【小説】霖雨の果てへ⑤
聖とはそれから何度か公園で会うようになり、お互いの話をたくさんした。
同じ立場を経験した共感者がいるという充足感が私の心の支えになりつつあった。歳は離れているものの、それを感じさせない聖の落ち着いた雰囲気が、私が自分を偽らずにありのままでいられることの助けになっていた。
「聖くんの話、聞けて良かった」
私は聖と出会えたことがこれほどまでに自分にとってありがたいことなのかを痛感していた。聖は少しはにかみながら満面の笑みをこぼした。
「そう言ってもらえて僕も良かったです。あの時、巴美さんに声をかけて。まさか、自分と同じような経験をしている人だとは思わなかったけど。すごい偶然ですよね」
「私も同じこと思ったよ。若くして介護している人、全然周りにいなかったから。すごい孤独だった。でも、自分が知らないだけで意外と結構そういう人いるのかもしれない」
私は、自らが介護をしているということを、何の気兼ねなしに話せる社会になることを願っている。相手に共感されない、分かってもらえないほど辛いことはないが、自分と同じように苦しんでいる人を今よりも見つけやすくなると考えたのだ。
その中でも聖との出会いは奇跡に近いものだった。
「私も、まさか中学生の男の子に話し掛けられるとは思っていなかったけど。生きていればこんなこともあるんだね。聖くん、お祖父さんの昔話に出てきた、親切な外国人と同じみたい」
「あぁ。その話、ずっと聞いて育ってきたんで。自分では全く意識していなかったけど、じいちゃんの教えが身に染みてたのかもしれないですね」
聖は、少し目を伏せて何かに思い耽っているようだった。
そして一瞬間を置いてから、
「僕も、心のどこか誰かに聞いて欲しかったんだと思います。家族以外の誰かに。相手が同じ立場の人だと、こうもすらすらと言葉が出てくるものなんですね。昔の兄ちゃんもこうやって誰かに話して、分かってくれる人がいたら良かったのに」
そう言った。
「そうだね」
私は聖が度々話してくれる兄のことを少し想像してみる。その人が介護していたのは十代から二十代にかけてだ。
「もし、私が聖くんのお兄さんと同級生だったら。いたって普通の中学生、高校生だった私は、その時のお兄さんが同じクラスにいたとしてもその状況にちゃんと気付いてあげられる自信全くないや……」
「それはそうですよ。兄ちゃんが言わない限り気付く人なんていないんですから」
「それに私はこの状況になるまで、そこのところ何も考えずに生きていたから。まさか自分がこの歳で介護することになるなんて思わなかったし」
「人生何が起きるか分からないってことですね」
「……聖くん。やっぱり大人びてるよね」
私がそう言うと、聖は「そうですか?」と言いながら続けた。
「誰しもがいつどんな状況になるかなんて、分からない。介護はいつ始まってもおかしくないのに。みんなそれが遠い存在としてしか認識していない。自分には関係ないんだと」
「うん。でも普通そういうことは自分がその状況にならない限り、考えることはないからね。昔の私みたいに。残念だけど、それを共感してほしいっていう方が難しいのかも。若いなら尚更」
私の言葉に、聖は静かに同意した。
「僕の場合は、小さい頃からそういう家族の状況があって……。少し大変だなっていう感じはあっても、この生活から逃げたいとか、誰かに助けてほしいとかそういう感覚があまりなかったから、母さんのこととかを友達に話そうと思ったことはないですけど。うつ病が何なのかも最初はよく分からなかったし。あ、でも一度だけ、兄ちゃんからは『母さんがうつ病であることは誰にも言うな』って言われたことがあって」
聖は続ける。
「それ言われた時はなんで?ってよく分からなかったんですけど、段々、色々察するようになってきて」
私は色々察するようになった小さな聖を思い浮かべた。それはとても、胸が締め付けられる姿をしていた。
