【小説】霖雨の果てへ⑦
Ⅳ The truth is always filled with deep colors.
「聖くん……?」
聖ははっと振り返り、少し離れた所に立っていた私を見た。
「巴美さん」
そう言いながら驚いて目を丸くしている。それは私も同じだった。
「まさか、いるとは思わなかった」
私は偶然会えればと思ってはいたが、いざ本人がいると驚きを隠せなかった。
「いや、僕もです。木曜だけど来ないと思っていたんで」
「え?あ、そういえばまだ夏休みだよね?」
「はい。だけど、夏期講習で。ちょくちょく学校には行っているんですよ」
私は自転車をカタカタと言わせながらゆっくり近づく。
「夏期講習……。三年生だからか。そっか受験生か」
「はい。まあ、一応」
聖は少しぎこちなく笑った。
「巴美さんは、また買い物の帰りですか?」
「そう。本当は行きたくなかったんだけど、仕方なく」
そう言った私に聖は心なしかほっとしたような笑みを見せた。ここ一か月近くの間で聖に変わった様子はなさそうだ。聖の目にも私がそのように見えているのだろうか。ふとそんなことを考えた。
「聖くんはここで何してたの?」
「まあ、ちょっと息抜きに……。普段は夏期講習が終わったらそのまま帰るんですけど。今日はたまたま寄ってみようと思って。そしたら巴美さんが来て」
そう聖は言ったが、このベンチが日中太陽に照らされて熱くなっていることを私は思い出した。今は少し雲で陰っているが、ここで息抜きはさすがに暑いのではないかと心配になったのだ。
「暑かったでしょ?」
私は聞いた。
「まあ、この時間ならなんとか」
聖はそう言って一瞬公園の時計を見た。
「そっか……。少し、座っていい?」
私は聖の隣に視線を移しながらそう言うと、聖は「どうぞ」と軽やかに答えた。
「……ここのところずっと暑かったですけど、体調とか大丈夫でしたか?」
私は何気ないその言葉に戸惑った。
聖と会わなかった間に色々と変わってしまったことがあるにはあるが、毎日自分がどうしているかを誰かに話すことはなかなかできないと思った。
情けないという羞恥心があった。
でも、今の気持ちそのものは聖に嘘をつきたくないし、ここで嘘を言ったら聖と出会った意味が掠れてしまう気もする。
「う、ん」
なんともぎこちない声になってしまった。
すると案の定、何かを感じ取った聖は声を静めて「何かありましたか?」と聞いてきて、私はぽつり、ぽつりと話し始めた。
「お母さん、今肺炎で入院してて……」
私は今までの経緯と自分自身の心境の変化をなるべくありのまま聖に伝えた。
聖は最初こそ驚いていたものの黙って話を聞いていた。
ジリジリとした空気と蝉の声が私たちを包み込む。
太陽が陰っても蒸し暑さは変わらない。この暑さのせいなのか、それとも自分の気持ちのせいなのか、体がだるかった。
「最近ずっと……、自分でもどうしようもなく色々考えちゃって」
そう悲しく笑んだ。
誰かに自分の思いを打ち明けるというのは、勇気がいるものだ。
だが聖を前にすると、私は自分のことを自分の口から話してみようと思える。
今までは、余計なことを色々考えてしまって、他人の前では自分を虚像で取り繕い、自分が苦しんでいる姿を晒すことも、打ち明けたことも無い。それでも試しに実咲に話したことがあったが、逆に後味の悪い思いをした。実際に実咲があの時どう思っていたのかは結局分からなかったのだが……。
私は他人との関わりに光を見出せないまま、所詮他人は他人と考え、一方的に忌み、家族である両親にすら分かってもらえないと悟り、絶望した。
聖は私の言葉を促す風もなく、ただ穏やかな顔でまっすぐ見つめていた。
そうしてただ二人の間に静かな時が流れたあと、聖の口から一粒の言葉が零れ落ちた。
「……誰も悪くない、です」
その言葉に私ははっとさせられた。
聖の方を見ると、聖の瞳にははっきりと私の姿が映っていた。
「介護される人もする人も、どっちも悪くないんです。本当は、誰も……、何も悪くない」
聖は拳を握った。それは聖自身に言い聞かせているようだった。
「あれから、僕も昔のこととか考えてたんですけど」
聖は再び正面を向く。
