【小説】霖雨の果てへ⑨

Ⅴ With just a little light in my heart. 

 
 聖から連絡があったのはつい昨日のことだった。
 週明けに母が退院する予定で、最後の週末を目前にした金曜日、聖からメールがきた。
 メールの内容は、「明日、会えませんか」とのことで、私も時間に余裕がある今のうちにまた会えたらいいなと思っていたため、即刻返事をしたのだ。
 色々話したいこともあったが特別用事が無くても会いたいと思うのは、ただ一緒に話しているだけで今までも無意識のうちに聖に癒されていたからだろう。
 
 私は身支度をし、家を出た。
 土曜日に会うのは初めてだ。しかも、昼前の比較的早い時間帯だった。
 待ち合わせはいつもの公園。
 自転車に跨り、およそ十分前後で向かう。
 
「まだか……」

 少し早めに着いた私は、自転車を降りて携帯の待ち受け画面を確認する。
 太陽はまだ方角的にこの公園を照らしていないが、当たり前のようにムシムシとした暑さが身に堪えた。私は聖が来るまで、いつものベンチで座って待つことにした。
 しばらく時間が過ぎて、約束の時刻になった。

 まだ聖は来ない。

「連絡してみようかな……」

 私は聖の連絡先を宛先にして、文字を打ち始めたところだった。
 少し離れた向かいから一人の男性が歩いて来ていることに気付く。
 その人はゆったりとした歩みでまっすぐこちらに向かって来ていた。
 私は一瞬意識したが、視線を再び携帯画面に戻す。まさかその人物が自分の知っている人だとは全く思わず、隣にあるもう一つのベンチに座るのだろうか、としか考えていなかった。
 しかし、その人物が目の前に来て私が顔を上げた瞬間、言葉を失った。
 そして、向こうから声を掛けてきたのだ。
 
「向田……、さん?だよな」

「……!」

 私は目を疑う。
 一気に頭の中が混乱し始める。
 そして、ものすごく戸惑った。

「……木村です。久しぶり」

 今、目の前に立っている人。
 久しぶりすぎて咄嗟に名前が出てこなかったが、相手が名乗った「木村」という名字で大学時代に一気に感覚が引き戻された。
 もう二度と会うことはおろか、考えることすらなかった彼は同じ経済学科出身の「木村充」だった。

「すごい顔に出てるよ。『なんでここにいるの?』って」

 そう言って木村は少し笑った。
 彼の様子はごく普通であっけらかんとしている。
 私はまだ思考が追いつかず相手の顔を凝視しながら沈黙していたが、何か 言わないと、と思って慌てて口に出した。

「いや、まぁ……。いや、思うよ!あの……」

「大学卒業して以来、だな。まあ別にその頃も特に話したこともないけど
さ。俺も、今こうやって向田さんと向かい合っているなんて本当に不思議だと思うよ」
 そう言いながら彼は辺りをキョロキョロ見渡した。
 そして、次に出た言葉は私をもっと驚かせた。
 
「……聖は俺の弟なんだ」

「……はい?」

 私は言葉を失い固まった。目を大きく見開いたまま。

「今日、聖に会う約束、してたでしょ?」

 木村のその一言で我に返った。

「……あ、そうだ!そうだよ。聖くんは?」

「今学校に寄ってる。多分すぐ来ると思うけど。聖が俺を先に行かせて、
『話しながら待ってて』って」

「っは……」

 私は心臓がバクバクしていた。息が詰まりそうだ。

「聖くんのお兄さんが木村くん……?」

 急な展開に全く頭がついていかなかったが、現に木村が目の前にいて、聖が弟だと言うのだから本当以外のなにものでもない。そういえば聖も同じ「木村」だった。
 
 ただ聖と会うだけの予定だったのが、どうしたらいいのか分からない状況に陥ってしまった。木村とは大して話したこともないから余計に人見知りが発動する。
 いや、それより何で今まで「木村充」が兄だと聖は言ってくれなかったのか。

