『痛みと悼み』 五
めぐむは、首だけ振り向いて半分開いたシャッターの方を軽く見る。倉庫の中から見ると、シャッターの外は眩しい光で形もわからない真っ白な世界に見える。
「ああ、あれ。」
男性は、めぐむのそのセリフに、ようやく魔女ではなく人間の女性だったことに安心したように、ひきつりながらもその尻餅のまま見上げて微笑む。
「びっくりした、さっきの清掃現場がちょうど若い女性の部屋だったから、幽霊をそのまま連れて帰って来ちゃったのかと思ったよ。」
そう言いながら、尻餅をついている自分に恥ずかしそうに両手を地面に着くと、エイとお腹に力を入れた声を出して腰を上げ、濡れたお尻に少し顔を顰める。女の人の部屋、清掃?めぐむは不思議に思いながら、男性の立ち上がった顔を見る。丸顔でやはり背丈はめぐむと同じくらいで、小太りのその男性は前屈みにしゃがんで落ちた洗浄ノズルを拾い上げる。再び上げたその顔は、驚いて尻餅をついた恥ずかしい姿を見られた羞恥心よりも、この目の前にいる突然現れたアルバイト募集を尋ねる不思議な女性に興味をもったように見える。
「あそこに書いてある特殊清掃って、なんですか。」
めぐむは尋ねながら、倉庫のなかをチラリと見回す。軽トラックのあるほか、物置やロッカーが数個あり、清掃用のモップや何かの薬剤の入った大きな缶が、物置の前に整然と置かれている。ノズルからまだ水滴が滴り、少し傾斜をつけたコンクリートの床を伝って排水の溝に筋となって流れ込んでいたが、その筋まできちんと整って決まりに従って流れているように見えたのが、めぐむの注意を引く。
「ああ、あれね。」
男性は、めぐむに向き合って、めぐむの背中越しに後ろのシャッターをチラリと見ると、右手の甲で軽く鼻の頭を拭う。
「清掃にね、特別の技術の必要なものを言うんだ。」
「特別な技術の必要な清掃」
「完全な清潔さが求められる場所とか、元に戻すのに特別な方法が必要な場所とかを清掃するんだ。」
「特別な方法。」
「最近は、コロナなんかで部屋の除菌洗浄なんかもあるけど、もっぱらウチは孤独死の現場の清掃とかが多いかな。」
孤独死。その言葉を聞いた瞬間、めぐむの目の前に、右手を上げてめぐむを待っていた、母の姿が染み込んだ黒い畳が浮かび、口の中に酸っぱいものが広がる。足が、勝手に振り返ってシャッターの外に駆け出しそうになるが、特殊な清掃と言う言葉に、めぐむの足は次の瞬間ほんの僅かに踏みとどまる。
「そんな現場に行って、供養をして、ご遺品を整理し、その上で綺麗にして差し上げるんだ。」
「供養をして、遺品を整理して、綺麗にする。」
「そう。今日も、その現場の帰りだったんだ。若い女性でね、何があったのか発見されたときは一人で、食べるものも食べなかったみたいで整った部屋には腐敗するようなものは何もなかった、ご本人の跡を除いては綺麗なものだったね。それで、出たと思って、驚いたんだ。」
恥ずかしそうに男性がまた鼻の頭を手の甲で拭う。めぐむはそれを聞いて、私だと思う。それは、私だ、今こうやっていなければ、私であった姿。血が足元に下がっていく感覚で唇が青ざめていくことが自分で分かる。その女性と私の違いは、ほんの偶然でしかない。そして、特殊な清掃を必要としたかどうかも。
「で、そのアルバイトの募集があの紙。ただ、なかなか人が続かなくてね。アルバイトを募集しても、いつも短期間で辞めてしまう。まあ、キツいし辛いし、匂いもあるしね。」
その声が遠くから聞こえる何かの呼びかけのようでめぐむは車に酔ったようにぼんやりとして聞いている。男性は暗がりのせいでめぐむの表情が見えないのだろう、そのまま説明を続ける。その声を聴きながら、めぐむは思う。さっきから気になっていた匂いは、薬剤のような匂いのほか、何かの動物の匂い−それも大型の哺乳類の腐敗して何かが発酵しているようなすえた匂い−だ。そして、それは、母の部屋で嗅いだものと同じ種類、そう思うとさらに口の中に酸っぱさとそれに加えて苦味が広がり、胃が縮まって胸を競り上がってくるのがわかる。自分の部屋で天井をじっと見つめていた、この世の中から離れて永遠の暗闇に身を置きたいと思っていた感覚が戻ってくるようで、めぐむは僅かにしかし強く首をふり、改めて周りを見回す。
「ああ、匂いね。これはね、お風呂に入らないと取れないんだ。」