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ひとりごとを歌でかたる-初雪
一年未満のキャリアながら、とても気に入って歌をつくりはじめた。どうしようもない詩は書くけれど定型にはずっと距離をとっていた。知り合いの師匠さん(勝手にそう思っているだけの)からなんどか歌会に誘われたのだけれど、無理っぽくて、断りつづけていた。短歌のすごさも知らず、定型の定型じゃない自由さも知らず、素で無知だった。そのビビッドな一点集中の魅力と想像の広がりの無限さに肩をすくめてしまう。
丁度一年前位のある時、会社のシニアな先輩がいつもは将棋の話しかしないその人が、地方紙の読者文芸に投稿すると言い、手書きで書いた作品をちらちら見せるようにあるいは隠すように出してきたので、じゃあ一緒にやりましょうかということになって、はがきにニ首毎月真面目に出し続けた。ビギナーズラックというかなんというか、わたしの作品だけが掲載され、くさった先輩は選者の方にあたり始めて、でもわたしは月を経るごとにとても愉しく、掲載されなくても唯一読んでくれる選者の方にとどくと信じ、今に至っている。ひとりごとで十分だと。
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これまで約一年短歌を作ってきて、知らない方が良い、ということはあるかも知れないということに妙な納得感をもっている。詩人でもまったく詩を読まないという人はいる。中也賞を受賞したとある彼は(詩は)読まないと語っていた。わかる気がする。
わたしの読む寺山修司も間違いなくその口だと思う。若年で俳句の全国組織を立ち上げたが、他の作品を読んでないだろう。多分というか確信をもってそう思う。他の作品から得るものがないくらい彼の世界はすでに広く、かつ深さは果てしなかったのだと思う。
寺山の歌もわたしのその時々の心の状態で魅かれる歌が違ってくる。songs(音楽)と同じじゃないかとも思ってる。
いま文学フリマ用の臨時発行号の編集をしている。昨日、町に初雪が降った。集まりつつある原稿作品はいちように素人っぽいけれど、みながみな、新雪を歩いて跡をつける人たち、であることに小さく胸を張る。
知恵のみがもたらされる詩を書きためて暖かきかな林檎の空箱
寺山修司