「そっか……。普通に『うちの親うつなんだ』って言えないのは分かるよ。聖くんのお兄さんの気持ちも」
「そうです。そういうのもあって母さんのことは話せなかったし、じいちゃんが認知症になった時は、その時が僕の中で一番大変だった時期なんですけど、ある程度状況が分かるようになった年齢になっても、わざわざ誰かに家族の事を話すっていう発想自体がなかったですね」
心なしか聖の言葉が沈んでいるように聞こえた。
「それは分かる。聖くんの場合は子どもだったからっていうのも大きいだろうけど。私もわざわざ誰かにうちの事を話すとかは……、ね。実際に話そうかすごく悩んだ時もあったけど、それ自体ほんと最近になってからで。でも話すことで何かが変わるわけでもないし、前にも言ったけど、自分のこの苦しみを理解してもらえるとは思えない部分の方が大きかったから。だからこの状態が余計に苦しいのだと思う」
私は顔をしかめる。
聖は頷き、「あと。思うところがあって……」と前置きした後にこう続けた。
「例えばなんですけど。子どもが家族の介護をしていたり、病気だったらケアしたり。それで自分を犠牲にしている風に他人には映って『可哀そう』だとか『親は子どもに何させているんだ』とか批判されることもあるけど。その親だって好きでそうさせているわけじゃない。現実的にどうしようもなく助けが必要で、子どもも助けになりたいからやっている事実もある。親だって辛くて辛くてしょうがないのに。ケアされる側もケアする側もどっちも辛いのに。外野でとやかく勝手に言っている人たちは、介護をしたことがないのか、そういう状況になったことがないのか。実際にその状況になったら……、その時に叶えられる選択肢が限られていたら、とにかくやるしかないんですよ」
聖は小さな溜息をつく。
「それに介護は『えらいね』とか『すごいね』って軽く美化されるようなことでもない。それだけの責任を伴うものだからです。僕が思うのは、家族に対して相当なケアをしていてすごく大変だし誰かに認めて欲しい気持ちがある一方で、『えらいね』『可哀そう』って簡単に片づけないで欲しい。そういう他人から掛けられる言葉とは次元が違う、なんて言うか、介護の現場って複雑な状況なんですよね。だから尚更、人に理解を求めづらいのかも」
「なるほど……」
誰かに分かってほしいという気持ちが大きい反面、誰も分かりはしないという逆行した気持ちがあって、その葛藤の中で話した結果があの春の出来事だったのだ。突き放されたような、世界を隔たれたような感覚になり、そのままあっという間に時間だけが過ぎていった。
私の言葉に聖は眉を寄せながら、「難しいですね」と一言吐き出した。
「あと、今まで話を聞いてて思ったんだけど。聖くんはさ、家族の状況に対して自分が日常的に介護しているとか、そういうケアする立場に置かれているとかいう意識がなかったとしても、もっと遊びたかった、もっとこうしたかったっていう本音を抑えつけて色々と我慢していたんじゃない?」
そう言うと聖はゆっくりと瞬き、そして神妙な面持ちになった。
「確かに、それはあると思います。もっと遊びたいけど、放課後も友達と時間使っていいのかなって。その時、高校を卒業していた兄ちゃんがすごく大変な思いをしているのにっていう罪悪感みたいなものはありました。早く帰って、家のこと手伝うべきなんじゃないかとそわそわする感じ。それに、今だからこうやって巴美さんに話はできているけど、僕自身、普段はそんな言いたいことはっきり言えないことの方が多い気がします」
聖は幼い頃からの家庭環境の影響で、自身の性格に一片の翳りがあるようだった。
一見すると穏やかそうな少年であり、その中身も人の助けになりたいという精神がある反面、自分自身の気持ちを必要以上に抑えつけてしまう傾向があるのではないかと私は思うところがあった。だが聖は、