「でも聖くんは一度も木村くんがお兄さんだと言ってなかった……」

「あぁ。俺も最近まで知らなかったんだ。聖が会っている人が向田さんだって。家で話は出ていたんだけど、聖の言う『ともみさん』が向田さんのことだったとは思わなかった」

「聖くんが家で私のこと話してたの?」

 私は一瞬焦った。
 聖に話していた諸々が木村にも伝わっていたのかと思うと急に恥ずかしくなる。
 聖にありのままの自分を話すことと、同世代の知り合いに自分のことが知られることだと大きく異なる。いくら木村が子どもの頃から苦労してきたとは言え、心の準備が必要だったのだ。
 そんな私の懸念を感じ取ったのか、木村は軽く否定した。

「いや、そんな詳しくは知らないよ。ただ、話が出てたっていうのは聖が『気が合う人ができた』ような感じで軽く言ってただけだから。でも、向田さんが今、母親の介護をやっているっていうのは少し聞いた。別にそれを誰かに言ったりはしてないけど」

 私はその言葉を聞いて少し安堵したがすぐに複雑な気持ちになった。

「そう」

「それで、名字が『向田』で、去年大学を卒業したと聖から聞いて、もしかしてと思って……。これでも、同姓同名で違う人だったらどうしようってちょっと心配したりしたんだ」

 木村は私の放心した顔を見て、少しだけ気まずそうな表情をした。

「なんか、ごめん。驚くかなとは思ってたけど……」

 心配そうに私の様子を伺っているのが分かる。
 私は首を横に振った。

「ううん。ただ、色々ありすぎて」

 聖の兄が「木村充」だったという衝撃的すぎる事実……。
 なぜもっと早くそれが分からなかったのかというやるせなさ。
 なにより昔からずっと家族を背負い苦労してきた人のことを、単に大学をさぼっている割には就職活動上手くいったんだと妬み、何も知らずに勝手にこういう人間だと決めつけていた自分が本当に嫌になった。
 人をうわべだけで判断して誤解する。
 自分がされたくないことを木村にしてしまった。
 
 だが一方で、木村も私と同じように大学に通いながら家のことを色々やっていたのか、と思うと一気に自分の中にある彼への壁が薄くなった。

「……」

 私と木村は押し黙り、沈黙の時間が流れる。
 少しして木村が口を開いた。

「あの、別に……、少し会ってお礼したかっただけだから。前もって伝えずに急に来た事は……、ごめん。あと、聖と会って話をしてくれて、ありがとう。あいつも嬉しそうにしてたし、向田さんと出会えて良かったんだと思う」

 私はその言葉を静かに聞いていた。
 少しずつ、気持ちが落ち着いてきたようだった。

「……こちらこそ。聖くんと出会えたのは偶然だったけど、それから私はすごく心が軽くなった気がするし、今まで本音を話せる人が一人もいなかったから。聖くんの存在には助けられてるんだ」

「そうか」

 木村は穏やかに少しだけ頷いた。

「俺も、聖には助けられてるよ。歳は離れてるけど、小さい頃から我儘言わず家のことも手伝ってくれて、つい頼りにしちゃうんだ。でも、きっと聖にとっても酷なことなんだってどこかで感じていたところもあったから」

「……聖くんはすごく家族思いだよ」

 私はそう呟いた。
 お互いに兄弟のことを素直に褒められるのはいい関係を築けているのだろう。どこかの漫画かドラマでしか見たことがないような家族が現実に存在していて、何だか心がほんのり温かくなった。

「聖くんだけじゃなく、木村くんも……、お互い助け合えてていいなって思う」

 私がそう言うと木村は否定も肯定もしなかったが、「んー」と言いながら遠くを眺めた。
 
「聖とはさ、父親が違うんだ」
 
 唐突に私の頭の中でその言葉が鳴り響いた。

「……。そうなんだ」

 私は真正面から視線を動かせない。
 せっかく落ち着いてきた気持ちが再び揺れ動き始める。
 そしてやっとのことで木村の方をゆっくり見ると、当の本人は相変わらず遠くを見つめていて何を考えているのかが分からない表情をしていた。

「聖が生まれた時俺はもう大きかったから、なんだか無意識のうちに俺が守らないとっていう感じがあったのかもしれない。父親もいなかったし。母親が体調崩してからは尚更。確かに、昔は本当にきついこともあったしよくやってきたなって今なら思える。でも、色々考える暇がないくらい無我夢中で……、正直あまり覚えていなくて。俺一人じゃどうしようもなかったけど、何だかんだ家族でやり過ごしてきたからここまで生きてこられたんだよな」
 
