【短編日記小説】#6 flat
台風の影響か天の気まぐれか、勇壮な風が、何時にない轟音を立てて暴れ狂っている。縦横無尽に飛び交う無色透明な風が、風同士で戦っている姿は想像出来ないまでも、その風向きや風量という自然のベクトルには、一縷の興味が惹かれる。
外から聞こえてくる物音は、その強風に攫われるゴミ等の転がる音か。ガタガタと揺れる雨戸の音に較べれば何の事もない、一々気にするにも及ばない些細な物音であろうとも、静謐だけが取り柄のようなhの部屋からは、それがやけにぎこちなく思えて仕方がない。
元々嫌いであったエアコンに、何時しか慣れてしまった己が不甲斐なさを恥じながら、少し窓を開けてみると、帷をおろしたこの夜闇にあっても、車の排気風の如き熱風が部屋に舞い込んで来るのだった。
毎日恒例のひとり酒を終えたhは、また無意識に外に出て、暑い夜風に身を曝しながら近所の工事現場へと、ゆっくりと赴く。多少なりとも強風に足をとられながら。
闇が外見を隠してくれようとも、内心までは隠せぬ理の当然に抗うべく、にやけた顔を無理にでも締めようと努めると、どうしても強張った表情になってしまうのがやりきれなかった。
それでも、如何にも芝居じみた風体で自然体を繕いながら、工事現場に立ち尽くすガードマンに近寄って行くと、自分と同様に、少しばかり虚飾された真顔を泛べながら挨拶をしてくれたそのガードマンの計らいに、安堵するhだった。
以前とは違ったガードマン、これまでと全く同じような話をするhの話術の乏しさよ。
「毎日暑いですね。ほんまにご苦労様です。工事も大分進んだみたいですね。この風は盆の風でしょうね、俺もたまには盆らしい盆を過ごしたい所ですわ。どんな盆にしたいねんという話なんですけどね」
「いや、みんな一緒ですよ。今は盆も正月もない時代やからね」
作業服に安全靴。帽子にヘルメットで完全装備されたガードマンの年の頃は、杳として掴み切れなかったが、そんな事はどうでも良かった。それより、何ら卑屈にならず邪険にされずに、挨拶と会話が交わされた事は有難い限りで、ボケーっとしていても伝わって来る、人たる他者からの優しい気心に、自ずと表情を緩めるh。
途切れがちな会話の隙間を埋めるようにして現れる、気の利いた車の往来にも謝意が抱かれた。
一時は川のように流れる地下水を剥き出しにしていた工事現場が、舗装されたばかりのアスファルトで、黒く平坦に収まっていた。収まったというのは元に戻ったというよりは、寧ろ、それまで雑然と賑やかに立っていた、工事車両やバリケード等の事物の一切が取っ払われたという、空間的な変化に因る所が大きく、何れは竣工を迎える事になる工事現場にさえ、無常の時の流れ、儚さを感じずにはいられないhの心理は、本来の無気力無関心を更に下回る、言うなればマイナス地点への回帰でもあった。
現場に置かれた看板には、来年一月までが工期と記されてある。ガードマン曰く、この調子で、工事は北上して行くとの事であったが、今の余りにスッキリし過ぎたような現状に対する、hの名状し難い寂寥が、心の本質である事に偽りはなく、こうして呆然と立ち尽くしていると、昨日一昨日までの職人達の威勢の良い大声が、風に乗って記憶に蘇って来る心地だ。
「いや、淋しいですね。此処で一生、未来永劫工事を続けて欲しいぐらいですわ。人間の慣れとは或る意味、怖いぐらいやね。工事が始まった頃は煩くて鬱陶しくてしゃーなかったんですけどね。ええ年して何言うとんやって話やね」
「まぁ~。大切な税金で賄われた公共工事ですからねぇ~」
「確かにね。じゃあ、また寄らせて貰いますわ」
そう言って、また独りの世界へと戻ってゆくhだった。
翌朝、可愛い雀の鳴き声で眼を覚ましたhは、水道水が冷たくなるのを頑なに待ってからコップに注ぎ、それを一息に飲み干してから外に出て、聴こえぬ工事の音を想像しながら、近くの通い慣れた港へと向かうのだった。
もはや寂れて久しい、防波堤釣りも禁止された港には、閑散とした空気しか流れてはいなかった。
粛々とした足取りで港の外周を巡り、そんな侘しい光景に気圧される思いで、海を眺めていると、その穏やかな波にさえ戦慄を覚える。穏やか過ぎる。平坦過ぎる。釣り人も行人も無いに等しく、飛び跳ねる魚の一匹も、白波一つ上げない沖に見る船も、止まっているかのような、絵画的な情景しか映してはいない。このように全ての事物が寝静まったような静寂を、本来は好んでいた筈のhの心情が、ここまで掻き乱されるのは、気の迷いに過ぎないのだろうか。工事現場といいこの海といい、街といい、樹々に草花といい、森羅万象は生を放棄してしまったように映る。煩いのは蝉の鳴き声と風音ぐらいなものか。
やっぱりおかしい。こんな心境は自己欺瞞以外のなにものでもない。俺は何者かに魔法でも掛けられて、惑わされているに過ぎない。或いは病んでいるのか。
「うわぁぁぁーーー! ゴラァァァーーー!!」
誰も居ない港のど真ん中で、殆ど狂躁の態で叫びを上げて、そこらを走り回るhの頬を照らすは、唯に眩しい白光だけであった。