【小説】霖雨の果てへ⑥

Ⅲ A shadow that wanders in the rain.


 七月中旬。
 長引くかのように予想されていた梅雨が明けた。いつの間にか晴れた天気が続くようになり、梅雨明けが発表されたのだ。梅雨の間は気温もそこまで高くなく湿度を除けば過ごしやすかった体感が一転し、日差しの強さに慣れない日々がしばらく続いた。
 
 そんな中、転機が訪れる。
 母が入院することになったのだ。
 
 いつものように同じ事を繰り返すはずだったある日、母が熱を出した。普段から微熱があったために、最初のうちはそこまで気にしてはいなかったが、熱はなかなか下がらず目もずっと瞑ったまま一見寝ているかの様だった。応答も鈍い。訪問看護師が来て色々と体の様子を診てもらった結果、肺炎の疑いと入院を勧められた。
 私はあまりに突然の事で、「入院」というワードが現実味を帯びないまま、そこまでしなくてはいけないのかと父とも話したが、このタイミングを逃すと今度いつ入院できるか分からないし、やはり詳しく検査した方が良いということになった。もちろん、母自身が一番入院したくはないのは重々承知だが、本人はその意思すら伝えられない状態だった。
 そんなこんなですぐに入院の支度をし、あっという間に母が家からいなくなった。
 状況が一変してからたったの一日足らずの出来事だった。
 私は病院から家に戻ると、朝から夜遅くまでずっと電気とテレビをつけっぱなしにしていた母の部屋が、闇と静けさに支配されているのを見て何とも言えない感情になった。

「この部屋、こんなだったっけ」

 私はそうしてしばらくの間、母の部屋の入口で空っぽになったベッドを突っ立って見ていた。
 
 母が入院して数日。
 私は時間の使い方に困っていた。毎日のルーティーンがなくなったからだ。
 朝、自分の体に鞭打って起きなくていい。
 母を車椅子に乗せなくていい。
 母を洗面所やトイレに連れて行かなくていい。
 何時間もかけて、ご飯を食べさせなくていい。
 今まで母に費やしていた時間がすっぽりと無くなって、ほとんどの時間を自分にあてられるのは、ものすごく体が楽だった。だから、好きな時間だけ寝て、朝や昼のご飯は適当に済ませ、何をしようか少し考えた後、数年前に録画していたドラマを観る。それが終わるとパソコンのインターネットで動画を漁ったり、昔はまっていた漫画を開いて眺めたり。また、毎日来ていた訪問看護師や介護ヘルパーといった人たちが来ないため、掃除も洗濯もせずに、とりあえず父の分を含めた夕飯だけは作るようする、という感じだった。

「はあ~。すっごく楽……」

 私はベッドの上で極楽を噛みしめた。
 静かで何もしない時間。父も仕事で日中はいないから誰にも邪魔されない。
 とても開放的で自由だと思った。
 私はそのまま、そっと瞼を閉じる。
 だがやはり、時間を持て余しているのは確かだ。ずっと寝ているわけにもいかない一方で、起きていてもやることがなかった。

「聖くんが言ってた通りだ」
 
 前々から想像はしていたが、何も持っていない自分がまざまざと目の前に突きつけられているようで惨めに感じ始めてきた。   
 みんな、この時間は働いているのに……。
 普段は介護に明け暮れて少しはこの気持ちを紛らわせていたけれど、やはり就職していないことが大きく心に圧し掛かってくる。
 母親の介護をしていることを友達に話していないとはいえ、就職せずに適当にダラダラ過ごしている今のこの体たらくは到底見せられないと思った。  
 昔、あれだけ勉学に打ち込んで良い成績を取り、周りから将来を期待されていた姿とのギャップがありすぎて私のプライドが私を暗闇に押し込めている。
 介護をしていることは恥ではないのだと頭では分かっている。
 それでも私は一方的に劣等感を感じ、周囲をブロックする。心の内をひけらかさない。今のところ「聖」以外には。
 何も持っていない焦燥感を抱きつつも、今まで自分はたくさん苦しんで頑張ってきたのだから、こういう時は休んでもいいんじゃないかと自らに強く言い聞かせる。
 そのような心の葛藤を悶々と繰り返しながら、次第に手を伸ばしてくる睡魔に抗うことなく私は身を任せた。
 