 私はその実体がこもった彼の様々な思いをひしひしと感じ、胸の中で苦い何かが充満した。

「そっか……。強いね。仮にそういう状況だったら、やさぐれて反抗的になりそうだけど」

「まあ、そんな綺麗ごとだけじゃないよ、当然。そういう向田さんだって、現に母親のことを支えてるじゃん」

 木村は私の方をちらっと見た。

「私は……、なんだろう。気持ちが割り切れないところがずっとあったんだよ。悩んでばかりで、自分のこともよく分からないし。色々空回りして、だいぶこじれてきたから。最近なんか、私も母に対して『依存』しているんじゃないかって思ったりして」

 私は声が小さくなる。

「でも、自分で考えて決めたんでしょ?人によって状況は全然違うけど、誰にでもできることじゃない。ただ別に、介護している人の方が偉いとかそういう意味じゃなくて、なんて言うか……。要するに、『依存』っていうよりそれも『支え合っている』っていう事なんじゃないかな」

 木村から紡がれた不器用なその言葉は優しさに包まれてまっすぐに胸に届いてくる。
 誰かに助けを求めず一人で背負い込んできたのは木村も同じはずなのに。
 だからだろうか。
 誰かに対して心の底から優しくできるのは本当に苦しんだことのある人だから、と前に聖が言っていた言葉を私は思い出した。

「えっと……、悩むのは人間だから当然だし。その人が決めたことを誰かがとやかく言う権利はないから、少しは自信持ってもいいんじゃないかって……」

 私は黙って耳を傾けていた中で、やはりこの目の前にいる人は聖に似ている、そんなことをうっすら思っていた。
 木村が言葉を続ける。

「それに、時間はあっという間に過ぎ去っていく。他人と同じ時間を生きているのだとしても、他人と同じ生き方である必要はないじゃん。向田さんがこうするって決めたことが正しいのだと信じられることの方が大事で、世間の一般論と同調する必要はないから。人それぞれ自分の道を自分で決めて、ただ進んでいけばいい」

 木村は自分の言葉を堂々と言い放ち、その中には確信めいた強い意志みたいなものを感じた。
 私は今まで「木村充」という人間をあまりに知らなすぎた。
 本当はこういう人だったんだとその意外な内面に驚いているし、自分に向けてくれた言葉に少しくすぐったい気持ちにもなる。

「そっか……、うん。ありがとう」

 そう私が薄く微笑むと、木村は目を伏せた。
 
        ♦
 
「なんか、ごめん」

「え、なんで?」

「いや、木村くんのこと、大学の時とは違う印象で少し驚いて」

 私はその後に続く「昔はもっと適当な感じかと思ってた」という言葉を飲み込んだ。
 それを聞いた木村は、一瞬戸惑ったように見えたがすぐに苦笑した。

「あぁ、そうなんだ」

「でも、こうして話していると、やっぱり聖くんに似てるんだなって。聖くんもお兄さんのこと大事に思ってるし、兄弟がお互いを気遣えていて良い関係だよね」

「そう?聖と俺はタイプが違うと思うけど……。まあ確かに、歳がこれだけ離れてると冷静になれる部分はあるかもしれない」

 私は木村の言葉に対し、ただ兄弟の仲が良いっていうのとは少し違うような感じがした。

「それだけじゃなくて……。なんて言うか、その人の言葉ってその人の性質を表している部分があると思うんだけど。聖くんと木村くんの人としての根っこ?が同じ感じがする。だから、タイプが違っていたとしても似てると思うし、これから先もその自分の中にある軸を持って進んでいくんだなって」

「根っこ……」

 隣で木村がぼそっと言った。
 
「前にね、聖くんが言ってた。『何のために生きているのか、生きる価値は何か、っていう答えは無理に見つけなくてもいいと思うんです。それより巴美さんがとことん苦しんで悩んで藻掻いていることを僕は知っています。巴美さんの誰も知らなかったことを誰か一人でも知ることができたんです。そこに大きな意味があると思います』って」

