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TRPGは人生に通ず

初体験は突然に……

 つい先日、人生においての初めてを体験することがあった。ただただぼんやりと生きてきた人間にふと舞い込んできた「もしよろしければ……」の声。人生の折り返し地点を目前に、まさか初めての体験があるとは思わなかった。
 そもそも幼い頃に見上げたその年代の大人なんて、森羅万象すべての理を知り尽くした、いわゆる神のような存在だと思っていた。しかし、いざわたし自身その年頃を前にして、そんなものはこの世に存在しないと知る。そもそも全てを知る者など居てはいけないとわたしは思う。知る努力を怠るのは、人が人として生きる目的を捨て去るようなものだと思っているからだ。死ぬまで探究心を忘れてはならない。そもそも死の向こうに何があるかなんて永遠に分からない謎である。それを知るのはこの世界に生きる限り到底無理であろう。
 

てーぶるとーくあーるぴーじー

 さて、ごちゃごちゃと書き始めたが、今回の初体験はTRPG。ついについにわたしはTRPGをプレイすることができた。お声をかけていただいた日向日陰さんには感謝の言葉しかない。

 TRPGについては、昔……数十年以上前からその存在は知っていた。入り口は何であっただろうか……クトゥルフ神話の存在を知ったぐらいからだっただろうか。とにかくまだ若い頃にソレを知り、いつかいつかやってみたいと思いはしていた。しかし、周りにソレを知る人は誰も居ない。その頃インターネットなぞ得体の知れない物であり、ちょっとお高いお賃金をいただいているお家にしかないものだったため、ソレを使って集うなど考えることすらしなかった。

 大枚叩いたクトゥルフ神話のルールブックを片手に、はてわたしは一体何から手をつければいいのだろうかと頭を抱えたものである。一人でできることはキャラクターを作ること。あれこれ考えつつ作成したキャラクターは生命が宿ることなくどこか遠くへ消えてしまった

 大昔のそんな体験からTRPGから遠のいていたわたしだが、今回初めて、ようやくTRPGをプレイすることができたのだ。「知識」と「経験」は違うが近い。知識の上に経験なのか、経験の先に知識なのか、それは人それぞれなのでどうこう云える立場ではないのだが、ともかくその2つは限りなく近い関係にあるだろう。TRPGについて多少知識があると自負していたわたしであったが、KPの話を聞くにつれ、なんと浅い知識しか持っていなかったのであろうかと赤面してしまう。TRPGの奥深さ、歴史の長さ、そこから生まれる数多くの探索者。本当に面白い。シナリオの数だけ、いや、数以上の探索者がおり、そしてそこから紡がれるストーリーは千差万別。まさしく「誰でも英雄になれる」最高の遊びだ。

 そう、「遊び」である。遊びに本気になりすぎてしまう人も居るようだが、あくまでも「遊び」ということを前提にしてプレイして欲しい。つまり「楽しむ」ということだ。プレイを始める前にKPから「楽しんでください」と言われた。この一言こそがTRPGの神髄であり、根幹となるものだろう。楽しみ方にもいろいろあるが、独りよがりにならないように、ということだろう。必死になりすぎて卓を同じにする仲間に目を向けられなくなれば、それは「楽しい」には当たらない。また、競おうなどと思えば己は楽しいかもしれないが周りは楽しくないであろう。そう、このゲームはただのゲームではない。人対人であり、互いにそれぞれが意識し合うコミュニケーションツールの1つだ。そうして成り立っていったものがTRPGだろう。

寝台特急プレアデスの悪夢

 今回はKPがPLと同時進行していただけたおかげで、わたし一人参加でプレイできたわけだ。本当に感謝の気持ちでいっぱいである。それと同時に、友達……欲しいと思うわけである。
 で、今回プレイしたシナリオは「寝台特急プレアデスの悪夢」

である。十分の一スケールクトゥルフ神話TRPGということで気軽に「1卓やろうぜ!」とできるようだ。内容についてはネタバレになるため詳しく書くことは控えるが、本当に初心者向けのシナリオであった。シナリオを楽しみながらクトゥルフ神話TRPGのあれこれを学んでいく。キャラクターについてもステータスや立ち絵などは用意してあるため、そこから好みのものをチョイスすれば良いし、そのほかの設定などは自身で書き込むこともできるという。至れり尽くせりなものであった。故に初心者にとっては始めやすいものであった。初心者のわたしが云うのだから間違いはないだろう。
 だが、取っつきやすいと云いつつも、始めたばかりで何をしていいのかわからないのは当たり前。移動を宣言し探索するべきか、それともまずは探索し状況を確認するべきか、KPの説明を聞き漏らさぬよう聴覚に神経を集中させ、己がとるべき行動を思案したり。そうして脳を酷使した結果……ダイスである。そう、運に全てを委ねるのだ。まさに人生そのもの。人の一生もまた運というダイスに左右されているとわたしは思う。わたしは必要に応じてダイスを振る。どんなにステータスが高かろうと、失敗するときは失敗する。その逆もまた然り。全てが好転するわけではない、生きたゲーム。奇跡的な逆転も絶望的な失敗も何もかもがTRPGには詰め込まれている。まさに人生ではないか!TRPGを人生たらしめる唯一の要因こそ、ダイスだとわたしは勝手に思っている。