        ♦
 
 特に何もしていなくても一日一日が早く過ぎていく。
 夏真っ盛りのこの日、私は日焼け対策を万全にしてから、母の着替えを届けに病院へと足を運んだ。母が入院している病院はローカル線で二駅離れた場所にあった。中途半端に離れている。バスでも行けるに行けるが、アクセスが不便で余計な時間がかかるため、電車に乗ることを選んだ。
 お昼前の時間を選んで乗っているからか、人は疎らだった。すぐに目的地に着くけれど、私はすかさず椅子に座る。荷物の袋を両手で抱えながら俯いて、ぼーっとしながら揺られていた。
 母の病院に着くと、面会時間を記入した後、入館証を首から下げ病室へ赴く。病室の扉の横には母の名前のプレートが掛かっていた。前に母が大腿骨を骨折した時にも思ったが、このプレートを見る度に母が入院しているのだと実感する。

「お母さん」

 私は、部屋に入ると同時に呼びかけた。

「お母さん?」

 もう一度呼びかけたが、ただ体が揺れているだけで母は声を出さない。体が揺れるのは本人の意思ではなく病気の影響だ。よく見ると、母の体には色んな管が繫がれていて、鼻からは酸素が送られているようだった。
 私は一瞬言葉を失った。
 母の姿に目が釘付けになって体も動かない。
 ドラマでよくある演出が、自分の母親でそうなっている現実に対し少なからずショックを受けたのだ。

「……お母さん、来たよ」

 私はたどたどしく声を出して荷物を棚に置き、母のそばに寄って顔を覗き込む。母は目を開いて確かに私を見ているが、何も言わなかった。いや、言えなかったのだ。

「声、出ないの?」

 口は僅かに動いているが、音が出てない。入院前にはもう既に言葉を明瞭に話せなかったものの声は出ていたはずが、入院僅か四日目で母は声が出せなくなっていた。正確には声を出す力、筋力が弱って出せなくなったらしい。

「嘘でしょ?」

 自分でもここまでとは想像していなかった。
 担当医の話によれば、血液検査で肺に炎症がある数値が認められ、レントゲンにしてもやはり影があったため治療で点滴を打つことになった。炎症が治まらない間は口から食事ができない。体も無理に動かせられない。体力も筋力も落ちるのは当然のことだった。
 今は肺炎の方を治すことが第一で状況的に仕方ないのは分かっている。でもこの先もっと衰弱するのではないかという心配が尽きなかった。

「何か話せる?」

 そう聞いたがやはり音は出ない。入院した結果、僅かな言葉でも話せなくなった状況を到底受け入れられない私は、肺炎が落ち着いたらリハビリでも何でも、少しの単語でもいいからまた話せるようにしようと思った。いや、そうしなければいけなかった。
 これは意思疎通の危機だ。

「今は話せないかもだけど、またリハビリとか訓練すればなんとかなるよ」

 ひとまず、母にも私自身にもそう強く言い聞かせるしかなかった。

「着替えとかタオル、ここに置いておくからね。ティッシュも持ってきたから」

 私は母が見えるところにティッシュを置く。その後しばらくの間、軽く話をして「また来るね」という感じで病室を出た。
 来た時と同じように時刻を記入し、入館証を返却ボックスに入れる。そして病院を足早に出た。
 帰りの電車に揺られながら、私は声を殺して泣いていた。自分でも抑えが効かないくらい急に涙が溢れてきた。
 外で泣くのは幼少期以来だ。誰かに見られるのは嫌だったが、幸い誰も気づいていないようだった。それでも涙が止まらないものだから必死に無音を貫くしかない。
 周りの景色も音も無機質で、いつも通り運行している電車に、乗車している人たち、何もかもがぼやけていてとにかく早く家に帰りたい、家に帰れば何にも気にせず思い切り泣ける、そう思った。
 
