喪失との向き合い方は、それぞれ違っていい
しばらくこのアカウントから離れていた。
マイナスの感情ばかり書いていた自分にうんざりしたり、恐らく内容を読んでいないと思われる方からのスキやフォローに複雑な思いを抱いたりして、疲れてしまったのだ。
もうこのアカウントでの更新は止めるつもりでもあった。
しかし。
喪失感は簡単に癒せるものではない。
また、誰にでも打ち明けられるものでもない。
人によっては読みたくない、聞きたくないと思われるだろう。
だから、たまにはこちらにも書いてみる。
◆
昨年秋の夫の逝去以来、家中を片付けている。
家が片付いたから、貸倉庫や別宅の片付けにも取り掛かっている。
片付けるのは、夫の物もあるけれど、どちらかというと自分の物が多い。
どうしてこんなに片付けたいのか。
たぶん、変わりたいのだ。
今までの自分はもう捨て去って、新しい自分はどこにあるのか探したいのだ。
だから、今までいじましく保管していた過去の遺物と別れる。
一方で、夫の物も整理している。
亡くなって1年経たないうちに捨てるのは、冷酷な妻なのだろうかと思われそうだ。でも、なんでも捨てるわけではない。
例えば、洋服ならば、下着は処分したが、気に入っていたTシャツは衣装ケース1つ分ある。シャツやスーツ、よく着ていたジャンパーも保管している。
ジーパンは、股下のサイズが私にもぴったりなので、ありがたくいただいた。(身長は彼の方が3センチ高かったはずなのに(笑))
引き出しを、たまに眺めてみる。衣装ケースを1つ、減らせないかと思う。でも、下着さえ購入すれば、いつ帰って来ても暮らせる状態であることを確認し、私は満足して引き出しを閉める。
今はこれ以上、無理をしないことにした。
資料や本は、私の基準で取捨選択している。
私が理解できるもの。つまり、私も読みたいものや、夫の仕事の記録となるもの、いつか子どもたちに伝えたいものは保管する。
私の趣味ではない本や、よくわからない会議資料などは処分することにした。
基準は、「私が懐かしめるか」。
夫が何かを回想するために保管していたものは、処分する。
当初は夫の全てを保管しておきたい気持ちがあった。
今は、私が理解できる夫、私が取っておきたい部分の夫に関するものを保管すればいいと考えている。
あらゆる記事を見出しごとに整理して雑誌を制作するように、夫という題材を、”編集”している感覚だ。
それは、私にとって都合のいい夫なのかもしれない。
面倒なところ、わからないところを取捨した姿かもしれない。
◆
先日手に取った『コロナ下で死別を経験したあなたへ』(一般社団法人リヴオン発行)に、「感じ方、反応は一人ひとり違う」とあった。
どんな反応をするのかは、人それぞれでいい。
ならば、私は私のやり方で。
早い時期に夫の物を整理することに、一瞬罪悪感が射すことがあった。
でも、これは私なりのグリーフケアなのだ。