「我慢というか、まあ、そうせざるを得なかったというか。そこに疑問を抱かずにずっと生活していたから、今さら後悔とかないですけど。自分にとっての当たり前な生活をしていただけっていう感覚だし」
と言って自分の中で消化していた。
「うん。確かにそうだね」
痛いほどその気持ちが分かる。
「どうしようもない」という諦めの気持ちだ。
その時その時を生きていただけ。だが、その状況こそが私にとっては苦痛だった。
「でも、そう言ってくれたの、巴美さんが初めてです。同じ立場の人から共感されるのってなんだか安心します」
聖は一変、嬉しそうな顔をして言った。
「自分が初めて受け入れられたみたいな感覚です。だけど、そう思うと同時に兄ちゃんや母さんにも受け入れてくれる存在が今まであったのかなって思ってしまう。家族だからずっと当たり前のように一緒に暮らしてきたけど、普段、お互いの気持ちを言葉に表していないから分からないし、そこまで意識してこなかったから……」
「それ自体は別におかしくないけどね。仲の良い家族なら改まって何か言葉にしなくても分かるよねっていう部分も少なからずあると思う。ただ、聖くんのうちと私のうちでは決定的に違うことがあって」
私はそう言いながら腹に据えかねた記憶が炎となって再燃するかのように思い起こされ、一瞬にして気持ちが高ぶった。
「聖くんの家族は大変な状況でもお互いを支え合える。お兄さんもお母さんも聖くんの存在そのものが助けになっていることは明らかだろうね。そこは心配しなくても大丈夫だよ。でもうちは……、私の父親は仕事ばかりで私を顧みることすらしない。私が介護で精一杯だから内心どこかで可哀そうだと思っていたとしても、そこを本気で変えようとはしてくれない。『巴美が倒れたら終わりだ』って言って終わり。それだけ。逃げてるんだよね、家族や介護の問題から」
私は思いっきり嫌な顔をした。
「なんだか……、本当に不幸なのはお母さんが病気になったことじゃなくて、こういう大変な時に家族が支え合えないことなんじゃないかって、最近思うんだよね。困難が降りかかってきた時の対応力というか。とにかく、血の繋がりってなんなんだろうって感じ」
そう言った私の顔を聖は黙って見ていた。
この点に関して聖は想像するしかないのだろう。家族の繋がりが強いか否かは、世界中見渡しても違いがあって当然だ。
「結局最後は『仕方ない』で落とし込むしかないんだよね……。今ある状況でどうやっていくか。いや、どこまで潰れずにいられるか、かな」
私はこういう時、途方もなく難解な問題にぶち当たって諦めるしかないような気持ちになる。昔苦手だった数学の問題を、分からないから仕方がないと言って答えをすぐに確認するのと少し似ているが、数学には必ず答えがある反面この問題には答えがない。自分の中で気持ちの整理、折り合いをつけていくしかないのだ。
「もっと余裕があったらいいんだけど……」
私がそう溜息をついたら、聖は何かをぼそっと言った。
「……もです」
「え?」
私はその小さすぎる声に聞き返す。
「あの時は考えもしなかったですけど、じいちゃんの介護していた時とか、今になってもっと優しくしていたらとか、他の接し方があったんじゃないかと思っちゃって」
その言葉に私はドキッとした。
「やっぱり……、後悔してる?」
「うーん。今、だからですかね」
一瞬、聖の瞳の奥に乾いた寂しさが映っているような気がした。
今になって聖は過去を振り返って冷静にその時の状況が考えられるようになったのだろう。当時の聖を私は実際に見たことがないが、認知症で変わってしまった祖父に対してしてきた彼の後悔の念が、今、細波のように押し寄せて来ているのだろうか。
「難しいね……」
今度は私がそう答えた。
ふいに空を見上げてみる。
いつのまにか無意識に下を向く癖がついてしまっていたようだ。確かに今の私の視野はひと際狭まっていて、「余裕」という言葉は遠く遠くかけ離れすぎていた。