「あの時ああすれば良かった、あんなこと言わなければ良かった、っていう後悔はずっと心から消えずに残ることになっても、自分たちはこれから先も生きていかなきゃいけない。どれだけ自分の中で思い悩んでも、現実は変わらない。自分にできることは目の前の事を一つずつやっていく事だって」
私は静かに聞いていた。
「それに、昔の僕は確かに頑張っていた。それはそれでちゃんと認めてあげないと、やりきれないと思ったんです」
そして、聖は首を振って言った。
「だから、巴美さんは自分を責めなくていいし、何かを悪く決めつけなくていいんです。お母さんの辛い病気に対して、もう十分巴美さんは苦しんでいるじゃないですか。自分で言うのもなんですけど、後悔する人は本当に優しい人だと僕は思います」
「誰も悪くない……」
私は独り言のように遠くを見て呟いた。
母が病気になったのも、それが原因で介護を必要としているのも母のせいではないと分かっている。家に叶えられる選択肢が無くて自分が介護をしなければならなかったことも誰のせいでもない。ただ、だからこそ、この苦しみをどこにもぶつけられない。
どうしたら前を向けるのか。
生きることはなんて難しいことなんだ。そう思わずにはいられない。
私は俯いて深く一呼吸した。そして風に煽られて目にかかった髪を除けた。
♦
「『人は誰かのことをどれだけ本当に分かってあげられるのか』って前に巴美さん言ってましたよね?」
聖が静かに口を開いた。
「巴美さんは、周りに話せる人がいなかったって」
「……今思えば、心から信頼している人がいなかったのかな。まあ、他人は他人って割り切ってたし。本当の意味で分かってくれる人はいないって、考えてた」
私は少し嘲笑うかのように眉を寄せた。
「でも、そうやって勝手に決めつけていた部分はあるよ。聖くんに会うまでは」
風で揺れる髪を顔に感じながら私は表情を変えずずっと前を向いたままだった。
聖も前を向いた。
公園には奇遇にも私たち以外に誰もいなかった。
近くの道路は交通量が多く、車の走行音が立て続けに聞こえ、耳から耳へ通り抜けていく。私と聖の間にある空気感が温かい中でも少し緊張感があり、この静けさがお互いの言葉を後押ししていた。
「……『僕に会えてよかった』って、『話せてよかった』って、言ってましたよね。僕は今までこんな風に人の役に立つとは思っていなかったから。嬉しかったんです。僕の経験が、少しでも巴美さんと共感できる部分があって、分かるところもあって。こうやって同じような境遇の人と出会って話しているだけでも不思議なのに。こういうこと初めての感覚なんですけど……。今までの辛さとか大変だったこととか、無駄じゃなかったんだって思えたんです」
聖は指を組みながら擦り合わせている。
隣にいる私にも聖の高ぶった気持ちが伝わってきた。
「だから……、少なくとも巴美さんも……、この先きっと誰かの心に寄り添えるし、同じように話を聞いて、同じようにその人の苦しみを分かってあげられると思うんです。それは誰にでもできることじゃないし、巴美さんは……、そう、それこそ貴い存在なんですよ。僕のじいちゃんなら、必ずそう言ってくれるはずです」
「……」
この瞬間、時が止まったようだった。
そして私は心臓が鷲掴みにされたような感覚になった。
口を開けたまま声を出そうと試みるが、なかなか出てこない。
それと同時に、私の脳裏にあの光景が蘇る。
桜の季節。
待ちに待った桜の開花に喜び合う人人。桜の花弁が舞い、春の訪れを祝福する。その中をどこか遠くに感じながら歩く自分。
実咲に話したあの日のこと。
話した手応えも無く、自分が実咲にどうして欲しかったのかも分からない。話すことに対する淡い期待を持った結果、話さなくてもいいことを実咲に話してしまったという後悔。実咲を責めたいとかではない。ただ自分が惨めだったのだ。
私は聖の顔が見られなかった。
溢れ出てきた涙が落ちてきそうで必死に瞼を閉じないようにしていた。
そしてふと前に聖が言っていた「紫陽花に似ている」話を思い出した。
他の紫陽花たちも知っているのだろうか。
自分が理解されない苦しみを。
そんな中でも貴い『生』、貴い『今』を全うしていることを。
全てを失って得たものに意味を与えられるのは、自分自身だということを。
「本当に苦しんだ人にしか、他人の本当の苦しみは分からない……。これもじいちゃんが昔言っていた言葉なんですけどね」
そう言った聖はくしゃりと笑った。
