湯煙ドラゴン陰毛拳
「燃えよドラゴン」が公開されたのは私が小学5年生の時だ。
以後(遡る形で)ブルース・リーの主演作が公開されていったこともあり、私が中学に上がってもまだブルース・リーのブームは止むことがなく嵐のように吹き荒れていた。
映画を見るだけで飽き足らず
「わしもブルース・リーになるんや!」
と空手を習い始める者も少なくなかったが、厳しい鍛錬に耐えられず、また(どうやらこのまま続けても、ブルース・リーにはなれそうにないな……)と悟り、数ヶ月で道場を去る者がほとんどであった。
同級生に「チンゲ」という汚らしいあだ名の男がいた。あだ名の由来は定かではないが、幼少期からそう呼ばれていたらしく
「おーい!チンゲぇ〜」
と呼ぶと
「何だい?」
と答えるぐらい、周囲も本人もその名に馴染んでいた。
チンゲは、その名の印象とは異なり、非常に勉強熱心なガリ勉タイプであった。色白小柄で小太り、坊主刈り。分厚いレンズの黒縁メガネをかけた、見るからに生真面目な男。
しかし残念ながら努力が報われず、成績は中の下、というところだった。
そのチンゲが「どうやら空手の達人らしい」という噂が立った。
成績は中の下。スポーツはダメで、いつもメガネを落としてキョロキョロしている陰毛少年が、まさか空手の有段者?
……それは信じ難い話だったが、ある時、夕日の土手で不良に絡まれたチンゲが
「ハタ!ハタ!ハタ!」
という奇妙な気合いと共に、猛烈な連続蹴りを繰り出し、不良を土手下に叩き落としたのを物陰から目撃した者がいるというのだ。
チンゲは、誰かに見られていないか鋭い視線で周囲を見渡し、何ごともなかったかのように去っていったという。
噂は瞬く間に広がったが、当のチンゲは
「アホなこというな。わしが強いはずないやろ?」
と笑っている。
我々も、チンゲ本人の口からそれを聞くと認めざるを得なかった。
(こんな奴が強いわけがない……)
そんな噂が聞かれなくなった頃、我々は修学旅行に行くことになった。行き先は九州である。
その旅先の旅館で事件が発生した。
我々のクラスが大浴場で入浴していると、ガラガラと戸が開き、全く知らない中年のハゲ親父が、痩せた若い男(何故か海水パンツを履いている)を引き連れて入ってきたのだ。
でっぷりと肥えたハゲ親父は、入浴する我々を見渡してニカーッと笑い
「お〜!やっぱり若い男は、ピチピチしてええもんじゃの〜」
と言い、舌なめずりをするのだ。
お供の痩せた男は
「社長〜まったくでございますね〜。若い男ってホントにいいですねぇ〜」
と揉み手をしながら、話を合わせているが、こちらはあまり興味はなさそうで、ちょっと困った顔をしている。
社長と呼ばれたハゲ親父は、興奮で全身が真っ赤になっており、タオルを巻いた下半身が異常反応を起こしていることが、濃い湯気越しにも見てとれるのである。
我々が呆気にとられていると、ハゲ親父は、ドカッと洗い場にあぐらをかくと
「よ〜し!品定めじゃ〜、そこのお前!こっちゃこい!おっちゃんの膝の上に来い!」
と一人の生徒を指名し、手招きをした。
「へ、変態!変態じゃ〜!九州の変態じゃ〜!」
皆は一斉に湯船から飛び出し、我先にと浴場の外へ駆け出していく。
その全裸の躍動をハゲ親父は
「お!おぅ!おぅ!ええもんじゃのぉ!こりゃ絶景じゃ!眼福じゃ〜!」
と満足気に眺め、手を叩いて喜んでいる……
しかし一人だけ、湯船に身を沈めたまま、悠然としている生徒がいたのだ。
そうチンゲである。
この事態にして一人、湯船でくつろぐチンゲを見たハゲ親父は
「お?お前は逃げんのか?そうかそうか腰が抜けたか?よ〜し、おっちゃんが介抱しちゃる。おい!マツミヤ!あいつを湯船から引っ張り出して、ここに連れてこい!」
海水パンツの部下マツミヤは
「は!かしこまりました!」
とチンゲのところに向かい
「よしよし。社長に可愛がってもらうんだぞ……」
と手を伸ばした。
これ以後の光景は、だれも見ていない。我々は全員、変態ハゲ親父に怯えて大浴場から脱衣所に逃げ出していたからだ。もし浴場に残っていても、濃い湯気で何が起こったのかを正しく見てとることは出来なかっただろう。
大浴場にエコーを伴った
「ハタ!」
という気合が響き渡り、ドサッと人が倒れる音がしたのだ。
これは、一瞬の出来事であった。
その後、湯気の向こうからゆっくりと現れたチンゲは
「おっさんが二人倒れとる。のぼせたのとちがうか?」
と言い、タオルで体を拭き始めた。
恐る恐る浴場を覗くと、湯船に突っ伏して海水パンツ男が倒れており、洗い場の方では変態社長が仰向けにのびている。
誰かが
「チン……チンゲ、いやチンゲ君。君がやったのか?」
と聞くと、チンゲは
「まさか」
とだけ言うと、さっさと脱衣所から出て行ってしまった。
この事件は修学旅行で訪れた、どんな名所旧跡よりも我々の心に残った。
その時、我々はチンゲこそ男の中の男であり、ブルース・リーの再来と信じたのだ。
しかし、チンゲはその後、ガリ勉するも成績は中の下、体育も不得意なまま冴えない中学生活を送り、もちろん技を見せる機会もなく卒業を迎えた。
本当に不良を段蹴りで土手下に落とし、変態親父とその部下を風呂場でのしたのはチンゲだったのだろうか?あれはやはり単なる噂や錯覚だったのではないのか?
ただ卒業アルバムの「尊敬する人」の欄にチンゲが小さい字で
「李小龍」
と書き残していたことは、見逃されがちな事実である。
(チンゲは親の都合で遠い県外の高校に進学したため、その後を知る者はいない)