フェイクドキュメンタリーQ:「MOTHER(母胎)」に回帰する「考察者」たち
1.ホラーの最先端:フェイクドキュメンタリーQ
「フェイクドキュメンタリーQ」は皆口大地、寺内康太郎、福井鶴、遠藤香代子の四人を中心としたYouTubeのホラー動画シリーズである。
皆口氏、寺内氏は、ホラーファンの間ではもはや言わずと知れた、ホラークリエイターのパイオニアである。(僕はそれほどコアなホラーファンというわけではないが。)
皆口氏と言えばホラーエンターテイメント番組「ゾゾゾ」のディレクターとして知られる。寺内氏は、テレビ東京のホラー番組「祓除」や「TXQ FICTION」の「イシナガキクエを探しています」、そしていま話題の「行方不明展」展示映像監督として活躍中である。
そして、映像クリエイターとしての実績をもつ福井氏、遠藤氏がその脇を固めるという製作陣である。
フェイクドキュメンタリーQはシーズン1と2の二期に分かれている。
シーズン1は、2021年8月に公開された「封印されたフェイクドキュメンタリー - Cursed Video」を嚆矢として、2022年8月公開のシーズン1最終話「フィルムインフェルノ - Film Inferno」までの13本の動画。
シーズン2は2023年元旦に「ノーフィクション - Nofiction」が公開され、最新話「MOTHER」が2024年8月に公開、現在も継続中である。
僕が本コンテンツの視聴を始めたきっかけはシーズン1の最終話「フィルムインフェルノ」だった。キャッチーなサムネイルが目を引いた。
いわゆる「ジャンプスケア」の演出は無いとの情報は事前に得ていたように記憶しているが、かえって、まとわりつくようなおぞましさ、じんわりと現実を侵食してくるような不穏さがあり、目を背けたくなるような、しかし目を離せないような、要は「怖いモノ見たさ」が刺激されるのである。そこには全く新しいホラーの形(少なくとも僕にとっては)が提示されていた。
ここで心をつかまれた僕は、すぐさまバックナンバーを視聴した。いずれもさまざまな切り口からホラーコンテンツの新境地が提示されており、一見無関係なテーマが描かれる個々の作品も、関連が見出せそうな造りになっており、謎が謎を呼ぶ、そんな魅力に満ちている。以後、僕は本コンテンツを生きがいのひとつとして追いかけている。
2.フェイクドキュメンタリーQにおける「考察」という現象
「フェイクドキュメンタリーQ」は文字通り、「フェイク」「ドキュメンタリー」そして「Q」によって構成されている。
「フェイク」とは「嘘」である。「嘘」であることによって、ホラーは非現実性、エンターテイメント性が担保される。その一方で、製作陣がほのめかすように、「嘘」は「本当」のことを覆い隠すためにも使われるため、「非現実」に風穴を開けるものでもある。
「ドキュメンタリー」とは、要は番組のフォーマットである。実際の人物や物事をリポートする番組として構成されるため、「リアル」を前提としたフォーマットである。しかし、同時に「フェイク」であることも前提としており、飽くまで「ドキュメンタリー」であるという「体(てい)」、つまりはモキュメンタリーというジャンルである。そしてそれとは裏返しに、前述のような「本当を隠すためのフェイク」の可能性というスパイスが隠し味的に働いてもいる。
そして「Q」。これには様々な解釈が可能であると思われるが、シンプルに考えれば、「Q」とは「問い」である。Q&AのQである。しかし、この「Q」には、試験問題のように明確な「A」が存在するというわけではない。作品内に表れる不可解な事象、奇妙な事件、不気味な存在、それらは視聴者にさまざまな「問い」を投げかける。しかし、作品を最後まで見ても答えは提示されず、正体は不明なままである。その正体が今後何らかの形で明らかにされることもないだろう。全ては「謎」のままである。「Q」とは「謎」である、とも言えるだろう。掛詞的に言えば「迷宮」である。
この「謎」が重要なポイントとなる。「謎」は「考察」を呼ぶのである。
ホラー、すなわち恐怖の根源は「分からない」ということである。正体が「分からない」、理由が「分からない」、どのタイミングで来るか「分からない」、「分からない」から不安が掻き立てられる。しかし、正体が、理由が、いつ来るかが分かってしまえば、何とでも(物理的にも、心理的にも)処理しようがあるので、不安は解消される。
