『痛みと悼み』 七
「ここが今日の現場」
人の背丈ほどの大きな石垣で屋敷の周囲を囲まれ、その上には綺麗に刈り揃えられた仲良く並ぶ淡い緑のマサキの生垣が精一杯手を広げてまだ残る夏を告げている。外から中の屋敷を伺うことも出来ない。生垣の奥からも樹齢の長そうな大きな桜が大きな枝を道路の方に向かって伸ばしている。石垣沿いの少し日陰になったところに車を止めると、めぐむと菰田社長は、軽トラの幌の付いた荷台からキャリーカートを取り出し、その上に道具一式を下す。オゾン脱臭機、サーキュレーター、噴霧器、電動ノコギリ、バール、スクレーパー、どれもそれぞれに重い道具だが力を込めてめぐむは下ろす。長靴や機密性の高いマスクに分厚いゴム手袋が一式入った箱も載せる。この作業も随分と慣れてきた。匂いが強く残っているときは、オゾン脱臭機を動かしながらサーキュレーターで部屋の空気を循環させる。除菌が必要な場合、安定化二酸化塩素を入れた噴霧器で壁などに噴霧する。床の汚れが酷いときにはスクレーパーで剥ぎ取り、それでもダメな場合、電動ノコギリで床材を分断して取り除く。バールもそんな作業のときに使用する。めぐむはもううっすら全身に汗が滲む。
「今日の現場の状態はそんなには使わないとは思うけど、念のためにね。」
菰田社長がそう言いながら車のドアを閉めると、二人は、厚手のビニールの手袋をして、ゴロゴロと重い音をさせてキャリーカートを押しながら緩やかな坂になっている屋敷の周囲を入り口を探して歩く。朝の9時でも−本当は8時には着く予定だったが車が渋滞に巻き込まれて予定より1時間遅くなった−気温は既に30℃近くになっていて、作業着にも汗が滲む。今日の現場は防護服は必要ないと菰田社長に言われて、胸に「誠実社」のロゴが入ったつなぎの作業着に、めぐむは同じ色のつばの長いキャップを深めにかぶり、後ろにくくった短い髪の毛がキャップの裾から少しだけ出ている。
「あれえ、入り口どこだろう。」
社長と二人で、それぞれのキャリーカートをゴロゴロと押しながら、100メートル四方ほどはある屋敷の周りをぐるぐると回る。
「あった、あった、ここだ。」
上がって横に回って下がってまた横に回った四面の最後のところで、重そうな黒い鉄の門扉が、人が一人入れるほど隙間を開けていた。無骨な二人の守衛のように、門扉の両側に人の背丈ほどの黒くなめらかな花崗岩の門柱があり、そこに小さく「富永」と書かれた表札が嵌め込まれている。めぐむは、昔の中学校の校門を思い出し、何かの虫が突然に口に飛び込んできたように顔を顰める。
二人は順番にキャリーカートを差し入れると、緩やかな坂道のコンクリート敷きの斜面を登る。ゴロゴロと音を立てながら20メートルほど上がったところで右に折れ、大きな2階建ての鉄筋コンクリート打ちっぱなしの家が見えて、一人の男性が、木製の大きな玄関扉を開けて待っている。
「困るよ、遅れるのは。」
突き刺すような甲高い声が少し離れたところから聞こえる。苛立ったようなその声は、聞く人にもその苛立ちを感染させてしまう声であることを、話す本人が気づいていないことがめぐむには分かる。
「すいません、富永様」
菰田社長は、何度も小さな体を折り曲げて−そうしても卑屈に見えないのがめぐむには不思議だった、めぐむにはできないことの一つだと思う−グレーの作業帽を取って頭を下げる。男性は、細く背の高い体に吸い付くような、暑い中でも三揃いの濃紺のスーツにピンク色のネクタイをして、ベージュ色のハンカチを白い不織布のマスクの上から口元に当てている。よく動くその右手の甲に浮かぶ血管が男性のイライラを代弁するように時折ぴくりと動く。
「この暑い中で、匂いも酷くてね。」
めぐむはそう言われて、マスクの下から気づかれないように軽く息を吸い込む。しかし、男性の香水の柑橘系の匂い以外は感じられない。めぐむは、キャップ帽を目深に被った目からチラリと男性の苛立ちの源を探るように見る。
「すぐに確認させていただきます。」