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ゴジラにおける反戦反核とは何ぞや?
怪獣映画は、暴力や破壊といった倫理的に禁止抑圧された邪悪な欲求を、怪獣に代理的にやってもらい、それを鑑賞することで、邪悪な欲求を満足させる、というジャンルである。娯楽映画というものは大概、そうした非倫理的欲求の充足で成り立っているのだから、それは恥じることではない。
しかし、破壊願望の充足だけでは、観客の中の倫理観が反発をおこして、罪悪感が惹起されてしまう。それを避けるために、破壊と暴力が発生する原点に勧善懲悪の概念や、反戦反核のような社会的なテーマを置く。
つまり反戦反核があってゴジラが語られるのではなく、破壊と暴力の非倫理的欲求の充足がまずあり、それを中和するために、正義感や反核があるのだ。
だから、ゴジラを代表とする怪獣映画には、後ろめたさが付きまとう。
どうしても反戦反核といった社会正義的メッセージの方を声高に叫びたくなるファン心理は、これに根差したものだろう。
SNSで「ゴジラに反戦厭戦の思想などほとんど含まれない!」などと主張すると、激烈な反論の嵐に巻き込まれるのも同じ理由だ。
反戦反核のメッセージ映画「だから」ゴジラを見る、なんて人はいないのだが、そうだと思い込んでいる人は沢山いる。
それは作り手も自覚的で、「ゴジラ−1.0」も、ゴジラの破壊行為の締めくくりに、原爆のイメージを与えることで観客の罪悪感を中和させることを忘れていない。
(もちろん、それは偽善として断罪される性質の事象ではない)