不安を解消したいから、その根源となる「分からない」こと、すなわち「謎」を解き明かしたい。これが「考察」という現象の原理である。(これは何もホラーに限ったことではないが。)「考察」とは物事を明らかにするためによく調べ、考えることを指すが、世間一般的には、結び付けがたい点と点を無理くりこじつけるようなものを「考察」と称し、何かを「分かった気になった」ようなものも多い。(実際、そこまでが限界であることも多いのだが。)
「考察」による不安・恐怖の解消(それが「分かった気になる」レベルのものであっても)はすなわちカタルシスであり、ある種の知的遊戯、つまりエンターテイメントとなる。この魔力が人を惹きつけてやまないのである。人間は、無限に「考察」し、「謎」を解き、「分からない」を解消することの快楽から逃れられない。故に無限に「不安の種」を欲するのである。
一般的な現象に鑑みれば、例えば週刊連載中のマンガの先の展開を、現状与えられている情報から予想することを「考察」と称することがある。これはやがて連載が進むにつれて「答え合わせ」が行われ、「答え合わせ」の前に示されたさまざまな解釈は淘汰されていく。出口のある迷宮である。
なお、しばしば何らかの事情で連載が休止し、「答え合わせ」と「謎」の供給がストップする場合もある。再開の望みが無い場合は出口の無い迷宮となる。ただ、出口の有る無しは「読み方」の方に依存する場合も多い。出口が用意された迷宮(例えば完結したマンガ)だとしても、読者には迷宮を「出ない」選択肢もある。
また、学問的な領域では迷宮に出口が無いのはよくあることである。迷宮がまた別の迷宮につながっていたりもする。何ならその迷宮の構造や意匠、仕組みや作意そのものの方に関心が向くことも多いだろう。「答え合わせ」の必要がないのである。
そのため、対象を「考察」した結果、何も明らかにならなかったとして、「分からない」ことは「分からない」ままでよく、「分かった気になる」方が非常に危うい、むしろ「分からない」ということが明らかになったなら、それは一定の成果と言える、また別の課題が浮かび上がってきたら儲けもの程度の認識が一般的であろうと思う。
フェイクドキュメンタリーQにはそもそも「答え合わせ」が無い。「謎」は永遠に「謎」のまま、「謎」が「謎」を呼ぶ、出口の無い迷宮、「謎」の永久機関である。視聴者は恐怖と不安の源泉である「謎」に誘引され、出口の無い迷宮に迷い込む。迷宮の至る所に配置された「謎」に群がり、出口を求めて血眼で「考察」する。無理のあるこじつけから、一見それらしいものまで、思い思いの見取り図が描かれる。しかし、どれだけ「蓋然」性の高い論理を展開したとしても、飽くまで「蓋然」に過ぎず、その論理が「必然」という出口に視聴者を導くことはない。フェイクドキュメンタリーQという物語世界における「真実」に関する限りでは。
このように、フェイクドキュメンタリーQというコンテンツでは、いつの頃からか自然発生的に「考察」のムーヴメントが常態化していった。そしてそれを生きがいのように追い求める視聴者も増えていった。
そこに投入された新たな仕掛け、最新話「MOTHER」が、そうした視聴者たちの足場を大きく揺るがすことになる。
3.フェイクドキュメンタリーQの画期:「MOTHER」
フェイクドキュメンタリーQは2023年からシーズン2に突入し、また新たな切り口でホラーの可能性が切り拓かれている。
中でも最新話「MOTHER」は、従来のシリーズとは一線を画す試みが採用されている。1つは「考察」のメタ認知、もう1つは書籍版との連携によりコンテンツを複層化する、という試みである。
2024年8月の「MOTHER」の公開に先立ち、書籍版『フェイクドキュメンタリーQ』の出版が発表され、7月に刊行された。この時点で視聴者たちは「MOTHER」を視聴する前に書籍版を読むかどうか、という選択を迫られることになる。そして、「MOTHER」公開時点において書籍の既読者と未読者という2つの不可逆な立場を生み出したのである。
ここからは書籍版を踏まえた内容になるため、未読者のまま「MOTHER」を視聴したいという方は注意されたい。ただし、これはネタバレ云々の問題ではなく、立場の選択の問題である。未読視聴者は既読視聴者にはなれないし、既読視聴者は未読視聴者にはなれない。いずれの立場も不可逆であるという点を強調しておきたい。理由は後述するが、僕個人の見解では既読視聴者を勧めたい。
さて、僕はというと未読視聴者の立場だった。
動画視聴後にまず感じたことは、「非常にメタ的な内容である」という点だった。
