元プロの名将は学生に何を伝えたか? 書籍の仕事まとめ#29 古葉竹識さん著『耐えて勝つシンキング・ベースボール』
プロの監督が大学の監督に就任
古葉竹識監督は、広島カープをリーグ優勝4回、日本一3回に導きました。
そんなプロの名将が、東京国際大の監督に就任したのが、2008年。
4年目の2011年春には、創部47年目にして東京新大学リーグで初の優勝に導くと、全日本大学選手権で4強入りを果たしました。
東京新大学リーグといえば、創価大と流通経済大の2強が君臨するリーグ。
元プロの指導者が監督になったからといって、その壁を破るのは容易ではありません。
名将はいかにしてチームを強くしていったのか?
それが本書のテーマです。
古葉監督にとって、学生は「孫みたいなもの」でした。
学生からすれば、プロの技術を教わりたいという期待があったと思います。
しかし、古葉監督が説いたのは、「基本」でした。
「学生は応用ばかりしたがるけど、基本ができていないと、応用のしようがない。『基本をしっかりやれ』としか言いません」(古葉監督)
勝てるチームづくりは相手チームとの比較から
古葉監督にチームづくりについて訊くと、
「相手チームとの比較をする」という答えが返ってきました。
創価大、流通経済大など、リーグ内のチームと戦力を比較する。
投手陣を比較する。
一番から九番までの打者を比較する。
その差を、できるだけ詰めていく。
これは、カープ時代と同じ。セ・リーグの他球団と比較して、
足りないところがあれば、補っていく、鍛えていくという考え方です。
具体的には、どういうことか?
当時の東京国際大の選手を創価大、流通経済大の比べたところ、どうしても体格で劣っていました。
そこで、バントやエンドランなど細かいプレーや、次の塁を狙う走塁ができるように、成長させる。
そのために、紅白戦やオープン戦を増やして、実戦で使える選手を探す。
ゲームはもちろん、練習でもミスや思いどおりにできないプレーが出たら、原因を突きつめていく。
古葉監督は、選手がきちんとできているかどうか、常にチェックする。
できていなかったら、許さない。
たとえば、エンドランのサインでフライを上げてしまった。
ランナーの判断が遅れて、次の塁に進めなかった。
打球へのスタートが遅れて、次の塁を与えてしまった。
そういうちょっとしたことを許さない。許してしまうと、「まあ、いいか」という油断につながるからです。
そういう厳しさをもって指導した。その厳しさに「耐えて」、対応できる選手をリーグ戦で活躍したことで、チームが勝ったのです。
カープ時代の古葉監督というと、ベンチでずっと立っていて、柱の陰で見え隠れしているイメージがありませんか?
その姿は大学でも同じだったのですが、それは「そこで立っていると、選手がどういう野球をしているかがよく見えるから」なのです。
みなさんに喜んでもらえるように
古葉監督は、チームを強くしただけではありません。野球を通した人間形成にも力を入れました。
「学生が社会に出たときに、入った会社のみなさんに喜んでもらえるような、しっかりした人間性をつくるのが大事」と仰っていました。
挨拶、服装、受け答え、相手の目を見て話を聞く、などなど。
「口うるさいじいさんだと思われても、よくない態度を見ると怒る」と言っておられました。
大学のグラウンドには、さまざまな企業の人が訪ねてきます。
学生がきちんとした態度で爽やかに挨拶をすれば、「東京国際大の野球部は気持ちがいいですね」と言ってくれる。
すると、古葉監督はその話を部員にしたそうです。
「今日、こんなふうに言ってもらえたぞ。こういうことが、『東京国際大の学生を採用しよう』という話につながっていくんだからな」と。
「喜んでもらえるように」という言葉は、取材を通して何度も古葉監督から聞きました。
カープの監督時代もそうだったようです。
「ファンの方に喜んでもらえる野球をして、球場に足を運んでいただいて、球団の収入が増えて、それが選手に還元できるようにする。これが監督にとって大事な仕事」(古葉監督)
1975年に球団史上初のリーグ優勝を果たしたとき、広島で優勝パレードを実施。30万人以上が集まった。そのなかに原爆で家族を亡くした人が、遺影を掲げながら「おめでとう!」と喜んでくれたそうです。
この話をしてくださったとき、古葉監督の目は潤んでいました。
古葉監督は2021年に亡くなりましたが、僕はあの潤んだ目は今でも鮮明に覚えています。
ここから書籍の仕事が始まった
古葉竹識さん著『耐えて勝つシンキング・ベースボール』は、僕にとって初めての書籍の仕事でした。
ベースボール・マガジン社の編集のOさんから、「コウセイをお願いしたい」とお話をいただいたとき、「校正」かと思ったら、「構成」でした。
当時、僕はライターになってまだ3年目。
構成(ブックライト)の仕事を任せていただけるのはうれしかったのですが、「僕にできるのかな?」という不安もありました。
しかも、あの古葉監督の著書ということで、プレッシャーもありました。
取材の準備として、大宅文庫へ行き、古葉監督に関する記事のコピーを山ほど取って読み込みました。
「よい取材にしよう」「失礼のないようにしないといけない」と、必死でした。
古葉監督のお人柄とお話のうまさ、書籍編集担当のSさんのサポートのおかげで、本としてまとめることができました。
ライター生活16年目の今、こうして振り返ってみると、
「この本をスタートとして、書籍の仕事を1つひとつ積み重ねてきたんだな」
と、感慨深いものがあります。