「運」=「ダイス」

 この運というもの、意外と生きていく上で重要になるのではないか。「ツいている」「ツいていない」と簡単に云うが、その前には必ず何かしらの「運」がついて回っている。先ほど云ったように能力があろうと「運」がなければ上手くいかないことがあるだろうし、例え能力がなかったとしても「運」がよければ上手くいくことだってある。
 思い出してもらいたい。そんなとき「ツいてて良かった」「ツいてなかった、最悪」などと云ってはいないだろうか。それはダイスを振った証拠だ。ダイスを振らなかった者は、その現象の前に何があったから良かった、悪かった、と考えるからだ。時間としてその現象を捉える者は「運」の存在をあまり快く思わないだろう。しかし、そう考え出すと、正直心が辛くなる。良いことをすれば良いことが、悪いことには悪いことが……なんて考え続けると、いざその法則が崩れた時に「思ってたんとちゃううう!!!」と心が混乱を起こす。悪いことが良いことに変化するのであればいいが、良いことが悪いことに変わってしまったときは辛い。例えるならば必死で勉強していたのに、受験に失敗した。本来ならば受かるはずなのに落ちてしまった。そんなとき「どうしてだよぉぉぉ」と心の藤原竜也が叫ぶだろう。そんなときこそダイス……すなわち「運」のせいにすればよい。

運の使い方(我流)

 そう「運」の使い方はコレ。それのせいにすればいい。それだけだ。とりわけ悪いことに関しては「運」のせいにしてしまえば、自分の心を守ることができるだろう。もし運のせいにすることができないのであれば、それこそTRPGの出番だ。楽しみながら「ダイス」のせいにする練習をする。そうして己を守る術を身につけていけばいい。同じ卓を囲む「仲間」のせいにするのではない。あくまでも己の「ダイス」のせいなのだ。
 それは暴論、能力値だってダイスの成功率に大きく関係するはずだ!と云う人もいると思う。それはそうだ。そのための能力値。ここで生かさずしていつ生かす。だが、先ほども書いたが、どれほど高くても駄目なときは駄目。低くても良いときは良い。
 TRPGでは能力値は固定、もしくはアイテムなどで補強などあるが、現実はどうだ。道具を使うことで確かに成功率を高めることができる。しかし、その人の能力というのはそのときの環境や状況によって大きく変動する。例えば、突然の腹痛に見舞われながら薄暗い中で打ち込む文章と、腹痛もなく至って健康、適度に明るいところで打ち込む文章と、内容に差はなくとも、打ち込む人間の内側には大きな差があるのではないだろうか。そうした状況によって能力は上下するのが現実だ。もしそこに「運」が絡んできたなら……。その存在を強く強く感じることのできるものがTRPG。本当に面白いなと思う。
 さて、ずいぶんと長く書いてしまったが、とにかく一度はプレイしてみるのをおすすめする。コミュニケーションツールであり、心の守り方を知る方法であり、何より単純に楽しい単純に、楽しい。大事なことなので二度書かせていただいた。

KPの凄さ

 そして、最後にこれだけは書かせていただきたい。KPである日向日影さん……すごかった。シナリオを何度もやっているからと云っておられたが、それでも、鳥肌が立つぐらい凄いぞ。淡々と状況を説明していたかと思えば、NPCのまさに狂気という感情を乗せた台詞。あれは必見……。必聴だ。あれだけでもわたしはプレイしてよかった、と心から思える。台詞に感情を乗せるのはたぶん難しい。それが狂気であればなおさらのこと。なぜなら恥があるから。その恥をどこかに置いておかなければ狂気を演じることはできないだろう。だが、日向日陰さんはそれを演じきった。公演後、わたしを形作る全ての細胞がスタンディングオベーションである。ああ、本当に楽しかった。プレイから数日経っているものの、今でもその余韻が残っている。
 楽しい、楽しい、もっと、もっと、と脳が揺れる。
 いずれまた、プレイできるその日が来ることを心待ちにしている。
 そもそも、自分から動かなければならないのだが……

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