そんな私を見て聖は静かに尋ねた。
「巴美さんは?巴美さんもたくさん抱えているもの……、ありますよね」
私は胸に鈍痛を覚える。
そして、どこか遠くに視線を逸らした。自分の本音をありのまま言葉にすることに抵抗があったのだ。それは、聖に対してもそう簡単には崩れないもので、いくら大人びているとはいえまだ中学生の子どもに聞かせられるものではないような、どす黒いものもあった。だが、そう躊躇いつつも、少し言葉を選びながら話し始めた。
「私も、聖くんの話を聞いててすごく共感する部分が多かったし、私だけじゃなかったんだって、少しだけど救われるような気持ちになれたんだよ。ほんとに」
聖は黙って聞いている。
「私の場合は、逆に子どもの頃は自分のやりたいように生きていたと思うし、それが幸せだったんだと今なら分かる。でも大人になるにつれて自分の人生をどう生きていくか、生きていきたいかっていう重要な時に、お母さんの介護に明け暮れ始めたのは、普通に考えて……、絶望的だった。大学時代も最初はまだ良かったけど、家事の大半をまかなうようになっていくにつれて自分の時間が作れなくなって。お母さんが骨折してからは本格的に介護生活だったから、ほんとにもう。
大学四年の時には家事、介護、就活、卒論……、忙しい日々だった。特に就活はなぜか全然ダメで、というかそもそもお母さんの介護があるから就職できないんだって、段々それに気付いていったの。なんで最初からそこに考えつかなかったんだろう。最初の頃は本気で就職するもんだと思って就活してたんだよね。みんなと同じように。それで結果的に、他に選択肢がなかったんだ。
お母さんの介護より自分の人生を選ぶことはやっぱりできなかった。自分自身の気持ちも大きいけど、現実的にも厳しかったから。お金とか、色々」
私はそう自分で話しながら喉の奥がつかえる感覚になりかけた。
「学生時代に積み上げたもの全部パーになっちゃった……。いくら勉強を頑張ってきたって、何の意味もないじゃない。こうなったら。それに今は介護がしんどくて辛くても『自分がやらなきゃ』っていう使命感があるから、なんとか倒れないようにやってはいる。でも、その後は?明かりが見えないトンネルの中をただひたすら走っているけど、親はいつか死ぬ。将来、私が歳をとった時に何もない自分がどう生きていけばいいか、分からない。就職するタイミングを失った私がちゃんと働いて、経済的に自立できる道があるのか……。恋人もつくれない。結婚もできない。何もできないまま歳だけとっていくと思うと、不安で不安でしょうがないんだよ」
私は現実のやるせなさ、何のために生きているのか、その苦痛を噛みしめながら言葉の一つ一つを吐き出す。
「周りはみんな就職して、休日になれば遊んだり、旅行へ行ったり。恋人がいるとしたらタイミング良ければ結婚。人生の節目を迎えていく人たちから取り残されていく焦燥感や孤独感が絶えず私に付きまとっていて、私だけ壊れたゼンマイ仕掛けのおもちゃみたいにその場でぎこちなく足踏みしている感じ」
あまりにも自分の中に溜まりすぎていたものが止めどなく溢れ出た。
「毎日が、ふとした瞬間に苦しい……」
その最後の一言を言った後、自分の中で不思議な感じがした。
いつもその苦しさを胸に抱えているだけで、誰にも吐き出した事がなかったからだ。他人に言ってもしょうがない話を中学生の男子に打ち明ける。これこそなかなかできることではないし、重い空気感が漂っている。私はその中でもやはり、母か自分かどっちでもいいからいっそのこと「死」を願ったという事実は心の中にしまっておこうと思った。
それでも、「誰かに話を聞いてもらいたい」という次元ではなかった私が、「少しでも話したい」という気持ちになったのは紛れもなく聖の存在が大きな影響を与えたからだった。
