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気狂いチンパンジー 怒りの鉄玉

今から50年ほど前の夏。
私の通う小学校にチンパンジーが来ることになった。所謂「移動動物園」である。

当時チンパンジーは、全国的にも飼育数が少ない非常に珍しい動物だった。だからクラスに実物のチンパンジーを見た者は一人もいなかった。

テレビでトレンチコートを着たチンパンジーが探偵を演じる「チンパン探偵ムッシュバラバラ」が放送されており、ブラウン管を通じてはお馴染みの猿ではあったが、我々は
「チンパンジーというのは犬よりも芸ができる賢い猿だ」
という程度の知識しか持っていなかったのだ。

担任教師は
「チンパンジーはほとんど人間や。だから類人猿というんや。そのへんにいる野良猿と違うて、自分の意思で絵を描いたり、皿を洗ったりもできるんやで。君らより知能が高いかもしれんね」
と大雑把なことを言ったが、やはり実物を見たことはなかった。

 暑い土曜日の朝。
全校生徒が校庭に出てチンパンジーの到着を待った。
開局したばかりの地元テレビ局のカメラまで来ていたので、校長をはじめ教員達も緊張している。
チンパンジーも初めてだが、テレビに写るのも初めてなのだ。

 しかし時間になってもチンパンジーは来なかった。

炎天下の校庭で、ふらふらしながら30分も待っていると、やっと移動動物園の職員タケダ氏から電話連絡があった。
「今日はチンパンジーの機嫌が悪いので、行けない」
というのだ。
それを聞いたテレビ局が帰り支度を始めてしまった。
校長は焦り
「おい!いまさら何をぬかしとる!わしに恥をかかせるつもりか!チンパン猿をなだめて連れてこんか!テレビも来てるんだぞ!テレビも!」
とタケダを激しく怒鳴りつけた。
(当時の校長は軍人あがり。地域ではとても強い権力を持っており、周囲もそれを認めていた)

結果、チンパンジーは条件付きで来ることになった。
「生徒は全員校舎に入り、窓から校庭のチンパンジーを見る」
というのである。
直にチンパンジーを見られる。触れ合うことができると思っていた我々生徒はガッカリしてしまった。
窓越しに見るならテレビの「チンパン探偵」と同じじゃないか……

 暫くすると、校庭に汚いトラックが入ってきた。
荷台に荒縄でぐるぐる巻きにされたチンパンジーが転がされているのが見える。
「ウガ!ウガ!ウガー!」
チンパンジーは拘束を嫌い、野生の雄叫びをあげて、身をよじっている。その身動きに連れてトラックが僅かに揺れているように見えた。

「凄い力だ!」
「思ったよりでかいぞ。全長2メートルぐらいある」
「でも、あんなに縛られて、ちょっと可哀想ね〜」

窓越しであっても、意外に巨大で荒々しいチンパンジーの迫力は伝わり、生徒らは息を呑むばかりだ。
教師も動揺し
「頭が良いと聞いていたから、もっとおとなしい動物と思っていたが、あれはまさに野獣だ。キックの沢村より強いかもしれん」
と幼稚な感想を述べた。

校庭の真ん中にトラックが止まると、運転席から小太りの職員が降りてきた。
「イカシマ小学校の皆さんこんにちは。今日は遅れてごめんなさいね。私が移動動物園の園長タケダです。荷台に縛ってあるのが、我が国にまだ数頭しかいないチンパン猿のオスですよ。今から鎖を解きますから、どうぞ校庭には出ないようにしてください。今日は暑くて、ちょっと機嫌が悪いので……」

タケダは、なお暴れ吠え続けるチンパンジーに奴隷に付ける足枷をはめてから、身体の拘束を解いた。
「ウガー!フンガー!」
自由の身となったチンパンジーは、敏捷に飛び起きると、荷台の上に仁王立ちになると、キチガイのように両手を振り回し、校舎の窓から眺める我々生徒たちを睨み、牙を剥き出して威嚇した。
「ウンガー!」

「きゃー!」女子生徒が悲鳴をあげ、全員、窓際から退いた。これは全然思っていたのと違う猿だ。

「皆さん、心配はありません。この足枷には20kgの鉄鎖と、その先に60kgの鉄球が付いています。合計80kg。浅間山荘の鉄玉クレーンぐらい信用のおけるものです。でも、とにかく今日は機嫌が悪いので、万一に備えて、校庭には出ないでください!」
安全を強調しながらも、タケダはジリジリとトラックから離れていく。暑さとは逆に顔面は蒼白、体が小刻みに震えているのだ。

「ギャオー!グワワワワワ!」
チンパンジーの怒りはおさまりそうにない。鉄球のために移動ができないので、その場で地団駄を踏む。するとトラックが上下に激しく揺れる。時には車体が宙に浮くほどだ。タイヤが軋み、砂埃が立つ。
この際、フロントガラスの端にピシッと亀裂が走ったのを私は見逃さなかった。

こんな迫力は怪獣映画でも味わったことがない。これでもう十分だ。
チンパンジーが人類とは共存不可能な怪物であるということはよくわかった。テレビのチンパン探偵は、きっとぬいぐるみが何かを使った特撮だったのだろう。

タケダは必死に作り笑顔を見せると、怒れるチンパンジーにバナナを投げた。
バナナをキャッチすると、途端にチンパンジーの目の色が変わった。
あんなに暴れていたのに、急におとなしくなり、器用に皮を剥いてバナナを食べ始めた。
「……バ、バナナ…ウマウマ……」