        ♦    
 
 淡い光の中で、私は母と車に乗っていた。
 母が運転して、どこか遠くへ出かけているようだ。私はハンバーガーショップの紙袋を手元に抱えて、母と二人して笑っている。何を話しているのか、どこに行こうとしているのか、よく分からないぼやっとしている空間でも、私はどこか温かい気持ちを感じていた。隣にいる母は四十代の頃の見た目だが、顔はよく見えない。
 私はこれが夢だと気付いた。
 なぜなら、母は車の運転ができないペーパードライバーだからだ。
 私が生まれてからは一度も運転したことが無いと昔言っていた。
 そんな母に対し「免許取るのにいくらかかったの?もったいないね」と私は子どもながらにお金を気にしていたのを覚えている。
 私がお金を無駄にすることをひどく嫌う性格になったのは、幼い頃から母に言い聞かされてきた言葉にあった。それは、「うちは貧乏だから」という一言で、それを事あるごとに言われてはお金を気にして生きるようになるのに時間がかからなかった。
 そう考えると、私の人格に母が大きな影響を及ぼしているのは当然のことだ。
 
 夢は「夢」と気付いた時点で既に消えかかっていた。
 その僅かな時間を失いたくない気持ち諸共、全てが消えていく。私の願いは届かない。どうすることもできない。
 私はすーっと覚醒した。あっという間だった。
 目が濡れていることに気付き、一層切なさを感じた。時計を見たら、まだ朝六時過ぎで起きる時間ではない。
 無職かつ一時的に介護から解放されている私は、時間を気にせず過ごせる快適さを身に染みて感じている反面、それ以上に入院している母の様子が心配で一日の大半を考えずにいられなかった。意図的ではなく、無意識に母のことを考えてしまっていた。そしてその度に涙が溢れ出てくるのだった。
 
 本当に参った。
 身体的には楽になったが、精神的には介護していた時よりしんどいのだ。
 冷静になって考える時間があるせいで、自分が今まで母にしてきたことが申し訳なくて申し訳なくてたまらない。
 
 ある時、暇過ぎて自分の部屋の片づけをしようと色々漁っていると、高校生の時に人生で初めて手にした携帯電話が出てきた。
 だいぶ前のものだったが少し充電すれば電源が付いた。
 映ったのは当時流行っていたキャラクターの待ち受け画面だった。それだけでものすごく懐かしい感じがする。と同時に、それだけの年月を経てしまったのだという虚しさがあった。
 画像フォルダを見ると、まだまだあどけない自分が写っている写真がある。その他、お花見した時の友達との写真や、クリスマスケーキの写真、今はもうこの世にいそうにない野良猫の写真があった。メールフォルダを開くと、母とやり取りしたメールがたくさん残っている。
 受信フォルダを一つひとつ開いて見てみた。
 
 十月二十三日 十八時三十五分
―何時に帰ってくる?メールして。
 
 十月二十三日 十八時三十八分
―了解!気を付けてね。
 
 十月二十七日 十七時十二分
―仕事終わって今駅だよ。何が食べたい?
 
 十一月十八日 十四時八分
―学校って明日休み?河木くんのお母さんから聞いたんだけど。とも、ちゃんと言わないと!(怒)
 
 
 三月二十九日 十時十分
―もう動物園着いた?写真たくさん撮って後で見せて。ペンギンは絶対ね!
 