聖は切なさと何とも言えない苦さを帯びた表情をしながら私の言葉に耳を傾けていた。彼は何を思っているのだろう。
「……」
聖は眉間に皺を寄せながら何か言葉を発しようとしたが、なかなか出てこないようだった。
さすがの聖でも受け止めきれないか。私はそう感じ、慌てて取り繕う。
「ごめんね。こんなこと話しても受け止められないよね。私も聖くんだから話せたってだけで、別に聞き流してもいいんだよ」
すると彼も慌てて首を左右に振った。
「いえ。僕が聞いたんですから、そんなこと……。僕が今、巴美さんくらいの年齢だったら、もっと分かってあげられるんじゃないかって思って。今の自分じゃ、なんか……」
「そんなことないよ。同じ歳だから分かってもらえるとも限らないし」
私は聖を見た後、重苦しい雰囲気をなんとか変えようと別の話題を振ることにした。これ以上彼に難しい顔をさせておくのが気懸かりだった。私の中では聖が「中学生」という認識が大きく、まだまだ無知や無垢が許される年頃で、聖にはもっと楽しいことや明るい世界に浸って成長していくべきだという一種の遠慮があった。
今までの聖の人生で「介護」という経験があったからこそ、今こうして私の話を聞いてくれている。それだけでも十分に十五歳とは思えないほど大人びているが、あまり思い詰めても精神上よくない。それは私自身がよく分かっていた。
「あのさ、初めて会った時、紫陽花の写真撮ってたよね?」
唐突にそう言われた聖は私の方を向いて、目を見開きながら一瞬ぼーっとしていた。
「紫陽花……。あぁ、はい。そういえば撮ってました」
「あの時、中学生の男子が紫陽花に興味があるんだって少し意外だったから、印象的だったんだ」
「あ、それは、母さんに見せようと思って」
聖は頷きながら微笑んだ。それを聞いた私は「そっか」と言いながら、少し離れた所に咲いている紫陽花に目をやった。
「こっち側に咲いているのは青系だけど、あっち側は赤系だよね。私は青の方が好きだな」
「あ、母さんも同じこと言ってました」
聖はそう言って立ち上がったため、もう帰る時間かと私は公園の時計を見たが、聖が「ちょっと近くに見に行きません?」と不意に誘ってきた。
二人で紫陽花が咲いている方向へ歩き出す。
「今年の紫陽花は長持ちだね」
私が話し掛けた。
「そうですね」
「出会った頃はまだ満開じゃなかったものも多かった気がする」
私は遠くを見つめるように言った。ゆっくりと歩きながら長い黒髪が僅かに揺れている。
「巴美さん。紫陽花って、この色鮮やかで大きく開いている部分、実は花ではないって知ってましたか?」
「え?」
聖に言われたその言葉に反応し、紫陽花を軽く指で触っていた手を止めすぐに顔を上げた。
「その部分はね、花弁のように見えるけれど本当は萼片と言うらしくて。ほら、よく花の下に付いているやつ」
私は顔を近づけて確認しようとする。
「じゃあ、本当の花はどこに?」
「ここ」
そう言って聖は、花だと思っていた萼片を掻き分けて奥の方にあった小さな小さな部分を見せてくれた。一見、よく近くで見ないと花には見えない。
「小さい……」
「色鮮やかな萼片が集まって一つの装飾花というものができて。それが花のように見えているけれど、本当の花は奥に隠れているんです」
私は改めて見てみたが本当の花があまりにも小さく、これでは誰にも見つけてはもらえないだろうと思った。
「紫陽花に詳しいんだね」
「小さい頃によく見てた植物図鑑にそうあったんです。もう何度も見ていたから覚えちゃって。ついでに言うともう一つ」
聖は少し離れた向こうに咲いている紫陽花を指さす。
「あの紫陽花、なんでこっちの青色と違って赤っぽいピンク色なんだと思います?」
「え」
そんなこと考えたこともなかった。
それぞれの色の紫陽花があって咲いているとしか認識していなかったのだ。
「どういうこと?」
