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人喰いライオンとカニ男

 映画「グレート・ハンティング」が公開されたのは1976年の春だった。
「偶然撮影されたライオンが人を食う映像」というのが売りの残酷ドキュメンタリー映画で、結構な評判になっていた。
 私は中学生の映画少年だったが、こうしたキワモノ映画は軽蔑しており、全く関心がなかった。
ライオンのシーンも映画雑誌に「作りもの」と書かれており、映画好きの間では、イタリア製の露悪的ドキュメンタリー映画は大概「ヤラセ」ということも常識化していたから、騒いでいる人たちがバカに見えた。

 だから、この映画は見に行く予定がなかったのだが、うちの前の旅館の娘が
「おい!ユーシン!映画につきあえ!ライオンが人を食うやつや。見たいやろ?」
と誘ってきたのだ。
 娘は近所でも有名な不良で、高校生だが学校には通わず、朝から晩までタバコをふかし、繁華街で遊び呆けているアバズレだった。
男関係もデタラメで、桃色遊戯的なことで補導されたこともあるという噂だ。

 もちろん私の両親は、この娘を警戒しており、私に
「あの娘とは遊んではならない。口をきいてもだめ。見かけたら、顔を伏せて目線を合わすこともならない」
と常に言いつけた。
私もその言いつけを守っていたのだが、娘は何故かよく私に声をかけてくるのである。
 無視するのも怖いので、挨拶ぐらいはしていたが、誘われたのはこれが初めてだった。
私は困り
「ぼ、ぼくは怖い映画は苦手やから……心臓が止まると困るので……」
と嘘をついて断った。
 すると娘はアバズレらしからぬ寂しい表情になり
「そうか……ごめんな。アタシも怖いのは苦手やから……。ユーシンと一緒だったら見れるかな、と思って……」
と言うのだ。
娘の手には前売り券2枚が握られており、その手が微かに震えている。

 私は、突然、考えを変えた。
(行かねばならない。私はこのお姉さんとライオンが人を食べる映画を観に行かねばならない!)

「じゃあ……やっぱり行きます。急に観たくなった」
と言うと、娘はパッと明るくなり
「わ〜い」
と言った。
(この人は悪い人じゃない。可愛い人だ)
異常に胸がときめいた。
ライオンが人を食う前に、心臓が止まりそうだ……

 映画館は飲み屋街にあった。
映画館が近づくと
「ぎゃー!助けてー!人喰いライオンだー!ぎゃーあああ〜!グレートハンティング!」
という声が聞こえる。
映画館が屋外スピーカーで物騒な宣伝惹句を流しているのだ。
娘は私の手を握り
「アタシ、前からユーシンとデートしたかったのよね〜」
と言う。
(そうか、これはデートなのか……)
私はここで初めて赤面した。

 いや、しかし、この娘は、札付きの不良で、近所の鼻つまみ者だった……
身なりも化粧も派手。甘い香水の匂いに混じってタバコの臭いがする。
こんな人と手を繋いで歩いているのを、同級生や知り合いの人に見られたら大変だ……
が……柔らかく吸い付くような年上女性の手を離すことは、私には出来なかった。
いやまぁ、何と幸せな気持ちなんだろう。

 だが、私たちは見られていたのだ。
同級生でも知り合いでもない、もっとやっかいな人物に。

「おー!おー!おー!シー子じゃね〜かよぉ!」
後ろから声をかけてきたのは、全身黒ずくめの長身痩身の男だった。リーゼント頭にサングラス。黒のペラペラのジャンパー。異様なのは、顔が真っ白で、頰が骸骨のように削げていることだが、とにかく、その辺で見かける普通の男ではない。
男はダブダブのズボンのポケットに両手をつっこみ、極端なガニ股で全身を左右に振りながら、私の周囲をゆらゆらと横歩きし、
「おい、お前。誰や?」
と甲高い声で私に訊ねた。
怖い……
まるで、黒い巨大なカニだ。
私は何も言えない。
声が出ないのだ。
「誰やと聞いとるんや!」
答えようとしても、私の口からは
「シューシュー」
と息が漏れるだけだ。
「お・ま・え・は・シー子と・どう・いう・か・ん・け・い・なんや?おぅ〜」
男は唇の端には唾液ぐ泡のように溜まっている。
「シュー…シュー…」

「何や?こいつは?ガス漏れか?」
カニ男は、私にグッと迫って胸ぐらを掴んだ。
もうダメだ。

そこでやっと娘が
「これは弟なんよ。弟と映画を見に来ただけよ。何が悪い?」
と言い、私を掴んだカニ男の手を払った。

「弟〜?な〜にが弟じゃ!お前にいつ兄弟ができたんや?わしゃ、お前のことは、ドタマの先から尻の穴まで知っとるんじゃい!」
カニ男は、今度は人差し指と中指だけで私の首を挟んだ。
「お前!ガス漏れのガキ!わしに断り無しにシー子と遊んだらどーなるか、知らんのかー!あ〜」
娘が、そのカニの指に飛びつき
「やめんかい!この子は、アタシの弟……弟のような友達や!その汚い手ぇを離さんかい!」

 私には二人の関係がいったい何なのか?さっぱりわからなかった。
いや、そんなことはどうでもよい。私には直ちに、13年の人生で最恐最悪のこの状況から逃れる以外、選択肢はない。
 私は全力でカニ男の横をすり抜けようとして、気づいた。
この瞬間まで娘は、私の手を握っていたのだ。
繋いだ手がビンっと伸びて引き合った。
娘を見ると、とても切ない悲しい顔をしている。
最初に誘いを断った時のあの顔だ。
泣きそうだ。
……が、私はその手をふりほどき、必死に駆け出したのだった。

「ぎゃー!助けてー!人喰いライオンだー!ぎゃーあああ〜!グレートハンティング!」
映画館の屋外スピーカーの音が私の心を代弁するよう、一際大きく鳴り響く。
私の口からは
「シューシュー」
と息が漏れるだけで悲鳴すら上がらない。
まるで心の中身が全てガスになって抜けていくようだ。

振り返ることもしない。
雑踏を掻き分け、掻き分け、私一人だけが皆と逆の方向に走り続けた。

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