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『痛みと悼み』 十八

1時間運転した。教会は、灰色の繁華街の、低く唸るような喧騒の街中、幹線道路に面した建物が並ぶ中にあった。
 めぐむは、その灰色の街にドヤ街という言葉を思い出す。路上の人は、明らかに都内で見るサラリーマンたちの行き交う景色とは違っている。ここは、人が仕事のあるときに、動ける人だけが動き、その力のない人は、置いていかれる街のような気がする。置いていかれた人が、アルコールか何かで憂さを晴らす。
 まだ涼しい街中を下着姿に近い様子で、空な目で重ねた段ボールをワゴンに乗せて引きずって歩いている人がいた。すれ違う人たちに、アルコールでくすんだ汗と垢の匂いがした。それは、めぐむの仕事で感じる匂いの一歩手前でまだ生きている人が出す匂いだった。
 そんな中に、周りの景色に埋もれるようにその教会はあった。
 教会と聞いて、綺麗な建物と十字架を掲げた屋根を思い浮かべていためぐむは、他の薄汚れた灰色のコンクリートの建物と変わらず仲良く肩を組むように並ぶ二階建ての小さな建物に驚いた。
 建物の前には掲示板があって、横には小さく教会であることを示す看板がある。掲示板には、半紙に墨書きで、聖書の言葉が引用されていた。
 「主はお前の罪をことごとくゆるし、病をすべていやし、いのちを墓からあがない出してくださる。いつくしみとあわれみの冠を授け(てくださる)」(詩編103・3―4)
 教会へのいざないの掲示かとめぐむは思う。しかし、めぐむには、それが引用されている「詩篇」というものも全く知らない。

 掲示板の横にある、真ん中に曇りガラスの小窓がついた両開きのスチール製のドアの中から、人の声が聞こえて、ざわざわと低い音も聞こえる。
 ドアの前で立ち止まっているめぐむの横を、マスクをしたよれた作業着姿の年配の男性が、小さく微笑んだ視線をめぐむに向けて通り過ぎ、ドアを押して中に入っていく。開いだドアから、中の木製の長椅子とその周りで立ち話をしている、数人の小さな男性の姿が見えて、めぐむも、さっきの男性が開けたドアが閉まる前に押して中に入る。
 入って見上げると2階建と思ったのが2階が無くて天井まで吹き抜けになっていた。左を見ると、小さな祭壇が正面にあり、そこに縦長の白く組まれだだけの十字架が見える。十字架の前には小さな祭壇があって、そこから前から順番に、3人ほどがゆったり座れる長イスが1列に2つずつ、10列ほど並んでいる。
 祭壇の横に、本を取りに来たあの聡二さんと言った男性が、マスクから覗く目で明るく笑いながら、先ほどの作業着の男性や数名の同じような年配の恥ずかしそうに俯く男性たちと話をしていた。聡二さんは、今日は黒っぽいスーツに白いワイシャツに濃い青色のネクタイをしていた。あのポロシャツのときと印象は違ったが、あのときと同じく明るく笑っては上半身を前後に揺らして手を大きく振っている。
 その視線がめぐむに気がついたようで、軽く右手を挙げると微笑んで、周りの年配の男性たちに軽く会釈をすると、めぐむに歩み寄る。
 「よく、きてくれたね。」
 「私、教会のことってよくわからないのですが、お邪魔じゃなかったでしょうか。」
 「全然、歓迎だよ。座って、周りの人を見て、同じように真似をすればいいから。全く緊張しなくてもいいよ。」
 聡二さんの微笑みは、倉庫で見たときと同じだった。それは、あの富永瑛一さん−兄の方の名前だ、めぐむは改めてこっちに来る前に遺品整理の依頼書を確認してその名前を確かめた、そして母の名は、富永多恵さんだった−の常に冷静で構えた無表情とは対照的だった。同じ人から生まれて同じ顔をしているのに、こんなに人は違うんだと、めぐむは不思議に思う。
 「どこでも、座っていいんですか。」
 「好きなところにどうぞ。もうすぐミサが始まるから、楽にしていて。」
 そういうと、聡二さんは、その微笑みのままで祭壇の方に向かった。