すかさずタケダは2本目、3本目のバナナを与えた。
嘘のように野生の殺気が消え、チンパンジーの顔が柔和になっていく。
バナナが効いたのだ。

「いや〜、良かった良かった。機嫌が治ったようです。もう大丈夫でしょう。あ、テレビの人、前に来て撮ってください。心配ありません。おとなしい猿に戻りました」

テレビカメラが恐る恐る前進していくと、チンパンジーはカメラのレンズに向かってニヤ〜っと笑いかける。

「あ!チンパンジーが笑った!」
生徒の一部も校庭に降りて、トラックに近づいたが、タケダは止めなかった。
チンパンジーもニヤニヤして、生徒たちに手を振るのだ。

「猿の機嫌も良くなったので、誰か代表の生徒さんと握手でもしてみましょうか?ではチンパンジーと握手したい人、手を挙げてください!」

しかし、さすがに先ほどまでの暴れっぷりを見ているだけに、握手をするのは気が引ける。遠巻きに眺めるのが精一杯だ。手を挙げる子供は一人もいなかった。

するとテレビ局が文句を言い始めた。
「これじゃあ、絵にならないよ。校長先生。あんたが代表として大猿と握手してくださいよ!」

窓の奥で誰よりも青ざめていた校長は、突然の指名に驚き、自分を指差して
「わし?」
と問い、目を剥いて周囲を見渡した。明らかに怯えている。
誰かが
「今まで元軍人を自慢して、ふんぞり返ってたんだから、猿と握手ぐらいしろ!」
という厳しい意見が飛んだ。
校長は唇を尖らせて
「だ、誰だ!そんな失礼なことをいうのは!わしは校長だぞ……」
と怒鳴るも、語尾に力がない。

「校長なら校長らしく、猿と握手しろ!」
子供の声ではない。教員がどさくさに紛れて日頃の不満をぶつけているのだ。
「そうだ、そうだ!せっかくテレビが来てるんだから、一番偉い校長様が行け!」
「こんな時の校長だろう?校長らしさを見せてみろ!」
ここぞとばかりに教員たちの声は高まり続ける。

この校長、日頃から相当嫌われていたようだ。

「わかったよ!わかりましたよ!行けばいいんでしょう、行けば!」
止まぬ声に押される形で、校長は渋々、トラックに向かっていく。

チンパンジーは荷台の上から、近づいてくる校長に右手を突き出し、ニヤニヤ笑いを浮かべて、おいでおいでと手招きをしている。

「くそ……何だこの人を馬鹿にした態度は……この狂いマシラめ……。タケダ君。本当にこいつは暴れないんだろうね?」
しかしタケダは、より遠くに移動しており、校長の声が聞こえない。引き攣った笑みを浮かべて冷や汗を流しているだけだ。

2m〜1.5m〜1m……近づく毎に校長の歩みは遅くなる。
それにしてもデカい猿だ。
遠方から見ても巨大に感じたが、近くで見ると、以前プロレスで見たジャイアント馬場ぐらいある。荷台の高さを差し引いても、常識はずれの高身長だ。
しかも筋骨の張りは、馬場どころではない。伸ばされた真っ黒の掌はグローブのように分厚くゴツい。
(こ、これを握るのか……)
校長も恐る恐る右手を伸ばす。

「と、ところでタケ、タケ、タケダ君。こいつは今まで何人と握手したんだ?」
遠くからタケダが答えた。
「握手は……初めてです」
それを聞いた校長は、咄嗟に伸ばした手を引っ込めた。

瞬間。チンパンジーの顔が豹変した。
白目がちの凶悪の視線。眉間に深い無数の皺。剥き出される歯茎。牙。噴出する大量のヨダレ。全ての毛が逆立ち
「グア!グワ!グワワ!コロッタル!コロッタル〜!」
と、今までにない、耳をつんざくような咆哮を発したのだ。

「ひひ、ひ〜え〜」
世にも情けない悲鳴と共に腰を抜かした校長は、その場に尻餅をついた。
激昂したチンパンジーは、なんと60kgの鉄球を20kgの鉄鎖と共にジャラジャラと持ち上げ、気合もろとも頭上に抱え上げたではないか。
「ウガガガ!コレデ…オシツブシタル!」
チンパンジーは合計80kgの鉄塊を叩きつけて腰抜けの校長を殺害しようとしているのだ。

「うわぁ〜許してください!許してください!」
泣いて許しを乞う校長だったが、握手の手を引っ込められた欠礼が我慢できなかったチンパンジーは、歯を剥き出して不敵な笑みを浮かべると、校長に向けて力任せに鉄球を投げつけた。

しかしそこは猿。そう、鉄球は鎖を通じて足枷と繋がっていたことを、この大猿は失念していたのだ。

80kgの鉄塊に引っ張られてチンパンジーの体は宙に舞い、トラックの荷台から校庭の硬い地面に頭から転落したのだ。
その位置は校長から僅かに外れており、悪運強い校長は無傷で助かったのだった。

茫然自失の校長の横で、頭から血を流してピクリとも動かぬチンパンジー。枷のかかっていた足は脱臼あるいは骨折し、あらぬ方向に捻じ曲がっている。
死んだのか?

駆け寄るタケダ。
「うわぁ!大丈夫か?大丈夫なのか!ゴリ!ゴリ〜!」

タケダに抱き抱えられたチンパンジーは、左右に頭を振って気を取り戻した。
チンパンジーのゴリは、生きていたのだ。
顔面は血まみれ。その顔は苦痛に歪みながらも、また温和さを取り戻している。
そしてゴリは、隣でなお腰を抜かして立てぬ校長に、ゆっくりと右手を差し出した。
校長も右手を出し、今度は引っ込めずにゴリの手を優しく握ったのだった。

……が、傷ついてなおゴリの握力は強力であった。
バキバキバキ!
校長の手の骨が砕ける音が、校庭に響いた。

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