 私はメールに書かれてあった一言一句全てに母を感じた。これだけあるメールの一つひとつに、母と娘の、当たり前だけど貴く今となっては大切な日々の欠片が散りばめられていた。

「こんなに優しかったっけ」

 昔からよく親子喧嘩をしていたし、母は厳しい人だったから怒っている記憶の方が多い気もしていたが、母が送って来たメールの大半に娘への優しさや心配が感じられ、私はまた涙が零れてきた。
 
 六月二十六日 十六時三十六分
―試験ご苦労さまでした。無事終わって良かったね。
 
 七月八日 十七時四分
―ケチャップ買ってきて!今日はともの好きなオムライスだよ。
 
 十月十日 十一時十七分
―欲しいなら買えば?お金いくらかかるの?お母さんが出してあげるから。
 
 十二月四日 十三時二分
―これからどんどん寒くなるってテレビで。だからコートの方着て行けば良かったのに!
 
 二月七日 二十二時三十四分
―いろいろ助かるよ!ともに感謝だね。いつも、ありがとう。
 
「……」

 私は、画面をじっと見つめたまま動くことができない。
 深い後悔と罪悪感。
 そして恋しさ……。
 
「……っ!……っ!」

 何度も握りこぶしを思い切り太ももに打ち付ける音と、床にポトッ、ポトッ、と水滴が落ちる音以外、何もない時間が流れていた。

 以前の、病気になる前の母の姿が段々と蘇ってくる。
 もう思い出せないと思っていた、母の姿が。
 ここ数年で徐々に変わっていった母の姿と生活に、私自身惑わされていたのかもしれない。
 母は、今も昔も変わることない、私の大事な存在だった。
 目の前の日々が一杯いっぱいで、母の苦しみに寄り添えていなかった。
 いつまで続くのだろうと嘆きながらずっと変わらない介護生活を送っていたが、母の肺炎は時間の経過とともに母の病気も確実に進行している証であった。

「ちゃんと、進んでいるんだよね……」

 時間も命も有限であると、改めて思い出すことになった今回の母の入院。
 私自身の体を休めつつ様々なことを客観的に捉えられる機会にはなっているが、ここからしばらく私は自分を責め続ける日々を送ることとなる。
 
        ♦
 
 それから数日、数週間経っても母の容態はなかなか良くならなかった。
 肺から影が消えないのだ。熱も下がってきて安定してきたかと思えば、再び上がるという繰り返しで一向に退院の目途が立たない。
 私と父は何度も足を運んで母の様子を聞いては一喜一憂したり、母は一日の大半をベッドの上で過ごし、なかなか動けないが辛うじてテレビの方を向いて観ることができたため、何枚ものテレビカードを消費したりして時間が過ぎて行った。
 これからどうなるのだろう。
 もしかしたら、もうダメなのか。
 私は母に死が訪れることに対し、心の準備ができていなかった。
 あれだけいなくなってほしいと願っていたが、今となってはそう思わなくなっていた。
 母への後悔が大きすぎて自分で自分を許せず、このまま死なせてはいけないという思いが強かったのかもしれない。
 担当医は、この先肺炎の病状が良くなって退院できることになったとしても、今までのように家でケアをする大変さや難しさ、突然何が起こるか分からないリスクなどを色々伝えてくる。
 根本的に母が患っている難病がある限り、手の施しようがなく、長生きを夢見ることはできないのだ。だからこれからは、いや「これまでも」だったかもしれないが、病気が治らないという現実の中で、命を全うする、命をもたせる、そういうことだった。
 母を退院させたい気持ちはある。
 だがそれと同時に、これまで以上に気を張る介護、ましてや医療的ケアを家族がやるということに、やっていけるか不安しかない。どれだけ大変になるのだろう。
 一人の人間の命が自分の手に懸かっているようなものだ。
 今までのように訪問看護を利用しつつ、家族が全面的にケアをする。ケアというのは容態が急変しないかを「見守る」という二十四時間体制のものになるようだった。
 ひっきりなしに痰も吸引しなくてはならない。
 母は気管切開を断固拒んでいて、今までは口から吸引していたものの、これからは吸引の管を鼻から入れ気管に到達させ、確実に痰を吸引しなければ命に係わる。それが医療的ケアを在宅でやるということだ。
 今後は父にも今以上に協力してもらわなければいけないが、父には仕事もある。
 けれど母は、父も含め男の人にケアされることを嫌う。女性なら、女性に  色々やってもらいたいと思うのはよくあることだが、そこが大きなネックだ。だからあまり父には期待していなかった。
 となると、残ったのはただ一人。私自身だ。
 当然のように私しかいない。私がしっかりしなければならない。
 どういう生活が待っているか分からない。
 けれど、想像する限り今までで一番しんどいんじゃないか。その期間が短いのか長いのか、知りたくない気持ちと知りたい気持ちの半々だった。
 どうあれ、私は後悔してきた分、母に何かしらの形で返したい。
 本気で母が幸せであってほしいと願っている今の自分なら、何があろうとやらなければと、やるしかないんだと思う他なかった。
 
