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『痛みと悼み』 十六

男性は、後ろから離れて見ていためぐむを振り返ると言った。
 「ちょっと、手伝ってもらってもいいかな。」
 笑顔のギアが一段上がっている。めぐむは黙って小さく頷くと、男性が引き出した段ボールを受け取って脇に逆順においていく。5段の段ボールを3つ退けて、目当ての段ボールにたどり着くと、男性は蓋をしているガムテープを見て、めぐむに確かめる。
 「これ、剥がしていいですかね。」
 めぐむが頷くと、男性は宝物を見つけた子どものように、ガムテープを剥がして上蓋をあける。
 中には、本が入っていた。
 あの女性の部屋には本がラックにひと揃いだけ置かれていた。特段、本に夢中になる人のものという感じはなく、本棚には、最近発刊された売れていると聞いたことがある本が数冊、テーブルに置かれていた会社四季報の過去のものが数冊、それに、なぜか場違いに古びた文学全集が何冊か置かれていた。特にその本は、あのときと同じ、この倉庫の暗がりの遠目から見てもやはり随分古い本のようだった。本を入れた箱の背も古書にありがちの茶色い色が染みて、手荒く扱うと中身ごと解体してしまいそうな状態だった。めぐむは、土の中から発見された遺跡の土器を掘り出すように慎重にそのラックから本を取り出して段ボールに入れたことを思い出す。めぐむにとっては、いつものように、隔たりなくどの物も優しく扱う仕事の一つだったが、男性はその本の姿にとても興奮している。
 「ありがとう。大事にとっていてくれて。遺品の整理でバラバラに解けちゃったか、もう処分もされちゃったかなあと思っていたから。」
 男性はしゃがみ込んだ姿勢で少しだけ顔をめぐむに向けてそう言うと、もう一度段ボールの中身を覗き込む。そして、少し余裕をもって詰められた段ボールの中の背が見える本に手を差し込むと一冊を取り出した。箱に入れられた全集の中で、それだけは頻繁に手に取られたのか、カバーの箱から出された本は他に比べても痛んでいて、持ち主の愛着を示しているようだった。
 男性は、その本を、久しぶりに再会した恋人の顔を、時間の経過にも変わらぬ美しさを確かめるように、目の前にゆっくりと広げ、少し手を伸ばして遠目でみて、それから、香りを嗅ぐように鼻に近づけて、目を閉じる。
 「ああ、匂いがする。」



 男性は、小さく、めぐむに聞こえるか聞こえないほどの声で言う。セミの声が聞こえる時期だったら、決して聞き取れなかったような小さな声だった。
 男性は目を瞑ったまま、祈るようにその本に俯いてじっとしていた。めぐむは、祈りのような仕草を少し離れてじっと見ている。今、この男性は、母親と会話しているのだろうか、そんなことを思い、邪魔をしてはならないと思う。
 「ありがとう。これで大丈夫。」
 男性は、1分ほどの短い祈りような時間の後、その本をカバーの箱に戻すと大事に両手で持って、めぐむを振り返った。
 めぐむは頷く。再び段ボールにガムテープを貼ると、パレットの外に置かれた段ボールたちと共に元に戻す。大事に本を横の段ボールに置いて、男性も手伝う。

 「では、ここにお引き取りになったものをお書きいただけますか。」
 元に戻った段ボールを確かめ、めぐむは、持ってきた先ほどの厚いノートを男性に手渡すと、「誠実社」と刺繍のされた制服の胸ポケットからボールペンを取り出して渡す。男性は、ボールペンを受け取ると、「檀一雄全集 計1冊」と綺麗な横書きで書いて、めぐむにノートと一緒に手渡す。
 めぐむはその字を確認すると、頷いて招くように倉庫の出口に男性を案内する。
 倉庫のシャッターの出口で、男性は振り返るとめぐむに言った。
 「本当にありがとう。兄貴には、遺産はいらないからこの本だけはくれよって言ってたんだけど、何のことだかわからなかったみたいで、今日、全然見当違いの本を送ってくれたんだ。それを見て、もうだめかと思って慌ててきたんだけど、よかった。」
 男性は、その本を両手で捧げるように持ち上げて、そしてめぐむに続けていう。