が聞こえた。
ドクン・・・・ドクン・・・・
それは弱い、今にも消え入りそうな音だった。
そして・・ある考えが頭に浮かんだ。
佳代は泣きそうな顔で和田に訊いた。
「このまま何もしなければ・・真矢は死んでしまうわ。ねぇ、私たち、どうしたらいい?どうしたらいい?」
佳代は涙を流したが、何もしなかった。
和田はスマホをカバンにしまった。
静かな夜道で二人は黙ったまま、その時を待っている。
夜空に浮かんだ月だけが一部始終を見ていた。