        ♦
 
 八月に入って夏真っ盛りの季節。
 例年通りかそれ以上の猛暑が続く。テレビをつければ熱中症や暑さ対策の内容ばかりが流れ、天気予報は晴れの日がこの先もしばらく続くことを伝えている。
 私は何も用が無いし、外に出ても暑いだけだからずっと家に籠っていた。
 それでも父に「少しは外に出ろ」と言われ、どこかに出掛ける気分ではなかったが、電車に乗って前は好きだった博物館に行ったりした。だが、以前ほどのワクワク感がない上に展示物にあまり集中できなかった。
 こうして気ままに外に出られる時間があるだけでも幸せなことであるはずなのに、それすら無駄にしている自分に嫌気が差した。
 でも、どうすればいいのかも分からない。
 それに貯金もないため何かをするお金もない。無意味な外出で体の疲れと無駄な出費を思い知った私は、とにかく家で一通り家事をやって食事の買い出し以外で外に出ようとは考えなくなった。
 その分時間は余るが、特に何かしたいわけでもない。ただ頭の中には、母のことと、この先どうやって生きていくのだろう、の大きく二つがずっとこびりついていて、心から気が休まることはなかった。
 将来のことを考えても今さらやりたい仕事も無いし、正直働きたいとも思わなくなってしまった。
 でも働かないと生きていけない。
 それじゃあ、別に生きていかなくてもいいんじゃないか。そういう風に考えてしまう。頭の中でどの線を結んでも最後にそこに辿り着く。やがては、まだ母が生きていてこの家に帰ってくる可能性がある以上、こんなことを考えていてもしょうがないと思い、将来への不安を必死に掻き消すようにあまり興味もないテレビ番組を観て「今」に没頭しようとしていた。
 
 そうこう過ぎていく日々の中で、ある時私は風呂の湯船を掃除して久しぶりに浸かった。全身が温かさに包まれ体の力がふっと抜ける。
 母がいる時は私の生活の全てが時短・効率化を重視していたことと、常に体に疲れが溜まっているから余計な動作をして手間をかけたくない思いから、今までずっとシャワーだけで済ませていた。もしくは、シャワーすら浴びない日もよくあったが、こうして実際に湯船に浸かると否応なしに肉体が心地いいと言っている。
 私は背をもたれて瞼を閉じ、微動だにしない。
 壁に掛けたシャワーからだろうか。
 ポタ、ポタ、と一定のリズムで雫が落ちる音がしている。しばらくその音に身を委ね、静寂の時間の中で何も考えずにいられればいいのだが、やはり思考を止められないでいるのが私だ。
 