私はやっとのことでぎこちなく言葉を発した。
「うん、そう。そうだよ。そうなんだよ、きっと」
そして、小さく口ごもりながら「……あり……がとう」とこう付け足した。
「僕の方こそ、ありがとうございます」
そう言って聖はまた笑う。
そして、この上なく温かい表情でこう付け足した。
「大丈夫。……大丈夫です」
私はその瞬間悟った。
単純なことだった。
薄っぺらな心配をされるでもなく、触れてはいけない傷口のようにその話題を避けられるでもなく、ただ真正面から受け止めてくれるだけで、ただそれだけで、こんなにもどうしようもなく、安心して、嬉しくて……、切なくなるんだと……。
「……」
私は両手で顔を覆い、そのまま音を立てずに抑えられない気持ちを噛み殺すようにしていた。だが溢れてしまった頬を伝う涙は止まることを知らず、聖はそんな私を優しく見守っていた。
♦
母が入院している病院から連絡があり、それは退院の目途がつきそうだということだった。
熱はまだ少し変動していたが、血液検査の結果で改善の兆しが見られたのだ。もともと長く入院できない病院であったし、退院か転院かどちらかの選択を迫られ、退院を望んだ。
退院の知らせを聞いた母は顔の表情からして喜んでいるようで、父も「家だったら寛げるし安心するだろう」と当たり前の事を言いつつ良かったと嬉しがっているように見えた。私だけがただ喜んでもいられない心持ちで、でもこれでいいんだと自分の中で考えていた。大変だろうとは分かっているが、きっと何とかなるという方向に気持ちを持っていった。
そんな退院を一週間前に控えたある日。
医療の事務手続きに必要な書類を探してリビングにある棚の引き出しを漁っていた私は、上段左端の引き出しを勢いよく引いた時にコロコロと音がしたのに気付いた。中を覗くと書類や印鑑、通帳、袱紗などが乱雑に入っていて、一つだけ毛色の異なる物があり、これがコロコロの正体だと分かった。
それを手に取り、すかさず自分の指に通す。
それは、なかなか見ないようなデザインのとても濃い紫の石がついた指輪だった。
一見、おもちゃのようにも見える。少し大きめの石が一つ付いただけの指輪。私の中指ではぶかぶかで、親指にも通してみたが不格好だった。
私は指輪を見るまでその存在をずっと長い間忘れていたが、それの持ち主を知っていた。
まだ私が小学生の頃。
母方の祖母はこの頃既にアルツハイマー型認知症の症状が出ていて、私はよく母と一緒に祖母が一人暮らししているアパートに様子を確認しに行っていた。
祖母はまだなんとか一人で生活ができていたが、もの忘れが顕著で日々の生活における「安心・安全」という名の壁が少しずつギシギシと軋み始めていた。
そんな祖母は、昔から人付き合いが全くない人で、近くに住んでいる家族の母と私だけしか普段関わりがなかった。
年齢的に子どもだった私でも、現実をちゃんと理解していたし、祖母に助けが必要となっていくにつれ自分なりに動いたりしていた。
それ自体が大変だったかというと負担を感じるほどでもなかったが、何より話が上手く通じなかったり、自分の予想外の行動を起こしている祖母の姿に衝撃を感じていたことの方が大きかった気がする。当の本人はもとから静かな性格でそれはあまり変化が無かった一方、もの忘れや徘徊ともなると子どもの私でさえイライラしていて、母はもっとイライラしていた時もあった。
母は祖母によく怒っていた。
母からしてみれば、当時は自分の母親の面倒と子育てが重なり、親戚は頼りにならず、確かに大変だったかもしれないが、私はその時の母の心情を全く考えたことがない。
ただ何か頼まれたらやる。小学生の私にとってはそれだけだった。
それも数年経った後、老人ホームに入所することになったため、祖母が入所してからはなかなか会いに行けず時間だけが過ぎていった。
祖母の入所に対して私は、年を取ればそういった施設に入ることに何の疑問も持っていなかったが、入所してから祖母の認知症は一気に進行し、すぐに自分の娘や孫のことが分からなくなった。
そしてそのことに母はショックを受け、入所させたことを後悔していた。
それでも、こちらは日常生活に祖母の存在がなくなるとだいぶ穏やかだった。
ただ、たまあに会いに行く時だけ祖母の状態を目の当たりにし、悲しくなる。