行方不明の母親・池澤葉子を捜索する息子・文雄は、血眼になって断片的な情報から何となくそれらしい「蓋然性」の高い論理を展開するが、それは絶対に「必然」に至ることはない。「分からない」状態は不安と恐怖の源泉である。だから、不安を、恐怖を解消したいがために、どうしても「考察」をしてしまう。そして、それがやがてエンタメと化していく。文雄が異様に熱を帯びた早口で自らの「考察」の結果を披露する様子は、「考察」に血道を上げる視聴者にオーバーラップするように意図したものに見える。
母親が見つかってほしいのではなく、エンターテイメントとしての「謎」を無限に消費し続けたいがために、次なる「謎」を生きがいのように待つ。この歪みは、作品のテーマではなく、目の前に提示された「謎」を解明することに躍起になっている視聴者の歪みでもある。この時点で、「考察」する視聴者は「MOTHER」という作品に内部化されたと言える。
視聴者は「考察」する自分自身を作品側から逆照射され、否応なく文雄に自分を重ねざるを得ず、「考察」することを揶揄されたような、咎められたような気分になった人も多かったのではないだろうか。
しかし、念のため確認しておくが、「考察」という行為はごくごく一般的な営みであり、そこに尻込みする必要は無いということは断っておきたい。
もちろん、無理のある論理、こじつけや陰謀論、信じたいものを信じるというようなポストトゥルースの弊害、こうした問題は現実的に生じるものとして注意を払わなければならない。しかし、このような社会問題を諷刺することが「MOTHER」の主題であるようには思われない。
物語世界の「真実」が明らかにならないとしても、作品のテーマを明らかにする手続きとして、「考察」、つまり物事をよく調べて考えることは当然必要なのである。
僕は動画の内容の真相よりも、なぜこのようなプロットなのか?この演出はどういう意図なのか?といった問題の方が気になって早口になるタイプなので、比較的冷静に作品を分析できていたのではないかと思う。
しかし、まだ未解決の問題が残っている。
書籍を含めた「MOTHER」というコンテンツがどのように「仕組まれた」ものなのか、という点である。「MOTHER」は書籍の出版に合わせて、書籍の内容が気になるように企図されている、という点は、本シリーズとしては革新的な試みであったと言えよう。(商業的戦略という面もあろうが。)
「MOTHER」の公開によって未読視聴者と既読視聴者に立場が二分され、既読者には「書籍の内容を知っている」という優位性が生じる。その優位性のために、自然な心の動きとして、既読者は書籍の内容をほのめかすような言及をせずにはいられない。Xでは実際に「悪意」というワードがしばしば目についた。念のため断っておくと、こういったことを「ネタバレ」だの「匂わせ」だのと糾弾したいわけではない。むしろ、このような動きすらも、「MOTHER」においては、仕組まれたものだったのではないか?と書籍未読時点の僕には思われた、ということである。
未読時点の仮説として、僕は次のような対立構造を提示した。
①「(真相が)分からない=不安・恐怖=考察=エンタメ」サイド
(=文雄 =「考察」する側 =未読者)
②「(書籍版によって真相?が)分かっている=悪意?=仕掛け」サイド
(=犯人?=「考察」させる側=製作陣、及び既読者)
つまり、書籍版は既読者に「犯人?=製作陣」サイドを疑似体験させるという仕掛けなのではないか、という推論である。「疑似体験」というよりは「共犯者にする」という表現の方があるいは適切かもしれない。「考察する側」ではなく、「考察させる側」に立つことを許されたのである。
その後、僕は晴れて書籍版未読視聴者を経た既読者となった。
書籍の内容としては「悪意」とやらの正体、そして肝心の「真相」は結局分からないままであるという点、これらの事実を確認するものに過ぎない、と言ってしまうと矮小化に過ぎるかもしれないが、僕にとってこれは予想の範囲内であり、それはあまり重要でないという話である。
このように確認してみると、既読視聴者の方がこの仕掛けをより楽しめたのではないかと思われる。未読視聴者が持ち得ない「共犯者」の視点という特等席から「MOTHER」を見ることができたのだから。「悪意」のレイヤーというオペラグラスのサービス付きで。もし既読、未読の選択に迷っている人にアドバイスを求められたら、僕は既読視聴を勧めるかもしれない。
4.「母」へと回帰する「考察」
僕にとって重要な関心事は、「MOTHER」における文雄の存在を通して、「考察者」がフェイクドキュメンタリーQというコンテンツに内部化されたという点である。
