『痛みと悼み』 一
第1 闇の中の目
もう、何日、経ったのか。それも忘れた。水も食べ物も無くなった。何も取っていない。それでも、案外、人は生きているもんなんだ、とめぐむは思う。あの雨の日からひと月以上は経っている。もう空腹は感じない。胃や腸が生きたいと残された僅かの存在を示すように、鋭く切り裂く痛みとともに主張する音が下腹に聞こえていたが、それももう諦めたのか微かに動くことすらしない。四畳半の部屋の中は膝を抱えて片隅に座るめぐむ以外の空白を埋めるように闇が深く暗い。締め切った遮光カーテンの僅かに空いた隙間から薄く日が差していたが、それも日が落ちたのか前日の夜と同じく、ゆっくりとその筋は消えていった。
また、夜が来た。めぐむは、ぼんやりとした意識の中から思う。死ぬと決めた訳ではなかった。でも、生きていても、もう意味はないと思った。そんな大それたことではない、価値なんていうほどのことでも。生きるという営みを、生きるという活動自体を、続ける気持ちが無くなった。それだけだった。まるで、自発呼吸に意思の力が必要だとすると−呼吸にそんなことがある訳はないのに−、その意思の力が失われたように呼吸を静かに止める。そんな風にして、生きることを静かに止めようとしている。そう思ったとき、部屋から動かなくなった。まるで、冬眠前の昆虫のように。でも、分かっていた。もう、自分には春が来ない。そして、春を待ち望む気持ちもない。
あれは、いつだったのだろう。生きていくことの力を失った最後。背中を濡らす温かい雨と川の轟音の記憶。放棄する意思も無く放棄し、手放すことに抗わずに手放そうと思った。もう、はるか前のことのような気がする。めぐむは、母を失った。たった一人の肉親。それは、めぐむの人生の源であり、また、葛藤と苦悩の震源地だった。そこから抗うように離れ、近寄らなくなって5年が経っていた。開放されたと思っていたのに知った、孤独な母の死。
「吉野めぐむさんですね、少しお話しがあります。警察までお越しいただけますか。」
着いた警察署で、めぐむの母と同年代らしい四十代半ばの女性警察官に会った。短髪に制帽を被り、柔道でもやっていそうな小柄でがっしりした体を制服で包んでいた。太田早苗と自己紹介したその女性警察官ともう一人の若い男性警察官に付き添われて、対照的に痩せて細身なめぐむは、かつての自分と母の匂いが染み付いている家を5年ぶりに訪れた。俯きながら歩くめぐむの額は物思うように広く、肉の薄い頬と尖った顎に体の奥にある闇を隠すようにそこだけ大きな二重の黒目がちの瞳。その目が、後ろに流れる道路のアスファルトを歩きながら見つめる。秋が近づく季節に合わない、痩せた体の線が浮かび上がるような水色の半袖のワンピースの裾が、歩くたびに足に絡まる。そして、久しぶりに見た古びて小さな2階建の文化住宅。あれだけ抗っていたのに、いざ、母が亡くなった1階の一室の、強めの酎ハイの空き缶が散乱する部屋に入ったとき、違和感と混乱とあのときには気づかなかった匂いで、むせ返った。夏の終わりに抗うような暑さが、締め切った部屋の大型動物の放つようなすえた匂いを夏のカーニバルの余韻のように立ち上がらせまだ踊らせていた。その踊りを指揮するように、部屋の真ん中に黒々とした大きなシミが見える。それは、めぐむが来るのを待っていたように、片手を手を上げていた。散乱したゴミや缶の間で、Sの字に空いた人型の空白。そこに濃い黒と薄い黒と茶のまだらに脂が混じりあい、染み付いた畳を決して離すまいとするかのようにこびりついたシミの跡だった。仰向けに寝転がって右手を上げ、その先に手を伸ばすような人型。それは断末魔に何かを求めて手を伸ばしたままことキレたのか、あるいは幻の訪問者に手をあげて挨拶をしようとしたのか。でも、今のめぐむには、小さな板戸のある玄関から靴置きを隔ててこちら側に立つ自分に、久しぶりに出会えたことに喜んで母が手を振っているように見えた。胃が縮む小さな音が聞こえて、二人の警察官の間を通って外に出た。めぐむは、目の前の路地に置かれた枯れた花の残骸のあるプランターに向かって、胃の中のものを吐いく。でもそれは水のような黄色い胃液だけで、それがプランターの萎んだ小さな黄色い花を頭から濡らす。プランターの置かれたアスファルトの地面が滲んだ涙で歪む背中に、温かい手の感触が伝わってくる。
「お気の毒です。お察しします。」