その繰り返しだった。そして最期の方は病院で亡くなったのだ。
♦
私が見つけた指輪は祖母の物だった。
昔、私は尋ねたことがある。
「ねぇ、この指輪、おばあちゃんの?」
祖母の家で遊んでいた時にたまたま見つけたのだ。
「ん?そうだよ」
「こっちの箱は?なんか変なの入ってる」
私は同じ場所にあった古くて薄い木箱を手に取って見せた。蓋を開けると敷き詰められた綿の上に小さくて黒い何かが入っていた。
「それはともちゃんのお母さんの臍の緒だよ」
「なにそれ?」
「大事なもんだから、落としちゃだめだよ」
祖母は幼い孫を窘めるように言った。
「ふーん。じゃあ、こっちの指輪はともみがもらっていい?」
「そっちはね、おじいちゃんがむかーしおばあちゃんにくれたもんなの。戦争が終わって田舎から出てきたときは貧乏でおしゃれなんてできなかったけど、おじいちゃんが私に初めてくれたもんなのよ。その紫の石は『アメジスト』って言ってめずらしいもんでねぇ。きれいでしょ?ともちゃんがもっと大きくなってお姉さんになったら付けてもいいよ」
私は自分が嵌めたいのではなく、愛用していたぬいぐるみに付けるつもりで聞いたのだが、その指輪をじっと見ていると台所にいた母が口を挟んできた。
「だからそれアメジストじゃないって!ただのレプリカだよ」
「レプリカ?」
私は聞き返した。
「偽物ってことよ。見たらすぐに分かるし、そんな大きいやつがアメジストだったらもっと高いからね。そんなの買えるお金無かったでしょ」
母は呆れながら言った。
そんな言葉に祖母はむすっとした顔をしてちゃぶ台の上にあった布巾でおぼんを拭き始める。おそらくこのやり取りは今まで何回もしてきたのだろうと私はうっすら思った。そしてその指輪をもとあった引き出しに閉まった。
祖父は私が生まれるずっと前に亡くなっている上に、祖母は祖母自身のことも祖父のことも私に話してくれたことが無く、そこらへんの情報に触れずに育った。
そしてその指輪もそれっきり見かけることはなかったのだ。
私は、その指輪がこの家にあるとは露程も思っていなかった。
実物を見つけるまで完全に存在を忘れていた。
「こんなところになんで……」
私はその指輪をまじまじと見る。
石以外の部分は相変わらず古びているが光が当たって反射している紫は「私はここにいるよ」と自己主張するような静かな輝きがあった。一応その日の晩、帰宅した父に指輪について聞いてみたが、「なんだそら」の一言で終わってしまった。
夜、寝る前。
私は机のライトだけ点けた薄暗い部屋で一人指輪を眺めていた。
大人になった今ならぱっと見てもその石は偽物だと分かる。宝石という感じが全くしない。だからあんな無造作に引き出しに入っていたのだろう。
それにしても、この家にあるということは祖母が亡くなった時に捨てなかったということだ。遺品整理は主に母がやっていた記憶はあったが、なぜこの指輪を捨てなかったのか私は疑問に思った。
だが少し考えたところで、この石が偽物でも祖母が大事にしていたものにかわりはないのだから、さすがの母も思い出の品を捨てられなかったのだろうとしか頭に浮かばない。
「それにしても偽物をプレゼントしたおじいちゃんって……。これが本物かどうか分からなかったのかな」
私は祖父のことを何も知らない。
今思えば本当に何も知らず、名前すら知らないのだ。
また、祖母のことさえも小さい頃はよく一緒に過ごしていたのにあまり知らなかった。なぜもっと詳しく聞かなかったのか、逆に話してくれなかったのかも不思議だが、その必要がなかったといえばそれだけだ。
だが、今となって気になっても祖母も亡くなり母も話すことができず、母の妹である叔母に連絡を取ろうとも思わず、どうしようもない。ここまで八方ふさがりだと諦めるしかないのだと思った。
「まあ、知らなくても生きてはいける……、か……」
モヤモヤは多少残るが所詮その程度なのだ。
そう言って私は指輪を机の上に置いた後、ベッドに潜り込んでポータブルCDプレーヤーでカッチーニの『アヴェ・マリア』をかけ流す。
少しずつ心が落ち着いて「無」になっていき、そしてそのまま時間とともに意識が遠のいていく。相変わらずの熱帯夜だが、部屋のクーラーは付けずに私は扇風機だけ回してタイマーをかけていた。
生暖かい微睡みの中、私は祖母の声を聞いた気がした。