 ふと聖のことを思い出した。
 母の急な入院からは一度も会っていない。最後に会った時に一応、「何かあれば」と連絡先を交換したにはしたが、一度も連絡していなかった。
 なかなか気安く連絡できないように感じていたが、それでも私にとっては一つの安心材料になっていた。
 少しでも自分の事を知ってくれている人がいる、どこかでそう思っていたい気持ちがあった。
 聖は今、中学三年でこの時期は夏休みの真っ最中だ。
 だから、学校帰りに出くわすことはないだろう。
 連絡すれば会えるかもしれない。聖は優しいから。
 話を聞いてくれてちゃんと寄り添ってくれる人。
 でも、聖のかけがえのない時間を、私を心配することに使って欲しくないと思った。
 今を大事に生きて欲しかった。
 たくさんお互いに話をしてきて今さらなことだが、私は私で彼に依存しない方がいい。そう考えていた。
 こういう時に会える友達もいないのは何とも悲しいことだが、疎遠にしてきたのは自分の方なのだから仕方がない。
 本当の友達ってなんだろう。
 二十四年間生きてきた中で一人もできなかった。
 だからこそ、聖の存在が大事なのかもしれない……。
 そんなことを考えつつ私は火照った顔から手で汗を拭い、時計を確認する。浴槽から出していた両腕を湯に沈め、顔ギリギリまで浸かってしばらくしてからやっと外に出た。
 
        ♦
 
 別のとある日。
 母の見舞いに病院に行っていた。
 この日の母は熱が下がっていたものの、まだ点滴に繋がれていた。
 あれから一層やせ細り目の付近が窪んで骨が浮き出ている。腕も足も骨と皮だ。
 この感じ、以前病院で最期を迎えた祖母の姿と重なって見えた。祖母は母方の祖母で、アルツハイマー型認知症を患ってから幾年月を経て、四年前、霊山へ旅立った。
 もともと小柄な人だったが、最期は本当に小さかったのを覚えている。母も同じく小柄な人で、やはり肉が落ちるとさらに小さくなったように感じた。そのことでまた、私の目から涙が出てきた。
 私が涙を隠しきれずにいるとそれに気付いた母もすぐに泣いてしまった。
 この病気になってからだかはっきり分からないが、昔より母は感情の起伏が激しく涙脆くなっていた。少し感情が揺さぶられただけで、泣いてしまうのだ。
 それが嬉しいことでも悲しいことでも、テレビを見ながらもよく泣く。テレビと言えばバラエティ系やニュースを好んで観るが、驚くことに、昔は絶対に見ることがなかったアニメ番組を最近は見るようになっていた。
 病気の影響で幼児化しているのだろうか。母の脳が明らかに変化していた。
 
 私はそんな母の様子をみると幼子のように感じる時もあり、もう母として何か頼ることもできず、甘えることもできず、逆に私が母親かのように役割を果たすようになった気がしていた。
 
 相変わらず話すことができない母だが、私が顔を見せに行くだけで大きな安心感があるのだろう。目をまん丸に大きく開いて私の話を一通り聞いていた。
 時間はあっという間に経ち、私はそろそろ帰ろうかと、帰り際にテレビをつけてチャンネルを合わせてあげた。

「これでいい?」

 つけた番組はお昼からやっている情報番組だ。母はとにかくテレビをつけて欲しいタイプで部屋が静かになるのを嫌う。だから家にいる時もほぼ起床から就寝までずっとつけている。

「この時間だと他は特に面白いやつやってないから、これつけていくね」

 そう言って母の布団を少し直していると、ちょうど看護師が部屋に入ってきた。

「向田さん、吸引の時間ですよ」

「あ」

 せっかくつけたテレビを私は消した。痰の吸引はなかなか気管に管が入らず、結構な時間がかかるからだ。

「お母さん、ちょうど来たからもう帰るね。また来るから。大丈夫、またすぐ来るよ」

 私はそう声を掛け、看護師に「よろしくお願いします」と告げてから病室を後にした。それから帰り道、しばらく歩いている間母のまん丸のまっすぐ私を見る目が頭から離れなかった。