「これは結構有名な話だと思うけど、紫陽花って土の成分によって色を変えるんです。土壌がアルカリ性だと赤系、酸性だと青系になると言われていて、色んな色に姿を変えることから、中国では『八仙花』と呼ばれているらしいです」
「へえー、なるほど」
私は目を丸くさせて純粋に驚いた。
「なんで色が違うのとか考えたことなかった」
「でも一度知ればなんだか不思議な感じがしません?」
聖は目を少し輝かせているようだった。
「うん」
そうして私たちはしばらく歩いたり、立ち止まったりしながら紫陽花を観察するように眺めていた。
すると、聖は突然こんなことを言った。
「みんな、紫陽花に似てると思うんですよね」
「?」
「本当の自分を奥深くに隠して、人からは見られている部分は綺麗に取り繕っている感じが……」
「え……」
私は思考が一瞬固まってその意味を探ろうとする。だが、その言葉が何だか分かるような、自分にも当てはまるような、そんな気がして戸惑った。
私は聖を見て言葉を促す。
「えっと。色んな場所に自生している紫陽花がそれぞれの土地でそれぞれの色を咲かせているじゃないですか。これと同じように、介護者もそれぞれの環境で色んな形の介護をしていて、一見同じように見えるAとBの介護者でも奥深くまで見ると、やっぱり違っていて。その人が生きてきた環境や今ある状況によっても介護の在り方とか感じ方が違うってことなんですけど……。
介護って一言で言っても、範囲が広いでしょう?精神疾患を持つ親のケアであったり、生まれながらにしょうがいを持っているきょうだいの世話、高齢者の認知症の介護、難病の介護……。色んなパターンの介護があるから、介護者同士で『あ、その気持ち分かる』って共感も多いだろうけど、それとは別に自分とは違う考えにも出くわすんだなって思ったんです。僕と巴美さんみたいに」
梅雨の合間にたまあに吹く、心地よい風が二人に間を通り抜けた。
聖の言葉はそんな風のように優しく流れていく。
「最初は僕と巴美さんが似ているなと思ってたんですけど、巴美さんの話を聞くにつれてやっぱり抱えているものが違うなと分かって。そんな感じで、介護者と言っても人それぞれなんだと思ったんです。十人十色。その上で、若い世代は世間からはなかなか見つけてもらえない。みんな、雨に打たれながらも日々生きてる。だから紫陽花に似ていると思ったんです」
私はもう一度紫陽花に目を落とした。
「確かに、そうかもね」
そう静かに言った後、初めて紫陽花が自分と重なって見えた気がした。
「みんな、ほんとに……。誰かに知ってほしい、気付いてほしいっていう気持ちは少なからずあるけど。でも、なんて言うか、それを望んでいるようだったり、望んでいなかったり。介護している人がそれぞれ思うことは複雑で。その中でも確かに言えることは、私は何だかんだ聖くんが隣にいてくれて、自分の中に渦巻いていたものを少しでも吐き出せたことが結果的に良かったと思えるし、後悔してない」
それは私の正直な気持ちだった。
「この苦しみを話しても確かに現実は変わらない。でもそれを聞いてくれる、分かってくれる、分かろうとしてくれる人がいるだけで天と地の差があるんだよ」
その言葉に聖は無言で応えた。
「人は誰かのことをどれだけ知っていて、どれだけ本当に分かってあげられるんだろうね」
そう呟いた私の思いがすっと空間に染みわたって、静かな余韻が生まれた。
だがそれも束の間、自転車に乗った子どもたちが、騒がしくおしゃべりしながら公園に入って来た音に掻き消されてしまった。
その空間の温度差に聖と私は思わず顔を見合わせ、苦笑する。
そしてもう一度紫陽花を見ると、「私を見つめて」と言っているような、そんな声が聞こえてくるような気がして私は口を閉じたのだった。
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