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「循環という鎖国 01」毎日ショートエッセー:古い羅針盤134章

このブログで以前触れた事がある「限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭」:ジェレミー・リフキン 、 柴田裕之訳の中で、商品の値段は究極値まで近々至り、そのもの自体に意味がなくなると書かれている部分がある。その筆頭頭が実は日々私たちがお世話になっている電気。太陽光を付ければ庭先(十分な空き地を持たないと無理筋だが)で無料の電気を産み出せる近未来的社会をリフキン氏はそう比喩した。このグローバル化の時代、産業はどんどんと高度化し、モノよりコト、ハードからソフトへと移行している。だが、それを叶える事が出来る個人や企業、国家は限られている。以前として、第一次、二次産業の担い手は社会として必須であることを、あのコロナ禍が教えてくれたばかりである。人の命ほど崇高で、且つコストでは語れない事をあのクライシスは人類に教えたはずだが、それも瞬時かも。「脱コスパ病、さらば、自損型輸入」:小島尚貴氏を読んでいる。

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