「早く、退院できないかな」

 心が苦しい。その一点に尽きる。
 少しでも母が穏やかでいられるように、どうにかしてあげたかった。
 でもどうにもできない。自分はそんなのばかりだ。
 人生、望み通りになることの方が稀なのは分かっているつもりでも、実際にそういうものだと割り切ることがなかなかできない。
 
 私は帰りにいつも通り買い物をして自転車の籠に買い物袋を入れた時、ふとあの公園に寄ってみようかと思い立った。
 時間は午後三時前。
 いつも公園に寄る時間より早い。
 どうあれ聖は夏休みだから会えるとは少しも思っていない。ただ、息が詰まると足を運びたくなるような場所だった。
 
 太陽が強い時間帯。蝉の声も大きい。だが、それに負けないくらい元気な子供たちが遊んでいた。
 あまりの暑さに辺りを見回し木陰を見つけ、咄嗟に自転車を押して行った。
 公園には子供たち以外誰もいなかった。
 この暑さでは当たり前だし、私も長居するつもりはない。いつも座っていたベンチが太陽に照らされていて、あそこに座るのはよくないとすぐ分かる。
 少しの間園内を眺めていると、初夏に彩っていた紫陽花たちは色褪せて枯れているものもちらほらあった。

「紫陽花、か……」

 聖はどうしているのかとつい考えてしまう。
 もしかしたら、もうこのまま二度と会わないのかもしれない。
 それは十分ありえることだ。なんだかんだ学生は忙しいのだ。やりたいこと、やらなくてはいけないことも色々ある。完全に今の私と対照的な存在だ。
 昔を思えば、早い時間に起きて準備して学校に行っていたことまでも、今の自分じゃ無理だと思うし現役に対して感心すらしてしまう。
 一方で、やることが多そうで少し羨ましい感じもした。ただ学校に通うだけで時間が過ぎていって、当時はそんなこと思わなかったけど充実していたのだと今なら分かる。「若い」ということは、それだけで輝いて見えるようだ。
 そんなことを考えつつも、大人になった私は別に学生時代を後悔しているわけではない。あの頃はあの頃で、ちゃんと精一杯やっていたと思うからだ。例えその時に戻れるとしても同じことを繰り返すだろう。
 ただ、その先に待ち受けていた現実がこうだっただけ。だからこそ虚しくて堪らなかった。
 もし、母が病気じゃなかったら。
 もし、介護をしなくてもいい状況だったら。
 そう考えずにいられたらどんなにいいだろう。
 切望に際限がない。
 ここまで生きてきても、その無意味な「もし」に囚われている私の頭を殴ってやりたかった。
 
 私は公園をあとにした。
 子供たちは水風船を互いに投げ始め、声高く叫びまくっている。日差しが強すぎてその姿が見えない。段々と声が遠のいていく。
 いつまでもここにいると、降り続く雨の中をただ一人彷徨う影となった私自身が霞み映しだされていくようで、早くどこかへ離れたい気持ちに駆られた。
 
        ♦
 
 八月の盛りを超え、時間だけが刻々と過ぎていく。
 空が綺麗に晴れ渡り、雨はなかなか降らない。
 
 私は買い物にすらあまり行かなくなった。
 父の分の夕飯を作る日は家にある食材でなんとかなったし、父が夜勤で家にいない日は、夜何も食べずに過ごすこともあった。ずっと家にいるせいかそこまで空腹に苦しむことはない。
 だが私の体は忙しいわけでもないのに疲れているようだった。無気力で何もする気が起きない。
 それでも私はずっと葛藤していた。
 介護があってもなくても、本当の自分はもともとこういう自堕落な性格で昔の方が何かと無理をしていたのではないか、と。
 それとも社会との関わりが無くなったことで心の中の灯が消えたかのような精神状態になってしまい抜け出せないのか。
 私は本当の自分が分からなくなっていた。
 何もかもがどうでもいい自分と、今までのような真面目で完璧主義的な所があった自分の瀬戸際で右往左往している。
 正直な気持ちとしてはどっちでもいたくない。
 この、今ある時間を怠惰に過ごし無駄にしてしまっている罪悪感がある一方、いつまで自分を鼓舞して生き続けなければいけないんだろう、という真逆の感情の中での葛藤だった。
 
