『痛みと悼み』 八
菰田社長とめぐむはキャリーカートを押して玄関に入る。男性が振り返って二人の後に続く。そこは、黒と灰色の磨かれた花崗岩のタイルを敷き詰めた、夏のキャンプで家族がテントでも張れそうなほどの高さと大きさのある玄関だった。そこから上り框のところにスリッパラックとスリッパがいくつが置かれている。誰もしばらく使っていなかったのだろう、スリッパは薄く埃を被っているように見えて、めぐむはこの家とその主人の孤独を思う。めぐむたちが入って舞い上がったのか埃の匂いがうっすらするが、それ以外の匂いは感じはない。
めぐむは、上り框の前で軽く顔を上げると耳を澄ます。熊を警戒する注意深い野生の鹿のように、首を動かさずに目だけを静かにゆっくり左右に動かす。家の中は、静かだ。蝉の声は玄関の扉を閉めると、ピタリと聞こえなくなる。完全な防音設備を備えた屋敷。この家の主人だった人−その人が今回の依頼者の母親で遺体で発見された−の、外の世界との関わり方を示しているようで、めぐむは、その意味を考える。自分が選んだことだけを、自分が選んだ方法によってだけ外から受け入れる、そんな風な生活をしていたこの家の主人。
「それでは、ご遺体の発見されたお部屋、私たちが清掃するお部屋の確認をさせて頂きます。」
菰田社長からそう言われて、男性は軽く頷くと口元にハンカチを当てがいながら、部屋の奥に二人を案内する。失礼します、そういうと、慣れた手つきで菰田社長とめぐむも作業用の上履きに履き替えて中に入る。一本の動線の廊下の奥と左右にそれぞれ部屋があり、玄関から入った右手の部屋は洋間の20畳ほどの応接室で、茶色く厚い天板の木製テーブルに、アンティーク風の中身が硬く詰まって重そうな椅子が置かれている。細かい刺繍の布張りが座面にも背もたれにも施されている。テーブルの向こうには、窓を通して庭とさらに向こうに植えられたいくつもの桜や梅の木々が見える。季節ごとにそこに咲く梅や桜を愛でた人だったんだろう。どれも古そうな木だった。手元のテーブルに視線を戻すと、上には埃が薄く被り、しばらく使われていない−それはお亡くなりになる前からだろう、ご遺体は発見されたばかりで死後1週間ほどだったと聞いた−ことを思わせる。めぐむは、高い天井からぶら下げられている薄く埃を被った古風なクリスタル製のシャンデリアを見上げる。シャンデリアが輝き、この下で、主人が許した人だけが許された方法で集う。多分、昔はこの部屋も賑やかだったんだろう。廊下の正面に見えた部屋の方から、菰田社長の声が聞こえる。
「このダイニングテーブルですね。」
めぐむは少し開いている木製の大きな扉の古い真鍮のドアノブを押し開いて正面の部屋に入る。手袋を通して真鍮の冷たさを感じて、改めてこの家の孤独を感じながら中を見る。そこには同じく広いテーブルがあった。明るい白を基調にした薄い大理石の天板テーブルに、8つがけの椅子がまるで白雪姫を囲む小人のようにおとなしく座っている。今のこの静かな室内とは対照的に、昔は、この小人たちが傅く人たちがいて、何人もの人がこの周りを忙しく音を立てて走り回っていたんだろう。大家族が集って食事を取っていたこの部屋と何かにせかされているようなこの男性−その焦りを隠すように口元のハンカチを頻繁に額に当てて汗を拭う−もいたんだろうか。時折、押し当てた額の下で、電気信号の混線のようにまぶたがけいれんする。そのけいれんが、最後のピースなのに形が当てはまらないパズルのように、めぐむの疑問にヒントを与えるようで与えない。
テーブルの一箇所だけが、何かを訴えかけるかのように場違いにズレていた。無音の音の正体のように、そこだけ、バランスが異なる。
「ここで、ご遺体が見つかったのですね。」
「母はそこで、見つかりました。しばらく連絡がつかないので、私が家に来たときに。」
そう言う男性のその声には、抑揚も感情の揺れもなかった。