『痛みと悼み』 六
男性は、捲り上げた防護服から出た前腕を鼻に近づけると軽く嗅いで、それからめぐむを見る。その匂いを嫌悪しているわけではないことが、仕草から伝わる。その姿を見て、めぐむは思う。ああ、この人はこちら側の人だ、この人なら母のあの畳も嫌わないだろう。めぐむは、絶滅危惧の同類を見つけた劣等種のような気持ちで、絆を確かめるように男性に聞く。
「あのアルバイト、私、応募できますか。」
自分で言って、めぐむは驚いた。考える前に、言葉が出ていた。
「え。君が。」
男性は、突然背後に現れた水色のワンピースの女性が、仕事の内容も知らずに応募してくる奇異さに一歩後退ってめぐむの頭の上からつま先まで見る。注意が右手から離れたように手にもったノズルを落とす。軽く高い音が床のコンクリートに響き、その音が天井に当たってゆっくり反射して返ってくる。この倉庫は、思ったより天井が高いんだなあと、なんとなくぼんやりめぐむは思う。
「確かに、力仕事ではないけど、女性の募集は初めてだなあ。キツイよ。」
キツイ。その言葉にどんな意味が含まれているのか、今のめぐむにはわからない。でも、あの黒い畳が浮かび、言葉がすでに出ていた。競り上がる胃の中の塊、何も食べていなくて何も入っていないのに何かを体の外に出そうとする異物への拒絶反応。この拒絶反応のような暗い塊を、めぐむは抱えた。一生背負って行かなければならない、何かの十字架のように。それは、あのとき思わず外に出て吐いたときに、体から出ずに残ったもの。そのために、内部から溶け出すようにそれがめぐむの生命の力をゆっくりと止めようとしている。この固まりが、応募したい、とめぐむに言わせたのかもしれない。
怪訝な男性の視線に、慌てて取り繕うようにめぐむは言った。
「それが、誰かの為になるんですよね。」
誰かの為になる、それは、めぐむの為でもあるのかもしれない。でも、贖罪のような大それた考えはなかった。
めぐむの硬い表情とそこだけガラスのように透き通った不思議なセリフに、男性が嬉しそうなでも眉を寄せて怪訝な顔をする。
「喜ばれるということ?」
「誰かの為になるんなら。是非、やらせてください。」
「そうだね、身内の方は、感謝して頂いている。大家さんもそうかな。」
そして、何かがあるかもしれないとめぐむは思う。私のようでなくても、何かそれぞれの理由で内に秘めたこの黒い塊−それはその人ごとに大きさが違うのだろう、めぐむのようにいつでも何かのきっかけで身を滅ぼしてしまうほどのものでなくとも−を持った人に関わった人たちが喜ぶこと。それは、めぐむが置き忘れた何かと同じ種類のもののような気がする。めぐむは、体の中に、退院してから初めて暖かい血が少しだけ流れ始めたような気がする。誰かのため、めぐむ自身のために。
「はい。お願いします。」
男性は、めぐむの申し出の理由がまだ掴めずに、逡巡するようにしゃがんで右手でノズルを拾う。両手で弄びながらその先のヘッドを見つめる。人手の足りなさと、痩せて華奢な不思議な若い女が突然言い出したことを、当てにして良いのか天秤の両端に乗せて考えている。しかし、天秤がどっちにも振れないことで、迷いに出口がないことを確認すると、諦めの表情を浮かべて、苦笑いしながら言った。
「じゃあ、明日からいらっしゃい。私は、社長の菰田達夫だ。」
社長と言ったその男性は、倉庫の中の建屋に入って机の上を漁る。戻ってきて濡れた手で名刺をめぐむに手渡す。名刺は、薄く灰色に汚れて、菰田社長が手に持っていた端が水で濡れて滲んでいた。
それから1年半が経ち、菰田社長の半信半疑だった目を白黒させて、めぐむは、アルバイトから正社員になっていた。
車が、世田谷の現場に着く。