ハッシュタグ錦
相撲の歴史が変わった。どの相撲愛好家も、角界関係者も、デーモン小暮閣下(でーもん・こぐれ・かっか)も、異口同音にそう言った。
その言説も当然であった。身長283cm、体重474kgというまさに規格外のスケールの力士など、これまでどこにも存在しなかったのだから。
まだ「彼」は相撲を始めて一か月も経たないというのに、もはや今、角界に「彼」を止められる力士は一人もいなかった。日本中の相撲部屋を回った彼によって、一人残らず、完膚なきまでに叩きのめされたのだ。
「台風みたいな……いや、台風というよりは…『ハリケーン』だよ。そんな奴だった」
襲撃を何とか生き延びたある部屋の親方は、「彼」についてこう語った。彼の相撲部屋はその言葉通り、まるで自然災害に遭ったかのごとく荒れ果てていた。
「彼」の名は、ハッシュタグ錦。
相撲界を、破壊しに来た男であった。
ただ、テレビはハッシュタグ錦のことを少しも取り上げなかった。何しろ昨今は相撲が不人気なのだ。いくら彼が規格外といっても、あまりに数字が取れない。それでも、と放送すれば、一部の若者からは「裸同然の男を公然と電波に流すとは何事か」「電波に失礼だと思わないのか」「でんぱ組というのは結局何なんだ」などと執拗に苦情の電話までかかってくる始末。こんなわけであるから、もはやどこの局も相撲を扱うことなどとっくの昔にやめてしまっていた。
加えて、今はマリトッツォのことさえ流しておけばウソのように数字が取れる。ほとんどのテレビ局は、ハッシュタグ錦のことなど気づきすらせずにマリトッツォ関連の報道に必死であった。
「それでは続いて、今日の『マリトッツォのめぶき』のコーナーです。今日は山口県岩国市からお届けします」
「速報! 速報です! スペイン王国の『マリトッツォ王国』への改称を、国際マリトッツォ連合(UMN)が先ほど承認したと発表しました! これで『マリトッツォ王国』に改称した国は7つ目となります。このニュースを受けて、日本でも国名改称の議論が再び盛り上がっており…」
「いや~、ここからマリトッツォ情勢がどうなっていくのか、まだまだ注目していきたいですね。では一旦CMです」
ハッシュタグ錦は困ってしまった。相撲界を破壊したかった彼であったが、その目的の成就のためにはマスコミの報道も必要不可欠であった。相撲関係者や愛好家、デーモン小暮閣下(でーもん・こぐれ・かっか)だけでなく、広く大衆に相撲界が破壊されたことを伝えてこそ、相撲界を本当の意味で破壊しつくすことができるのだから。
ハッシュタグ錦は考え、考え、三日三晩考え抜いた。474kgあった体重は413kgまで減った。そして彼はついに妙案を思いついた。スマートフォンを手に取り、Google Play ストアを開く。彼はAndroidユーザーだった。
彼はダウンロードした『X』をさっそく開く。ハッシュタグ錦はSNSを活用しようとしているのだ。彼は機械が苦手で、BeReal(すべての通知を無視しているので、投稿したことも他人の投稿を見たこともないのだが)以外のSNSに触れたことがなかったが、もはや苦手を言い訳にしている場合でもなかった。マリトッツォばかりをもてはやしハッシュタグ錦の華々しい破壊活動を全く報じない既存のメディアなどくそくらえであった。俺は新時代のメディアでやっていくのだ。そんな思いでXの設定を進めた。
たどたどしく基本情報を入力し、ついに彼のプロフィールが出来上がった。彼は記念すべき初めての投稿をするべく、文面を打ち込む。数十分かかって打ち込んだ文面を、彼は満足げに何度も確認した。ここから、彼の新たな一歩が始まるのだ。彼は相撲界の完全な破壊に向け、希望たっぷりに「ポストする」をタップした。
だが、ちょうどその瞬間、Xは史上まれに見る大規模なエラーを起こし、彼の投稿は成功せず、下書きすらも残らなかった。その他にも、この不具合によってHIKAKINさんは自宅のインターネット環境が全て消滅し、SUSURUさんは食べ終えたばかりのラーメンが体内で何百倍にも膨れ上がって全治8週間の大怪我を負った。羽生結弦選手もいきなり異世界転生させられ、とても困っているらしかった。
これほどの大惨事になったにも関わらず、マスコミはまだマリトッツォのことばかりを報道し続けていた。ハッシュタグ錦は、投稿できなかった自分のポストの文面を思い出し、未だひとつのポストさえ表示されていない自らのプロフィールページを眺め、思わず生まれて初めての涙を流した。負けを知らない彼が、生まれて初めて感じた悔しさによる涙だった。
ハッシュタグ錦は決意した。全てを破壊する。サーバーエラーを起こしたXの奴ら、苦しむ俺たちに目すら向けないマスコミの奴ら、そしてマリトッツォ。彼の眼(まなこ)には憎しみの炎が燃え上がった。
ただ、ハッシュタグ錦はその日の午後に高熱を出し、それから3日間寝込む羽目になったので、怒りの炎も鎮火されてしまった。いかに屈強といえども彼も人間、高熱が出ればつらいのだ。かわいそうな話である。
そういうわけで世界は破壊を免れ、ハッシュタグ錦は体調が元に戻ってからすることもなく、ぽつぽつとXでの投稿を始めた。最初は見る者のいなかった彼のポストは、その素朴な文面と添えられた写真の美しさで徐々に人気を獲得していった。
彼はもはや、憎しみに心を支配されることなどなかった。彼のタイムラインには、彼の投稿を喜んでくれる「友人」がいる。そのことを思えば、相撲界もマスコミもマリトッツォも、彼にとってはどうでもよかった。
今日も彼のポストの末尾には、いつもと同じハッシュタグがついている。
そう、「#錦」ってね。