「聖がそんなことを」

「そう」

 私は言った。

「その時、この子はどうしてここまで人に対して一生懸命なんだろう、優しい言葉をくれるんだろうって思ったんだ。不思議だよね……。ほんと、不思議な子だよ」
 
 ちょうどその直後、木村が入って来た所と同じ公園の入り口から、聖が走って入って来るのが見えた。
 私はその姿に心なしか嬉しくなる。

「すっ、すみません!」

 聖はそう言って息を切らしながら、手を膝に当てて何とか呼吸を落ち着かせようとしていた。

「大丈夫だよ。暑いんだからこんなになって走って来なくても」

「少し遅かったな」

 そう木村と二人で聖に声を掛けると、聖は私たちを交互に見ながら破顔した。

「忘れ物取りに行っただけなのに先生に捕まっちゃって、話してたら遅れたんだ。それよりこの人、僕の兄ちゃんなんです!巴美さん、驚きました?」

 聖は高揚した口調で私に聞いてきた。
 走ってきて疲れただろうにそんなもの吹き飛ばすくらいの気の高ぶりようだ。
 私はつい笑ってしまった。

「驚いたよ、そりゃ。もう何が何だかって感じで。青天の霹靂だよ。心臓に悪い」

「え、そこまで?」

 木村が振り返って私を見た。

「確かにそうですよね!巴美さんに兄ちゃんを会わせようか迷ったんですけど、色々考えた上で……、兄ちゃんもお礼言いたがってたし。あ、でももし困らせたのなら、ごめんなさい。一言、伝えてからの方が良かったかな」

 聖は一瞬兄の顔を見て言った。
 聖は聖なりに考えてくれて木村と引き合わせてくれたのだろう。
 その気持ちを私は無下にできなかった。

「……私は大丈夫だよ。もう会った後だしね。でも、こうしてまた聖くんに会えて良かった。私のお母さん、来週退院して帰ってくるんだ。多分だけど、もうなかなか会える時間ないかなって思ってたから。今までのように普通に私が外に出られるかもあやしいし。実際どうなるか分からないけど、とりあえず新しい生活体制を整えて様子みてみないと」

 私は心苦しい気を紛わせながら明るく努める。
 聖は驚きながら眉間に皺を寄せ、一瞬で憂い顔になった。
 今まで何度も見てきた顔だ。

「やっぱり、そうなんですか。毎週のようにここで話してたのに、寂しいですね」

「そうだね……。聖くんと話せた時間は私にとって宝物みたいに大事だったから。私も寂しいけど……、また少しずつ、歩き出せる気がするんだ。前よりは自分の中で気持ちを整理して折り合いを付けられるようにやっていける、と思う。それに、自分の中にある後悔をこれ以上増やしたくない。お母さんと、また一緒に笑いたいから」

 それは私の本心だった。
 どん底まで堕ちていたあの頃、死にたいとさえ考えていた自分がここまで気を持ってこられたのは明らかに聖のおかげだ。
 
 この夏、自分の中で起きた変化。
 人は生きている時間の中で、波に揺られ流されるように気が常に一定の場所に留まり続けることはかなわない。
 私も再び自分の意思とは関係なく、暗闇に堕ちてしまう時だってあるだろう。
 だが、それでもこの変化を胸に、少しずつ少しずつ前に進み続ける、そう生きていくしかないのだと思う。
 聖はまっすぐ私の目を見て言った。
 「僕も。僕にとっても同じ、宝物です」と。
 
「僕も来週からまた学校始まるんです。受験生なので、気が重いんですが」

「やることやればいいんだよ」

 そう木村が口を挟む。

「いや、そんな簡単に言うけどさ!普通に焦るじゃん?夏が終わると」

「そっか、聖くんも夏休み終わりか~。アドバイスとか特に言ってあげられないけど、緊張とか焦りはあって当たり前だし、みんなそうだから。自分だけじゃないって思えばいいんだよ。逆に木村くんは思ったよりさっぱりしているんだね」

「そうなんですよ。兄ちゃんはなんて言うか、どっちかっていうと淡々としている感じ?」

 私と聖は木村の方を見る。視線の先の彼は「そうか?」という顔をしていた。
 
 この時私は、そんな木村だから今までの人生やってこられたんじゃないかとふと思った。冷静沈着で目の前のやるべきことをやる。そんな部分が木村自身や家族の力になっていて、はたから見てもそれが感じ取れる。