 私は楽に生きられない性格だ。
 何も考えずにただ生きられない。
 
 それに、あれだけ介護から離れたいと思っていたのに、いざ母の命が危ぶまれると私は自分の存在価値まで危ぶまれるような感覚になっていた。介護一色の生活を送ってきたからか、介護をしなくていい状況に心がついていかない。
 自分には何も残っていなくて不安だ。そう感じていた。
 
 現実にまだ母を失ったわけではないが、母には私が必要で、私には母が必要で、存在価値、生きる意味や意義というものにお互いに縋りつく共依存の関係ではないかと薄々気付いていた。
 とは言え、母が帰ってきた後のことを考えると、それもそれできつそうでなかなか覚悟が決まらない。覚悟なんてなくともやらなくてはいけないのだが。
 揺れ動く心が煩わしい。
 ただ安穏に生きたい、それだけを願っていた。
 
 数日後の午後、冷蔵庫に食材がなくなった。
 この日は父も帰りは遅いが夕食を食べるとの連絡が入り私は憂鬱な気分になっていた。明日だったら、母の見舞いに行った帰りに買えばよいが、本当にタイミングが悪い。回避する方法はないかと何度も台所を見て回ったが使えそうな食材が無く、無駄な足掻きに終わった。
 この状況だと買い物に行くことになるだろう。
 億劫な気持ちをなんとか外出できるまでに引き上げなければならない。
 私はちょっとしたことで結構なエネルギーが必要になっていた。外出へのハードルが高いのだ。
 夕食のメニューをどうしようかとインターネットで「夕飯 簡単」というワードで献立を色々検索した挙句、結局アジの干物と切り干し大根の煮物に決めた。
 食欲がない。ゆえに食べたい物もない。
 だが私は無理やりにでも頭を働かせ、買うものを粗方決めて支度をした。
 
 この日は木曜日。
 炎天下を避け、夕方頃に出て行った。
 暑さに疲弊している人たちが今日も街を行き交う。
 町のスーパーは来客数が多い割に店舗内が狭い。だからうろうろ迷って悩みながら歩いているとよく人にぶつかったり邪魔になったりする。私が行った時間は夕方の混む直前の時間帯で、手早く買い物かご片手に会計を済ませた。
 
 店を出ると、再びの暑さに堪える。

「っつ!」

 ふと手を置いた自転車のサドルがものすごい熱さだった。
 歩道の方を見ると、部活帰りの女の子たちがタオルでパタパタと顔を扇ぎながら笑って歩いている。私は自転車に跨った。
 
 自転車を漕ぎ始めるとなんとなしに、またあの公園に向かってしまっている。
 それは私にとって癖になっていた。
 この暑さの中、暇つぶしで公園に行くのではない。やはり私は心のどこかで聖に会いたいのだ。
 こんなことをするならいっそ連絡すればいいのだが、そこまでの気力がないのも事実だった。例え低い確率でも偶然会えたらそれでいい、そう思っていた。
 公園は家への帰り道からは遠回りで、暑い中ペダルをこぐ足が重い。
 普段からの運動不足がたたり息遣いが荒くなっていた。
 ハンドルを握る手に力がこもる。
 
 ただ公園に行ってみるだけ。いつものように、そこで時間を使おうとは思っていない。
 期待するだけ無駄なのに、それを抑えられない自分がいる。
 私は公園のすぐそばにある信号で止まった。
 いつもこの信号が青になる瞬間を待っている時に一番心拍数が上がる。公園の外側の植木越しからはベンチがある所は見えない。
 すぐ青に変わるのに変わってほしくないと思った途端、信号が切り替わった。
 そして私はすうっと息を吸い、足をペダルに掛けたのだった。


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