もちろんQ初期から「考察」というムーヴメント自体は存在していた。「MOTHER」の画期性は、「考察」のムーヴメント自体も作品の一部であることを、視聴者に対して明らかに示した点にあると言える。
それはあたかも「MOTHER(母)」から生まれた「考察者」が母の胎内に回帰するがごとく、テクストの中に受け手の解釈が取り込まれる過程を見ることができるのである。「考察」は、もはやフェイクドキュメンタリーQというコンテンツそのものの一部となったのである。
答えの無い「謎」を消費し続ける迷宮の彷徨者、それはあたかも無間地獄(フィルムインフェルノは胎内を想起させる)で永遠の責め苦を受け続ける亡者のようであり、彼らは新たな仲間を求めて「考察」=「謎」を再生産し続けるのである。「考察者」は、もはやリアルの視聴者(生者)ではなく、物語世界の中に取り込まれ、フェイク(死者)と化したと言える。となると、「考察させる者」はさしずめインフェルノの獄卒といった所だろうか。このように見てくると、フェイクドキュメンタリーQは現代の「地獄変」であると言って差し支えないのではないか。
「MOTHER」によって「考察する者」と「考察させる者」の構造が明確化され、「考察」がコンテンツに内部化されたことにより、どのような現象が起こるだろうか。そこには、コンテンツのさらに外側から、客観的な視点でこのコンテンツを見る立場が出現したことを意味している。
以下はやや小難しい話になるが、お付き合いいただきたい。
「作者の死」に象徴されるテクスト論的視点から見ると、所謂「作品」がテクストであり、エクリチュール(書かれたもの)であると言える。以下に拙い図式を示すが、【 】に括られた部分がエクリチュールと考えてよい。エクリチュールは書かれたものと解されるが、現代的には音楽や動画などに範囲を拡大して捉えることもできよう。
作者➡【テクスト】➡受け手
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【作者➡ テクスト ➡受け手】➡受け手
フェイクドキュメンタリーQは当初、個々の独立した動画のテクスト群であり、それぞれがエクリチュールとして解釈の対象になっていた。しかし、「考察」の常態化により、独立的な動画作品同士が関連付けられ、フェイクドキュメンタリーQという大きなエクリチュールの総体が徐々に形作られる中で、受け手(「考察」)はその総体の中に取り込まれいった。(恐らくは製作陣までも。)
なお、以上のような分析は、例えばゲーム配信やTRPGなどにも応用できるのではないかと考えているが、それらの考察については稿を改めたい。
ともかく、「MOTHER」という画期を経たことで、「考察させる者」と「考察する者」、その対立構造から外部化された新たな視聴者像がフェイクドキュメンタリーQの前に立ちはだかることになるのである。
これは、とりもなおさずフェイクドキュメンタリーQが新たなステージに移行しようとしていることを示しているのではないか!などというと、作者はそこまで考えていないんじゃない的な反論が起こりそうだが、実際の所、僕もそこまで大げさな話ではないのかなとも思う。
今はとにかく「キムラヒサコ」の動画化が待ち遠しい、というのが率直な、素朴な感想である。別に何もハードルを上げたいわけではなく、今後もきっと僕を楽しませてくれるだろう、というある種の確信を得たという結論である、とするのは要約が過ぎるだろうか。でも、皆も見たいはずだろう、色んな地獄を。
しかし、それにつけても不穏なのは、製作陣がほのめかす、「本当を隠すための嘘」である。
「考察させる者」「考察する者」は既に「ホラー=フェイク」の中に構造化された。そして、それに対して外部化された視聴者は「現実=リアル」の中にいる。しかし、ホラー=フェイクの中に本当(リアル)を隠すための嘘が紛れ込んでいる可能性が既に示唆されている。
そこで、製作陣が次に打ってくる手、それは「現実を侵食する」ことではないかと予想している。現実という外部・安全圏から「ホラー=フェイク」をながめる者に対して、その境界を曖昧にするような何か。恐らくそれがQの次のステージだろうと勝手に思っている。そのあたり、「トロイの木馬」の生配信は実験的だったと言えるかもしれない。
今はもはやアーカイブを見ることしかできない「トロイの木馬」、あの時の体験は一体、リアルだったのか、フェイクだったのか、改めて考えてみるのも面白いかもしれない。
8月32日 識す