「とりあえず、聖くんは受験生で忙しいと思うし、今後はどっちにしろお互い時間が取りにくくなるってことで。また、状況が落ち着いたら会えればいいよね」

 私は聖に向かってそう言った。

「そうですね。僕の方は普段何気ない時でも連絡してきて大丈夫なので、何かあったらメールください」

「ありがとう。聖くんもね。いくら忙しくても誰かと繋がってるって思えれば孤独にならない気がするから」

 聖も頷いた。
 
 私は不意に紫陽花が咲いていた植木の方に視線を移す。
 まだまだ暑さは続くが、夏もゆっくりと終わりに近づいていく季節になると、さすがに公園の紫陽花は茶色く枯れていた。あんなに鮮やかな色で咲き誇っていた姿との差が激しくて心が一瞬ざわめくが、これも生きている証だ。
 紫の指輪の一件で、今なら紫陽花が特別のように思える。
 そして紫陽花は聖との繋がりをもたらしてくれた。
 縁はこうして広がって、今日木村と再会した。
 私が生きている世界はとても狭いけれど、生きていさえすれば自分の気がつかないところで何かが少しずつ変わっていく。
 そう自覚した時、私は生き続けてみようと思える気がした。
 
 聖が私を見つけてくれた。
 知ろうとしてくれた。
 相変わらず、この先どう生きていけばいいのか分からないし、分かるわけもない。
 その中でも、自分で自分自身を照らしていくために、この出会いと繋がりが必要だったとそれだけは実感できた。

「紫陽花、もう枯れちゃいましたね」

 聖が私の視線に気づいて言葉を掛けた。

「うん……」

「紫陽花がどうかしたのか?」

 木村も視線を向けながら聞いてきた。
 私はどこから話せばいいのか分からず、結局こう答える。

「好きな花なの。一番、大好きな……」

「そうなんだ」

 納得したように黙った兄の顔を見た聖の目はどことなく笑っていた。
 
「巴美さん、このあとまだ時間ありますか?お昼ご飯一緒に食べに行きませんか?」

「え、う、うん。時間はまだ大丈夫だけど」

 私は聖がこの時間帯を指定した理由を知ると同時に、この流れだと三人で行くんだよなと頭の中で考える。
 木村。木村充かぁ……。
 まだ、私は木村と気楽にいられる関係じゃないことが心配だった。人見知りは精神的に疲れる。だがその反面、一歩、人間関係に足を踏み出すというのもあってもいいような気持ちもある。
 すると、聖が付け加えた。

「母さんも『食べてくれば』って言ってたし」

「えっ」

 私は二人を見ると、二人ともそう決めていたかのような表情をしている。 
 こういう時、向こうの親御さんからの言葉が強い後押しになるのはなぜだろう。

「せっかくだし、ね!どうですか?」

「う、ん。じゃあ、行こうかな……。誰かと外食なんていつ以来だろう」

 私はぎこちなくそう言うと、聖の顔が綻びた。
 そして木村と顔を見合わせて「じゃあ行こうか」と言って私たちは公園を出る。
 なんだか想像もしていなかったことになったなと私はどこか実感が湧かずにいた。
 
 前を歩く二人の兄弟はその話している姿が妙にしっくりきていて、二人が歩んできた道がどれほど過酷だったのか、周りは全く気づかないだろう。
 そういう意味で私自身も、私のことを知ってくれている人は今のところたった一人だけだ。
 
 誰かに甘えたい、でも甘えられない。
 頼りたい、でも頼れない。
 そういう状況を通り越して聖は現れてくれた。
 
 誰かに自分のことを知ってもらうことには勇気がいるし、最終的に自分を助けられるのは自分しかいない。
 その苦しみの中で、どんなに小さくても望みを持ち続ける。
 それに尽きるのだろう。
 
「兄ちゃんの奢りね」
 
 聖が楽しそうに木村と話している。
 こう見ると、やっぱり聖も年相応な一面があるんだと、その姿が新鮮に映った。
 
 まだまだ暑さは続く。
 天気がいい空の下、外の空気を吸って、私は歩いている。
 それだけですごく心地よかった。

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